何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

水村美苗『続明暗』の感想


(2004年11月読了)

 以前、ある程度まとめて漱石を読み、そのまま漱石のパロディやオマージュも探したりしたのだが、それらの発見順では4つ目になるだろうか。絶筆『明暗』の続き、という設定で書かれた小説である。『明暗』を読んだのが前年のことなので、傍らに原作を置いて読み返しつつ読んだ。

 読んだのは残念ながら新字新かなの文庫版だが、単行本は旧字旧かならしい。どこかで見かけたら確認はしてみたい。それはそうと、まずはあらすじを示す。

あらすじ

 東京から離れた温泉宿で、津田と清子は再会した。
 互いに相手の心中をはかりかねつつも、同宿の安永という男女を交え、数年前に女性の入水自殺があったという滝を見に行くなど、2人は表面上穏やかな日々を過ごす。安永たちが間もなく帰るということを知り、津田は清子と2人きりになれると内心ほくそ笑むが、清子に接近しようとする津田に対し、清子はやんわりと距離を置こうとする。
 一方、東京に残されたお延は、叔父の岡本からの援助で金に余裕ができたこともあり、夫不在の寂しさ紛れに呉服を買うなどして過ごしていた。しかし、津田に温泉行を薦めた本人である吉川夫人の訪問を受け、抑えていた不安がいや増していく。津田の滞在先に向かおうと金策を始めるお延だが、翌朝、改めて吉川の家に呼び出された彼女は、ついに津田の過去の秘密を明かされる。打ちのめされたお延は、雨の街を彷徨い帰宅する。と、そこには朝鮮行きの暇乞いに来た小林がいた。小林が夫婦の仲を裂こうと画策した犯人と考えたお延は喧嘩腰の応対をするが、小林が語ったのは思いもよらないことであった。ともかくも夫に会いに行こうと考えたお延は、暗い鉄路を出発する。
 出立する安永たちを送りがてら遠出した津田と清子は、その帰りの馬車の中で多少打ち解けて話す。しかし、話題が清子の夫(津田の友人でもある関)に及ぶと、津田は病院で偶然に関と会った時の事を思い出しながら、自分を捨て関を選んだ清子への攻撃を始める。清子は態度を硬化させた。
 それまでも津田が来たことを訝しんでいた清子は、東京に帰ると言い出す。引き留める津田。そして嵐の翌朝、清子を追ってきたあの滝壺で、津田はずっと問いたかったこと――なぜ、清子は自分から去り、関と夫婦になったか――を訊ねる。それに対する清子の答えは冷ややかだった。
 納得のいかない津田は食い下がるが、その時、お延が姿を現す。初めて3人が揃うが、ほどなく清子は去っていった。
 宿に戻った津田とお延の間に会話は少ない。津田の温泉行を唆したのが吉川夫人であることを知ったお延は、前日、雨に長く当たったこともあり風邪気味となって床に伏せる。津田はお延との関係を修復しようと試みるが、失われた信頼は回復せず、お延は押し黙ったままである。
 そこに津田達を心配した岡本の依頼を受け、津田の妹・お秀と小林の2人がやって来る。お秀は夫婦の自己保身に満ちた態度を批判し、小林はそんなお秀と津田達をとりなしつつ、津田の10円が朝鮮での仕事を得ることに繋がったことを感謝し、「お延さんを大事にしなくちゃ不可(いか)ん」と告げる。津田は請け合わなかった。
 翌朝、津田の体調は悪化し、お延の姿は消えていた。宿の者や、津田の依頼を受けた小林たちが探しに出る。津田は、お延が最悪の決断をしてしまったように感じる。どうにか起き上がりお延を探しに出た津田だが、ただ歩くしかできなかった。
 明け方、情けなさに宿を出たお延は、滝壺で死を思う。しかしそのまま夜を明かし、山中に分け入っていく。死ぬ気はなくなっていたが、生きたいとも思っていなかった。
 お延の絶望に何ら気を止めることなく、自然は広がっている。これからどうすればいいのか解らないお延の上に、地上、人間、世間から離れた天が、果てしなく広がるだけだった。

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宮本輝『錦繍』の感想


(2004年10月読了)

 タイトルの“しゅう”は機種依存文字のため、閲覧環境によっては正確に表示されない。残念だが略字と目される「繍」の字で代用する。
 およそ1年にわたる、両者の14通の手紙だけで構成された作品である。以下、とりあえずあらすじを記そう。

あらすじ

 かつて27歳と25歳の夫婦だった2人。その2人は、37歳と35歳という別々の人生を生きる2人となって、紅葉に燃える蔵王のゴンドラ・リフトの中で、つかのま再会した。1人は平安でない日々に疲れ果てた容貌で。もう1人は障害をもつ子の母として。そして殆ど言葉を交わすことなく、再び別れた。
 一瞬の再会を契機に、かつての妻――勝沼亜紀は、十数年ぶりにかつての夫――有馬泰明に手紙をしたため、泰明も躊躇いがちにそれに返信する。文通は当初、離縁の直接の原因となった泰明の不義――彼の旧知であり、深い仲となっていった瀬尾由加子についての回想を交えた、彼女からの無理心中に至るいきさつ――の説明として始まった。
 それは次第に、それぞれが生きてきた日々と現在を語る言葉に移り変わっていく。
 亜紀は書き綴る。泰明に去られた哀しみを。経営している建設会社の跡継ぎに娘婿をと考えていた自分の父の失望を。常連となった喫茶店モーツァルト」の焼失と再建を。別離の元凶となった由加子への憎悪と、息子・清高が障害児として生を受けたことの遠因としての泰明への怨恨を。「モーツァルト」での奇縁による東洋史学者・勝沼壮一郎との再婚と、通い合わぬ心を。そして、それら全ての元と言えるかもしれない、宿業めいた自らの因縁を。
 泰明は書き綴る。離婚以後のすさんだ生活を。心中の夜に、死にゆく自分を離れた所から見ていたという臨死体験を。現在ともに暮らしている令子の献身と、彼女の祖母が語ったという生と死の巡りあわせを。そして、令子の発案によるささやかな新事業の立ち上げと、それによって少しずつ回復していく心を。
 慕わしさとともにあった屈託は、手紙の応酬のうちに消えた。「生命の不思議なからくり」を秘める宇宙に、互いの幸せを心から祈りながら、2人はついに本当の別離の時を迎える。

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有栖川有栖『双頭の悪魔』の感想


(2004年10月読了)

 『月光ゲーム』『孤島パズル』に続く、「学生アリス」シリーズの第3作にして最新作(2004年時点)である。当時、いささかショックなことがあったために出不精となって読書時間が増え、体育の日にかかった連休中に読了した。
 ちなみに過去2作については以下の通りである。

 「いささかショックなこと」を詳らかに語ることはしないが、敢えて漫画を(ここを読みに来る方に対して、活字本では捻りが無さ過ぎるかと思われるので)例に挙げれば原秀則『部屋へおいでよ』や羽海野チカハチミツとクローバー』のラストに類すること、と言えば分かる方はお分かりだろう。別に取り立てて特殊なことでもない。

ハチミツとクローバー (10) (クイーンズコミックス―コーラス)

ハチミツとクローバー (10) (クイーンズコミックス―コーラス)

 

 そんな気持ちで読んだので、かなり暗澹たる内容が続く本書は、長さともあいまって多少堪えた。正しい評価が出来ないかもしれないが、ひとまずあらすじを記す。

あらすじ

 傷心のマリア――英都大学推理小説研究会(EMC)の紅一点・有馬麻里亜(ありま・まりあ)――は、京都の街から姿を消した。東京から上洛してきた彼女の父からも頼まれ、同級生でもあるアリスこと有栖川有栖(ありすがわ・ありす)、哲学科で4度目の4回生という立場にある27歳の会長・江神二郎、経済学部の凸凹先輩コンビである望月・織田のEMCメンバー4人は、マリアを連れ戻すため、彼女が連絡してきたという高知県の山奥へと向かう。
 辿り着いた夏森村は普通の村だったが、マリアは更にその奥、芸術家が集まって暮らしているという木更村で、住人の芸術家たちと共同生活をしているのだ。アリス達は、夏森村で暮らすマリアの旧友・保坂明美に話を聞くことから始める。
 来訪者を拒み続ける木更村。画家、音楽家、舞踏家、詩人といったその住人達にマリアは受け入れられてはいたが、その心はまだ癒え切ってはいなかった。いつか村を出て帰ることへ待望と怖れに、彼女は揺れる。
 マリアの心境とは無関係に、芸術家たちの楽園は徐々に暗転する。現状での木更村の主である木更菊乃と画家の小野博樹の、突然の婚約発表。それに端を発する波紋が、住人たちに広がっていく。
 些細なすれ違いから、村の住人にマリアへの取り次ぎを断られたアリスたちは、闇夜の雨に乗じて村への潜入を敢行、乱戦状態となる中で江神だけがマリアとの再会を果たす。木更村の誤解も解け、EMCの旅の目的は達せられたかと思われた。しかし、村の洞窟の奥深くで壁画に取り組んでいた小野が奇妙な死体となって発見されたことで、事態は急変する。
 さらに、折悪しく鉄砲水により、木更村と夏森村を繋ぐ唯一の橋が分断され、夏森村と外界をつなぐ道路も土砂崩れにより通行止めとなる。電話も不通となり、それぞれに孤立した2つの村で互いの安否も不明となる中、夏森村でもアリスたちと同じ宿に泊まっていたカメラマンの相原直樹が、死体となって発見される。
 木更村では江神とマリアが、夏森村ではアリス、望月、織田が。2つに分かれたEMCメンバーが中心となり、推理が同時並行される。死体の発見現場に漂う芳香と、ちらつく理想宮の幻想に真相がほの見える。
 江神が論理の道を辿り小野殺害の犯人を指摘し、アリスたちもロジックの海を彷徨った末に相原殺害の実行者を確定し得た時、木更村で第3の殺人が起こる。再び天候が悪化する中、ついに江神は真相に辿り着く。
 江神が「悪魔」と形容した3つの殺人の全貌が明らかになり、芸術家たちの楽園だった木更村は潰える。消防隊がロープを張る川の領岸で、ようやく顔を合わせたアリスとマリアは、お互いを想って込み上げる感情を自覚した。

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志賀直哉『清兵衛と瓢箪・網走まで』の感想


(2004年10月読了)

 「菜の花と小娘」「或る朝」「網走まで」という、解説の言う“3つの処女作”を含む作品集である。志賀直哉は高校時代に教科書か副読本か何かで「正義派」を読んだだけだったのを思い出し、ふと読みだした。
 上に挙げた3編の他に「ある一頁」「剃刀」「彼と六つ上の女」「濁った頭」「老人」「襖」「祖母の為に」「母の死と新しい母」「クローディアスの日記」「正義派」「鵠沼行」、表題の「清兵衛と瓢箪」「出来事」「范の犯罪」「児を盗む話」を収録。1編が短いので、これだけの収録数となる。
 数が多いので、1編ごとに概要と短評を付す形で書こう。

概要と短評

 「菜の花と小娘」。春の山。仲間から離れて寂しがる菜の花に頼まれ、小娘は菜の花を麓の村まで連れて行くことにする。小娘の手が温かすぎて菜の花は元気をなくなったので、小娘は菜の花を小川に流し、それについて駆けていくことにする。怖い思いはしたものの、無事に村に着き、菜の花は大勢の仲間と仲良く暮らすこととなる。
 微笑ましい童話である。作者が書いた順でいえば、この作品が真の処女作ということでいいと思う。
 「或る朝」。祖父の三回忌の前夜、夜更かしした信太郎は、あくる朝なかなか起きられず、起こそうとする祖母と険悪になる。ひどい言葉を投げつけた上、祖母が気を揉むだろうと信太郎は旅行を企てるが、祖母の素知らぬ態度にふと可笑しさと泣きたい気持ちが込み上げてき、涙を流すと清々しい気持ちとなった。
 自分(ここでは信太郎としているけれど)と祖母というモチーフは、この後も私小説的な作品で度々でてくるが、その最初の作品だろうか。孫が夜更かしし、寝坊を怒る祖母というのは今も昔も変わらないやり取りの気がする。
 「網走まで」。宇都宮の友人のところまで行こうと列車に乗る「自分」。相席になったのは子ども2人連れの婦人で、子ども達に振り回されながらも網走まで行くのだという。あまり幸せそうでない婦人の網走行きに「自分」は彼女の夫を自分の知人を重ねたりもする。宇都宮で下車すると、婦人から預かった葉書を投函する。
 なんというか乗客描写もの。志賀直哉は鉄道が好きだったのではないか。途中に間々田という駅が出てくるが、自分も数度行ったことがあるので奇遇を感じた。

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みうらじゅん『「ない仕事」の作り方』の感想

 テレビガイドというジャンルに属しながら、完全に他と一線を画している(というよりも、一線を越えていると表現すべきか)『TV Bros.テレビブロス)』という雑誌がある。家人が好きで買ってくるので、たまに私も読むのだが、先月出た2016年3月12日号(岩井俊二黒木華が表紙)の「ブロスの本棚」なる半ページほどのコラム記事でこの本が取り上げられていた。
 “本業不明”とでも言えそうな男みうらじゅんが、そういう生き方が可能であった根源である“今まで存在しなかった仕事(=「ない仕事」)を新たな仕事として成立させるにはどうすべきか”を公開した本である。家人が欲しいというので(加えて自分も「ブロスの本棚」を読んで興味を持ったので)池袋に行った折に購入した。

 ちなみに、先日からサイドバーに「今後の予定」として、これから取り上げる本を列挙するガジェットを付けたが、そこにこの本は入っていない。「今後の予定」には過去の読書記録のものしか入れないので、リアルタイムで読んだ本については、今後も本書のように突如として感想を述べることになるだろう。
 ついでにもう一つ「ちなみに」を重ねると、同じ「ブロスの本棚」で、本書と共通した部分がある1冊として『圏外編集者』という本も紹介されていた。これも本屋で手に取ったのだが、文章の感じがどうも好きになれない気がして購入は見合わせた。いずれ読みたいとは思う。

圏外編集者

圏外編集者

 

  それはともかく内容についてである。書店でもいわゆる“タレント本”の棚に置いてあって例の面白半分な調子の本だろうと思っていたのだが、著者のことを知る者なら驚きを伴って肩透かしを食らうような、真面目な本である。まずは目次から各章のタイトルを引き、概要を示そう。

概要

 第1章 ゼロから始まる仕事~ゆるキャラ「ない仕事」の実例として、著者の代表的な業績(?)の1つである「ゆるキャラ」がどう見出され、多くの人を巻き込んだブームになっていったかを紹介している。もちろん「ゆるキャラ」自体は、そう命名される以前から全国の色々なところにひっそりと存在はしていたのだが、著者がそれを新たに見出し、命名し、「これは面白い」と自らを洗脳しつつも蒐集し、雑誌に連載を売り込み、さらにイベントを企画して「仕事」になっていったというわけである。
 第2章 「ない仕事」の仕事術。著者の過去の仕事ぶりを挙げつつ、「ない仕事」に繋がる事物をどう「発見」するか、好きでも何でもない物についてどう「自分洗脳」してのめり込んでいくか、いかに名付け、世の中にどう伝え広めていくかを述べる。「発見」するには、見過ごされているものの良さに着目したり、好きであることの強みを押し出したり、敢えてマイナスな物事を楽しんでみたりする必要がある。
 ポップなネーミングは、マイナスだったり重すぎたり怒られそうなことでも、逆転させることができる。また、そこまでして作り上げた「ない仕事」を雑誌などの媒体を使って人々に伝え広めるためには、「一人電通」として、その編集者たちに接待するのがよい。これら「ない仕事」の根幹を成す「収集」と「発表」が1人でうまくいかなければ、自分が不得意な方面を補える人とチームを組むのもアリだ。そして「ない仕事」を成立させるためには、言い続けること、好きでい続けることが重要である。
 第3章 仕事を作るセンスの育み方。著者の最初期(子供時代)の「ない仕事」である怪獣スクラップから現在仕込み中と言われる「シンス(Since)」まで、年代順に振り返り、そのセンスの発端と変遷が語られる。一人っ子だった著者は「一人編集長」であると同時に自らの製作物の唯一の受け手でもあった。スクラップを作り、8ミリを撮り、漫画を描き、1日4曲作曲するなどして成長し、漫画家としてデビューするが、糸井重里の助言もあってオシャレ系のイラストレーターとなる。その一方で、イラストの余白に自分が興味を持っていることを小さく描くことが、「ない仕事」へと繋がっていったという。
 その物事ごとに見合った方法で発表する。何かやる時はその事物が主語で、「私」は無くす。飽きたと思っても「好きだ」と自分を洗脳して邁進する不自然な生き方をする。それらが、筆者の辿り着いた境地である。
 第4章 子供の趣味と大人の仕事~仏像。再びモデルケースとして、著者が少年時代から好きな仏像が、いかに仕事になったかが述べられる。著者はクラスでの競争率が低い(というよりも競争相手がいない)仏像博士の称号を持ちたいと考え仏像スクラップを始めるが、女の子にモテないという理由から一時遠ざかる。しかし時を経て、いとうせいこうと出会ったことで、それはまず『見仏記』として結実し、大日本仏像連合などのイベントや仏画、さらには東京国立博物館の阿修羅展の大混雑へと繋がっていった。

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