何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

梶本修身『すべての疲労は脳が原因』の感想

  現在、年末の進行による深い疲労状態で、これを書いている。疲労しているのは今に始まったことではなく慢性的なものでもあるので、どうにかできるかと思い手に取った1冊である。
 本書の内容は、テレビ等でもよく扱われるようだが、私は最近ほとんど地上波のテレビを観ていないので、著者の説に触れるのは本書が初めてだった。まずは目次に沿って概要を示す。

概要

はじめに 疲労を科学することとは

 疲労とは“エネルギーの枯渇”と考えられがちだが、それは多くの場合あてはまらない。がん細胞による悪質液、風邪におけるインターフェロン分泌といった原因もあるが、大半の疲労の原因は細胞のサビ――酸化ストレスである。そして、長時間の運動によって最も酸化ストレスが大きい身体の部位は、脳の自律神経中枢なのである。本書ではこの脳疲労のメカニズムと解消法を論じる。

第一章 疲労の原因は脳にあり

 疲労とは、医学的には痛みや発熱と並ぶ人間の生体アラームと考えられている。過労防止のための疲労定量化する研究によると、運動の結果、最も疲労するのは筋肉ではなく、脳の自律神経の中枢であることが分かった。
 脳において、実際に疲労が起こる部分(自律神経の中枢――視床下部と前帯状回)と疲労“感”を感じる部分(眼窩前頭野)が異なり、人間はこの疲労感を達成感でマスクしてしまえるためにランナーズ・ハイや過労死を引き起こしてしまう。同じ動作を続けると身体の一部がだるくなるように、同じ作業を続けると「飽きた」と感じるのは、脳(特に自律神経の中枢)の神経細胞疲労し、作業能率が低下しているサインである。「飽きた」と感じる前に小まめに休憩を挟むことで、脳の作業能率の低下を防ぐことができる。また、脳に入る情報の90%は視覚情報であり、疲労してくると視野が狭くなる。このため連続的な車の運転などは危険である。眼精疲労の原因も自律神経の疲労にある。
 飽きてきているのに集中力を高めようとすることは、疲労を蓄積させることに他ならず、危険である。スポーツ選手が「ゾーンに入った」状態は一部の神経回路ではなく脳全体を使っていると考えられるため、単なる集中とは区別される。従って、仕事の後のスポーツクラブや早朝からのゴルフなどは疲労を蓄積させる可能性が高く危険である。一方、スポーツや楽器演奏の反復練習が苦にならないのは、小脳が関わる「手続き記憶」の構築に当たるためである。
 脳の神経細胞は新生しないため、疲労が蓄積しやすい。放置すれば、生活習慣病メタボリックシンドロームなどのリスクも高まる。
 本書で取り上げる生理的な疲労の他に、慢性疲労症候群による病的な疲労もあり得る。この疑いがある場合、専門の医療機関を受診する必要がある。

第二章 疲労の原因物質とは

 疲労の原因物質というと、かつては乳酸が挙げられていたが、近年の研究では否定的である。真犯人として考えられているのは、脳内で神経細胞を攻撃する活性酸素である。紫外線も活性酸素を発生させるため、疲労軽減のためには紫外線に対策する必要もある。
 活性酸素神経細胞などを酸化させると、それによって疲労因子FF(ファティーグ・ファクター[Fatigue Factor])というタンパク質が増加し、疲労感として自覚される。この疲労因子FFをモニターすることで、疲労の度合いを計測することができる可能性がある。ヒトヘルペスウイルスの量も、同様の尺度として用いられる可能性が高い。
 疲労因子FFが体内に増えると、これによって傷ついた細胞を回復させようと疲労回復因子FR(ファティーグ・リカバー・ファクター)というタンパク質も増加する。しかし、この因子は疲労因子FFが急激に増加した時には反応し切れないため、日ごろ疲れていない人が急に徹夜をしたりすると、健康を損なうリスクが高いと推測される。
 これら疲労因子FFや疲労回復因子FRの分泌には、個人差が大きい。疲労回復因子FRの反応性は加齢などによって減少する(=疲れがとれにくくなる)ため、睡眠・食品・居住空間などを工夫して対応する必要がある。

第三章 日常的な疲労の原因はいびきにあった

 夜の睡眠中のいびきが原因で、昼間の眠気を訴える人がいる。いびきによる気道の狭小化は多くのエネルギーを浪費するし、睡眠中に休まるべき自律神経が酷使されることで疲労が蓄積されるのである。昼間の眠気がひどい場合、睡眠時無呼吸症候群SAS:Sleep Apnea Syndrome)と診断されることもある。
 いびきや睡眠時無呼吸症候群は、放置していると糖尿病や脂質異常症などの生活習慣病、高血圧症や心筋梗塞、心房細動などの罹患リスクが高まるとされている。居眠り運転がもたらす危険性も無視できない。睡眠時無呼吸症候群にはCPAPシーパップ)――鼻から空気を送り込み、気道を広げる療法――が有効である。単なるいびきに対しても、これを用いることで疲労回復に効果がある。
 入眠障害中途覚醒早朝覚醒、熟眠障害など、眠りに何らかの障害があることを睡眠障害と呼ぶ。睡眠障害の日本人は多く、厚労省は国民病と位置づけている。睡眠中は疲労回復因子FRの働きが疲労因子FFのそれを上回るため、疲労回復には充分な睡眠が不可欠である。睡眠のうち、脳の疲労を回復させるのはステージⅢとⅣのノンレム睡眠(徐波睡眠)で、これは一晩の眠りの最初の3分の1ほどである。
 睡眠の質を向上させるには、夕方以降には強い光を浴びないようにして体内時計のサーカディアン・リズムを整えたり、眠る1~2時間前に38~40℃程度のお湯で半身浴をしたり、眠る3時間前までに低脂肪で消化の良い食事をすると良い。カフェインやアルコールは、睡眠の質を低下させる。

第四章 科学で判明した脳疲労を改善する食事成分

 栄養ドリンクやエナジードリンクが広く飲まれているが、それらが疲労を回復するというエビデンス(科学的実証)はない。有効成分として謳われるタウリンは体内で必要量を合成でき、多量に摂取しても疲労を回復するわけではないし、カフェインやアルコールなどの成分も本質的な疲労回復にはつながらない。同様に、スタミナ食として捉えられているニンニク料理、ウナギ、焼肉なども、栄養不足は解消できるが自律神経が酷使されることによる脳疲労には効果がない。
 著者らのプロジェクトにより発見された、疲労を軽減する食成分として最も効果的だというエビデンスが得られたのは、イミダペプチドイミダゾールジペプチド)であった。この成分は鶏の胸肉に多く含まれ、マグロやカツオなど大型回遊魚の尾びれ近くの筋肉にも含まれている。動物の疲労しやすい部位に含まれるイミダペプチドは、活性酸素による酸化ストレスを軽減することで疲労改善をもたらす(抗酸化作用)。ビタミンA・C・E、ポリフェノールなどにも抗酸化作用はみられるが、それらが短時間しか作用しないのに対し、イミダペプチドアミノ酸に分解された状態で脳に到達し作用するため脳の疲労にピンポイントで作用できるという利点がある。
 1日に200mgのイミダペプチドを摂取することで、抗疲労効果が得られる。これは鶏の胸肉を100g摂ることで達成できる。サプリメントも販売されているが、粗悪品もあるため「イミダペプチド確証マーク」のあるものを選びたい。
 疲労回復効果のある成分としては、クエン酸も挙げられる。クエン酸は、細胞内のミトコンドリアがエネルギーを生み出す反応(クエン酸回路)を活性化させることで疲労を軽減させる。ただし、これは活性酸素から脳の神経細胞を守っているわけではない。効果的な抗疲労法は、疲れを感じる前に日常的に、イミダペプチドクエン酸を組み合わせて摂取することである。
 運動時の疲労回復に効果があるとされるBCAA(Branched Chain Amino Acids;分岐鎖アミノ酸)だが、エビデンスはない。むしろ摂りすぎると疲労感を強める恐れもある。ただし、筋肉に強いダメージがあるような運動をした時や筋トレなどをした時には筋肉内で消耗したBCAAを補うために摂取することは有効である。アルコールは活性酸素を発生させるが、少量(純アルコールで20g程度)の飲酒であれば利点もある。

第五章 「ゆらぎ」のある生活で脳疲労を軽減する

 森林浴では樹木の香り成分フィトンチッドが、水辺ではマイナスイオンが疲れを癒すとされているが、いずれも根拠はない。それらが疲労を脳軽減させるのは、風や光や温度や湿度といった「不規則な規則性」を持った現象――「ゆらぎ」を有するためである。
 人間の生体活動にも「ゆらぎ」があるため、快適と感じる温度や湿度で仕事をしていても、それが長時間固定されていると疲れやすくなる。著者らは公共施設やオフィスビルを対象に、光・温度・湿度・風といった要素に「ゆらぎ」を加えたシステムを提案している。夕暮れを味わったり、朝日で目覚めるように工夫することで、このシステムと同じようにサーカディアン・リズムを整えることができる。
 デスクワークの途中で立ち歩き、スポーツドリンクを飲むことでも「ゆらぎ」によって疲労を軽減できる。温泉は「ゆらぎ」に満ちてはいるが、遠方に強行軍で赴いたり、熱い湯に長時間全身浴するのは逆効果となる。香り成分として今のところ唯一、抗疲労効果が認められている「緑青の香り」を嗅ぐのも疲労を抑えることに繋がる。
 上記を踏まえた理想的な休日の過ごし方とは、以下のようなものとなる。前日は早寝し、静かな音楽や小鳥の囀り音で目を覚まし、日の光を取り入れ、鳥の胸肉とレモンやオレンジなどを摂り、近所の公園などに散歩に出かけ、家に戻ってソファーに横になってくつろぎ、頭を使わない漫画や雑誌を拾い読みしたり、親しい人と他愛ない会話を楽しんで過ごす。

第六章 脳疲労を軽減するためにワーキングメモリを鍛える 

 疲労に強い脳を作る方法として、「ワーキングメモリ」を鍛えることが挙げられる。「作業記憶」や「作動記憶」とも呼ばれるこの脳の働きは、複数の資料を読んでパソコンで文章を作成したり、自動車を運転したりするような常に入力される情報(短期記憶)を受け入れながら、過去の記憶・学習・理解(長期記憶)を結び付けて複数のことを同時に考えたり行う一連の動きを指す。
 「ワーキングメモリ」が優れているということは、脳全体を活用し、省力化・効率化して複雑な作業を行えるということである。この働きを強化することで、脳疲労を予防する体質になることができる。
 「ワーキングメモリ」は、1つ1つを積み上げて処理しようとする「ボトムアップ処理」ではなく、全体を俯瞰して効率的に処理しようとする「トップダウン処理」を牽引する。また、「ワーキングメモリ」は入力される情報に「タグつけ」をして効率化する。効果的な「タグつけ」をするには、その情報について喜怒哀楽といった感動を伴わせることが重要である。
 「ワーキングメモリ」を鍛えるには3つの方法がある。ものごとを多面的に見て感動を伴った「タグつけ」をすること、多くの人と会って会話すること、世の中の色々な物事に興味を持ち多趣味になること、である。

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おーなり由子『てのひら童話1』の感想


(2004年11月読了)

 休みの日に一気読みその4。
 おーなり由子氏は、もともとは少女漫画雑誌『りぼん』で連載していた漫画家である。さくらももこちびまる子ちゃん』の、割と初期の頃の巻に特別寄稿が載っていたと思うので、連載時期としてはそれくらいの頃だったのだろうと思う。私の知る漫画作品も以下に幾つか挙げておこう。

 本書は、そんな作者によるオムニバス形式の絵本というか物語付きイラスト集というか、そんな本である。単行本で発表され、後に文庫化されているが、私は文庫版の方を読んだ。
 春夏秋冬で分けられた4章に計25の話が収められている。数が多いので、いささか乱暴だが話ごとにごく短い概要を示すことにする。

概要

 早春と春の章
 「北の魚」。冷凍室で凍ったカエリチリメンが考えたのは北の海。生まれ変わってもまた魚になりたいと願う。
 「のはら」。女の子が日記を書いていると、犬の子が来て色鉛筆で黄緑色の野原を描いて帰っていった。
 「だっこ天使」。抱きしめ合ってばかりいる一対の天使。人と人がふと抱擁しあいたくなるのは、この天使の欠片の粒を身体のどこかに受けたから。
 「春一番」。女の子が温水プールに行った帰り道。ごうごうと風が吹いてみんな飛ばされてしまった。女の子も飛ばされてしまった。
 「川の音」。川辺で出会った、小さなお爺さんと犬。時間が流れる速さの違う彼ら。独りになったお爺さんは水面に何を思う。
 「うたいぬ」。住宅地で歌う野良犬。どこかの誰か、そのうちのいつか、のために歌う犬。
 「女の子」。田んぼで見つけた見覚えのある女の子。走った跡にはれんげの花が咲いていく。それはかつての自分自身の姿だった。
 「スカート」。スカートを履いてみたかった蛙の女の子。色々工夫しても皆に笑われ、それでもやっぱり、皆に見せに行く。

 夏の章
 「けむし」。毛虫が大好きな男の子。毛虫と仲良くなって遊ぶが、やがて毛虫は蛹になって夏になる。
 「あこがれ」。女の子の食欲がないのは、夢の中で魚に恋しているせい。近くなのに声が届かない。
 「初夏」。緑の中で生まれた子ども。森の奥で遊んでいると、葉っぱに懐かれ恐くなる。母は笑う。
 「おばあちゃん」。長生きのため、眼を閉じて食事をし、夏なのに厚着で昼寝するおばあちゃん。ぶつくさ言って煙たがられても、子芋の煮つけは美味しく食べる。
 「ひかるもの」。太陽が照りつける午後。ひまわりは太陽の輝きに驚き、それが照らすあらゆるものが光るのに感激する。嫌われ者のシデムシも例外でなく、それを教えられてシデムシは喜んだ。
 「夏の手」。炎天下で友人が来るのを待つ少女。帽子のゴムを噛むと感じる、天上から降る細かなもの。そして風とともに、大きな手が彼女を撫でにくる。飼っていた犬が死んだ時も、それは「イイコ」「イイコ」と撫でに来た。
 「水ねこ」。もともと魚に生まれる筈だったその猫は、だから川底で昼寝する。魚をつまみ食いし、川底から夕焼けを眺めて涙する猫。そんな猫の昼間の過ごし方を、家の者は誰も知らない。

 秋の章
 「手紙」。習っているチェロが上達せず、やめようと思っていた「僕」に手紙がきた。差出人の目が視えないその女の子は、宇宙の向こうで歌を仕事にしようと練習しているという。そして、「僕」のチェロを励みにしているとも。「僕」はチェロを弾き続ける。
 「てんとうむし」。「わたし」が、てんとうむしだった時、花が咲く音が聞こえた。その時の嬉しいような悲しいような香りを憶えている。今度は花に生まれたい。
 「はっぱ」。はっぱの子は春に生まれた。空を見て笑っていたが、大雨で兄や姉が飛んでいって怖くなる。木のかあさんは元気づける。秋の終わり、その子は嬉しそうに空に旅立っていった。
 「夕やけ」。夕焼けに顔を見せて立っていると、いつか「わたし」は透明になって空を飛ぶ。いたずらを幾つかして、想いを寄せながらも届かない人に、してみたかったことが1つ。あの人は行ってしまうけれど、それでも夕焼けは何でも透明にするから、だから大丈夫。
 「ひみつ」。クラスでは目立たない、大人しいつゆ子ちゃん。けれど彼女は空想を羽ばたかせて賑やかな夢をみる。誰にも教えない、ひとりだけの秘密。

 冬の章
 「雪の日」。冬の月夜、凍てついた夜空にスケーターが描くトレース(滑った痕跡)。ギャラリーの雪だるま達は大喜び。
 「冬のお客」。沼底で暮らす婆さん河童。独りで人恋しい彼女の元を訪れたのは、子ども達が取り損ねた蜜柑たち。
 「牛乳虫」。夜、カップに入れた熱い牛乳の中から、不思議な子たちが止めどなく現れる。それらは手をつなぎ、羽を振るわせてミルククラウンを描き、そして明け方の星になった。
 「しょーろり」。お風呂屋さんの裏の土手で、いつも「しょーろり」「しょーろり」とやってきて植物に笑いかけている不思議な女の子。「植物に笑いかけたらよく育つ」。彼女のその言葉に子ども達は打ち解けるが、大人たちは些細なことから子ども達を引き離す。女の子は居なくなり、けれども明くる春には不思議できれいな花が咲いた。
 「泣く星」。宇宙に浮かぶ小さな星。宇宙飛行士の「僕」は、地球の穴をふさぐため、その星の表面を切り取って持ち帰ろうとする。表面を切り裂かれ剥がされて、星は「ぽわぁー」と泣き声をあげる。その悲痛な声に「僕」は胸が痛くなるが、それでも手を離せずにいた。

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村上春樹 文/稲越功一 写真『使いみちのない風景』の感想


(2004年11月読了)

 当時、休みの日の深夜のモスバーガーで一気読みした本その3。写真つきの随筆である。というよりは、稲越氏の写真集に少しずつ挿入されている村上氏の随筆、と表現すべきだろうか。1ページ当たり長くても8行程度の文章が、概ね2ページにつき1ページの割合で挟まれている。
 そうした形式による100ページほどの表題作と、私が読んだ文庫版では、「ギリシャの島の達人カフェ」「猫との旅」という2つのごく短いものも収録されている。まずはそれぞれの概要を示そう。

概要

 「使いみちのない風景」。「僕」(村上春樹)の趣味は旅行ということになっているが、実のところ旅行はあまり好きではなく、実感には乏しい。なぜならば、自分がやっているのは旅行ではなく、定着するところを求めての「住み移り」――定期的な引っ越しだからである。旅行においては出会った風景に対して単に「素敵なところ」で済ませておけるが、「住み移り」においては、そこに住むことで生じる現実的な面倒を引き受けなければならない。
 そうした「住み移り」ごとに見てきた風景は、「僕」にとって、貴重な財産のようなもの。引っ越すたびに1つずつ長編小説を書いてきたので、ひとつの長編は独自の場所と風景を持っている。
 そうしたクロノロジカルな風景の記憶の他に、唐突に、身勝手に浮かんでくる風景の記憶もある。それは例えば、フランクフルトで見たアリクイの夫婦だったり、ギリシャのフェリーボートで見た水兵の目だったりする。それらはただの風景の断片で、何処にも結び付かず、何も語りかけない。アントニオ・カルロス・ジョビンの“Useless Landscape”という曲に倣って、僕はそうした風景を「使いみちのない風景」と名付けている。
 「使いみちのない風景」の使いみちを探ろうと、そこから物語を始めてみようと「僕」は試みるが、それは失敗した。しかし、それが引き金となって別の風景を描きたいと思うようになった。『世界の終わりとハード・ボイルド・ワンダーランド』は、そうして書かれた。それ自体に使いみちがなくとも、意識を別の何か大切な風景に繋がらせるというのが、「使いみちのない風景」の意味なのだろう。
 「僕」は旅行があまり好きではない。しかし僕らが旅に出るのは、そうした「使いみちのない風景」が、僕らには必要だからなのである。
 「ギリシャの島の達人カフェ」。昔、閑散期に仕事をしようと、ギリシャの小さな島に住んだことがある。そこでの唯一の娯楽は、港のカフェだった。大したカフェでもなかったが、そこでインスタントのコーヒーを飲み、船から降りてくる人たちを眺めた。カフェの客の半分は退職した老人たち、もう半分は「金はないけど暇はある」タイプの人々だった。そうした客に混じり、我々もぼんやりと過ごした。
 そうしたことを毎日繰り返すうち、空っぽな生活に馴染んだ「僕」は、東京でのあくせくした暮らしよりも今の暮らしの方がまっとうだと感じ、小説を書くことにすら疑問を抱くようになった。
 しかし、小説を書くことを放棄したはずもなく、別の島へ、次いでローマへと移り、書き続けた小説『ノルウェイの森』は完成した。
 『ノルウェイの森』の表紙を見るたび、「僕」はあのとき選ばなかった選択肢、あの港の「達人カフェ」でぼおっとしている自分を夢想する。
 「猫との旅」。「僕」の夢のひとつに、旅行好きの猫を飼う、というものがある。そんな猫なら、どこへでも連れていけるからだ。しかし、これまで多くの猫を飼ったが、そんな猫はいなかった。「僕」はそういう猫たちの興味の限定性を愛するが、それでもやはり、1匹くらいは旅行好きの猫を飼ってみたい。一度でいいから、そういう猫を連れて旅してみたい。

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矢口史靖『ウォーターボーイズ』の感想


(2004年11月読了)

 当時、休みの日の深夜のモスバーガーで一気読みした本その2である。その頃、映画『スウィングガールズ』を観たので、矢口監督作品の小説版を読む気になった。
 ちなみに『スウィングガールズ』は観たが、こちらの映画は観ていない。優先順位は低いのだが、いつかレンタルして観ようかと思う。

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 とりあえずは、あらすじを。

あらすじ

 唯野(ただの)高校水泳部は、在籍しているのが現在のところ部長の鈴木だけという超弱小部だった。その鈴木にしても実力はイマイチで、3年生最後の大会も惨敗してしまう。しかし、美人の佐久間恵先生が転任してきて水泳部顧問に着任すると、男子校の悲しさか、にわかに入部希望者が殺到する。
 ところが、佐久間がやりたいのが競泳ではなくシンンクロナイズドスイミングだということが判ると、希望者の多くは潮が引くように姿を消してしまう。逃げ遅れたのは、鈴木、元バスケ部で中途半端なことばかりしている佐藤、ガリガリな体型で肉体美に憧れる太田、ガリ勉で理屈の通らないことは許せない金沢、ちょっとフェミニンな雰囲気をもつ早乙女の5人だけ。
 本当にやるのかどうか、それすらおぼろげなまま、彼らは学園祭に向けてシンクロに取り組もうとする。が、そんなタイミングで佐久間先生の妊娠が発覚、産休に入ってしまい、指導者まで不在の状況となってしまう。
 男のシンクロなんて、という周囲の声に鈴木達も同調し、学園祭での発表は流れかけるが、プライドを刺激された5人は奮起、発表を決意する。しかし、教えてくれる人もおらず、意気込みだけでどうにかなるわけもなく、更にはとある事情から水を抜いてしまったプールの水道代まで請求され、文化祭のチケット前売りでしのごうとする始末。どうにか地元商店街のオカマバーのママ達から協賛を得ることに成功するが、演技の方は全く上手くいかず、アクシデントも重なって、体育教師の杉田からプールの使用を禁じられてしまう。
 失意のまま夏休みに入ると、鈴木は近隣にある桜木女子高のピーカン空手少女・木内静子と知り合う。学園祭でシンクロをやろうとしていることは秘密にしつつ、一緒に訪れた水族館で調教師の磯村によるイルカショーを見た鈴木は、磯村に頼み込み、諦めかけていた仲間たちに働きかけ、水族館での特訓を開始するのだった。
 シンクロの練習なのか雑用なのかよく分からない日々を過ごした彼らだが、気がつけばシンクロの実力はアップ。シンクロのことを木内に秘密にしている鈴木、告げられた早乙女の佐藤への思いといった波乱の種を含みながらも、ひょんなことからテレビで「男子高校生によるシンクロ」と報じられたことも手伝って、鈴木達は一気に有名になる。地域の期待が寄せられたことで晴れて学園祭の正式企画となり、部員も増え総勢28人となった部員たちの練習は、いっそう熱が入っていく。
 かくして水泳部は学園祭の前日を迎える。アクシデントにより、プールの使用が危ぶまれる事態となるが、桜木女子文化祭実行委員会の機転により発表の場を得、ついに演技が始まろうとする。観客の中に静子の姿を見つけた鈴木は戸惑うが、思い直しプールサイドに走る。高まるシンクロのテンションに、一切は昇華されていく。

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万城目学『鹿男あをによし』の感想

 既に『鴨川ホルモー』、『プリンセス・トヨトミ』は読んだのだが(いずれ過去の読書として感想を書く)、作者の第2作に当たる本書は手つかずだったので読む。作中では神無月すなわち10月が重要な時期として扱われているのだが、その時期に読んで感想を書けるのは僥倖である。
 文庫版の解説を書いているのは故・児玉清氏。読めば以前から万城目ファンだったようだし、本作がドラマ化された折にはリチャード役を演られたとのことである。未視聴だが、DVDにはなっているようなので、どこかで見つけたら観たい。

鹿男あをによし DVD-BOX ディレクターズカット完全版

鹿男あをによし DVD-BOX ディレクターズカット完全版

 

 以下、まずはあらすじを示す。

あらすじ

 関東の大学の研究室に居た「おれ」は、とある失敗から居づらくなり、「きみは神経衰弱だから」と教授に勧められて、2学期の間だけ高校で物理の教師をやることになる。職場は奈良。奈良女学館高等学校という女子高である。
 1年A組の担任として赴任したものの、生徒の堀田イト(ほった・――)からは初対面なのに何故か邪険にされ、「おれ」は面食らう。彼女の先導か、他の生徒達にもからかわれ、どうもうまく生徒たちとコミュニケーションが取れない。思わず腹具合がおかしくなるが、下宿している家の孫で同僚の美術教師でもある重さん――福原重久や、教頭のリチャードこと小治田(おはりだ)、歴史教師の藤原などに助言を貰いつつ、「おれ」の不慣れな教師生活が続く。
 姉妹校である京都・大阪の女学館との間で60年にわたって行われている、運動部の交流戦“大和杯(やまとはい)”を間近にひかえた9月末奈良公園の大仏殿裏で、「おれ」は鹿に話しかけられる。「さぁ神無月だ――出番だよ、先生」と。
 あまりに現実離れした事態を受け入れず、リチャードが持ち出してきた剣道部の顧問を引き受ける件など考える「おれ」だったが、再び眼前に鹿は現れ、「おれ」が「運び番」に選ばれたと語る。それは、1800年前から60年に1度おこなわれてきた“鎮め”の儀式に用いられる“目”――通称サンカクを、京都にいる狐の「使い版」である女性から受け取り、奈良まで運んでくるという役割だった。
 剣道部の顧問を引き受けた「おれ」は、大和杯直前の親睦会で京都に赴き、そこで鹿の言った通り、女性――京都女学館の剣道部顧問・長岡から、あるものを手渡される。しかし、それは鹿の言う“目”ではなかった。
 「大阪の鼠に“目”を奪われた」と言う鹿を、今度こそ己の神経衰弱がもたらした妄想と決めつける「おれ」だったが、徐々に顔が鹿になっていく「印」を付けられ、いよいよ本気でサンカク探しを始める。鹿は、“鎮め”の儀式が無事に行わなければ、日本が滅びるとまで言う。
 サンカクとは、どうやら大和杯で争われる剣道の優勝プレートらしい。そう当たりをつけた「おれ」は、マドンナ率いる常勝不敗の京都女学館剣道部からプレートを奪取すべく、剣道部の指導に当たる。切り札は、突如として剣道部に入部してきた堀田である。
 大和杯当日、剣道の試合は熾烈を極める。サンカクは奈良女学館の手に収まるのか? いや、そもそも、それは本当に鹿の言うサンカクなのか――?
 ――1800年前の偉大なヒメがもたらし、そのヒメのために攪乱された“鎮め”の儀式は今度もどうやら執行され、神無月の終わりと同時に「おれ」は東へと帰る。唐突に見送りに現れた堀田の、手荒くも美事な餞別を受け取って。

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