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何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

花村萬月『あとひき萬月辞典』の感想

(2003年12月読了)

 以前『ゴッド・ブレイス物語』(当該記事)を読んだが、その花村萬月のエッセイや小説をごった煮的に集めた本である。ちなみにAmazonでは書影が出てこなかったので、今回は画像がない。何か対応策を考えようとは思うのだが。
 それは置いておいて変な本である。「辞典」とある通り、「匂い」とか「音楽」といった言葉ごとに章が区切られ、そこに1つ以上のエッセイなり掌編なりが置かれている。もっと大部になる予定だったようだが、発表先などと折り合いがつかず、全9章というこじんまりとした構成になったという。
 とりあえず目次を以下に示しておこう。

【物書き】ワイルドサイドを歩け
【匂い】臑肉のシチュー、ポルトガル風(小説)
【移動】神戸にて(『二進法の犬』取材記)/初走りなんで旅、するの?
【鬱屈】富士の鱒釣り(小説)
【音楽】わが愛しのリヒテル/座右のメロディ
【未然】これからはこう書く(ロング・インタビュー)
【表現】『皆月』によせて/腹立ち日記私のこの一冊憑かれてしまった(大藪春彦先生と私)『らせん』についてカーテンコール輝いていたんだけれどね
【感染】蝕(小説)
【卑近】わが母校還暦を迎えたら…きんたまについて母の死あまり威張るなよ

  ご覧のとおり小説は3本だけである。「臑肉のシチュー…」は自由なバイク少年と年上の女性の交わり、「富士の鱒釣り」は作者が嫌いだというフライフィッシングの迫力と命の位階について、「蝕」は北海道をツーリング中の青年を襲った感染、といったところだろうか。「富士の鱒釣り」は青森出身の出稼ぎ男と2人で釣りに行く話だが、だらだらと弛緩した雰囲気の中に命への尊崇があっていいと思った。

 それ以外の大半は、インタビューなどもあるが概ねエッセイと言っていいだろう。それなりに挑発的な口調で、主に自らの生い立ちや、小説や音楽や絵画といった芸術について思うところを書いている。その口ぶりに時に不快すら感じたが、感心したところもあった。基本的には仕事というものに真面目な人なのではないかと思う。
 色々な雑誌の特集などのため、特定のテーマで頼まれたものも結構あるようだった。そうした文章は、ひねくれた書き出しと、にもかかわらずサービスしてしまう中盤と、それを照れる終盤という様式を備えており、幾つも読むうちに可笑しくて笑った。そういえば先日の『リング』当該記事)および『らせん』(当該記事)を褒めちぎった文章もあり、シンクロニシティめいたものを感じた。

 この本の中核はというと、分量的にも質的にも冒頭の「ワイルドサイドを歩け」ということになるだろう。この80ページほどの連載エッセイの趣旨は花村氏の生い立ちということだが、過激な来歴を公にすることへの恐れからか照れからか、氏の考える小説観の話へ脱線し、更には読者から小説を投稿させ批評する(氏はもともと作家のプロデュースに興味があるようでもある。しかし『ダ・ヴィンチ』の連載で「みんなも本なんか読んでないで、どこかに出かけなよ」と書けるのはすごいな)。
 ついでに、ちょうどこのエッセイの直後に氏の小説が入っているので、「例えばこういう風に書くんだよ」と言われているかのような効果を感じられもする。
 この辛辣な批評で言われているだけでなく、他のエッセイでもしばしば出てくる言葉として、「自分のことを書くな」「新しい倫理を小説中で創る」というものがある。私も素人小説を書いたことがないではないので、この辺りはやはり気になる。
 前者は何となく分かる。かつて(今もだろうか?)花村氏が少女小説の雑誌『コバルト』で投稿の講評をしているのを見て驚いたことがあるが、そこでも言っていたことである。作者の身の上を書くだけでは、読者の訴求がない、ということかと思う。
 しかし後者が分からない。倫理というのは道徳とかモラルというように言い換えられると思うのだが、新しい倫理、多くの読者にとって未知の倫理というのは、倫理たりうるのだろうか。既に多くの人に共有されているものが倫理だとすれば、矛盾じゃないだろうか。例えば最後に【倫理】の章を設けて、何か書き下ろしてくれたら、なお良かったのではないかと思う。

 

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