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何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

松村栄子『僕はかぐや姫』の感想


(2004年7月読了)

 「至高聖所(アバトーン)」という作品で芥川賞を受けた作者の、恐らく処女作となる表題作と、「人魚の保険」を収録した1冊である。ちなみに、何年か前のセンター試験の国語で表題作の一部が出題されたという。以下、まずあらすじ。

 「僕はかぐや姫。地方都市で進学校の女子高に通う3年生の千田裕生(ちだ・ひろみ)。彼女も、周囲の数人も自らを「僕」と称していた。腐れ縁でお互い痛いところをつつき合う仲の“優等生”原田、よく似た心情を抱えて接近したものの今は空虚な笑い方をするようになった辻倉尚子、生物講義室の机を介した文通で親しくなった“恋人”の狭山穏香、10日で別れた元彼の藤井彰。そんな周囲の人物と交わりながらも、裕生は誰にも寄り掛からず、反体制的でも優等生的でもなく、凛として孤高に生きようと考えている。それは、男たちのものにならず、誰にも心の底を明かさぬまま月に帰ったかぐや姫に通じる心境だったのかもしれない。
 裕生が部長を務め、原田、尚子も所属している文芸部は、部誌などの打合せのため、夏を前に校内で合宿をすることになる。合宿の直前に思い出されたのは、去年、隣の男子高の文学部と合評会をした時、『源氏物語』の女性たちの誰に共感するかを訊かれたという不愉快な記憶だった。粛々と合宿は進んだが、夜半、遅れた尚子が警官を伴ってやってくる。無力感に苛まれる裕生は、夜明け前、「僕」という一人称を失う。それは哀しく痛かったが、「わたし」になった裕生はひそやかな満足感をもって「僕」を見送るのだった。
 「人魚の保険」。オーストラリア人で母国のリゾート会社に勤める「僕」(Oliver K. Grootel)は、会社が日本の不動産会社と提携することになったため交換派遣されて来日する。地震に驚きつつも、「僕」はモデルをしている泉と知り合い、関係を結ぶ。
 会社が住むところを用意していなかったので、「僕」は部屋を探すが上手くいかず、泉のマンションに住むことに。泉は、いずれ日本を出るつもりで自由な毎日を過ごしていた。「僕」はそんな泉に改めて惹かれ、隣室に住むトルコ人のトルファンとは微妙な三角関係を築く。仕事に慣れるにつれ、「僕」は日本の企業文化にも慣れていくが、ある時、泉のかけているある“保険”について知る。それがあるが故に、彼女は奔放でいられたのである。「僕」は困惑し、トルファンとは少しだけ仲良くなり、そして半ば別れるつもりで置いてきた母国の恋人にクリスマス・カードを書こうと思う。

 表題作からいこう。17歳から18歳にかけての女子高生が何を考えて生きているのか、がまずまず描かれているように感じた。“性以前”から少しだけ女性となった自分へ、という変転を描くのに、18歳を間近に控えた裕生を主人公としたところが心憎い。文庫版の表紙が恐らく彼女の肖像ということになるのだろうが、瑞々しさと不安定さが滲み出るような名イラストだと思う。
 全体の構成としては、多少難があるのではと思う。狙った効果なのかもしれないが、文芸部のエピソード以外では時系列が曖昧な感覚を受けた。また、恐らく本作の肝となるラストの「僕」から「わたし」になる裕生の心情を、もう少し簡潔に記してもよかったのではないかとも。女子校を相対化する効果のある男子高の文学部との対話シーン、元彼の藤井彰との会話などといった辺りも、深く書いて欲しかった。
 細かく言うと色々あるが、しかし高校生の自意識過剰さや、それを精一杯難しく表現しようとする感じが嗅ぎ取れて、そこは面白かった。同じように女子校を描いた『マリア様がみてる』(当該記事)とはそうとう毛色が違うが、対比してみると興味深いかもしれない。

 「人魚の保険」の方は、もう少し一般的な小説という感じがした。表題作より構成も解りやすい。“人魚”というのが日本人女性および日本列島の比喩なのだが、日本列島と人魚を結び付けたことはなかったので新鮮だった。
 泉は“保険”によって自分の人生にある種の保証を付加しようとしたわけだが、自分にはあまり魅力的な人物と思えなかった。“いつか終わることを思うからこそ、今が輝く”というのは極めて日本的な考えだと思うが、そこから抜け出そうとした泉は、事情があるにせよやはりあまり共感できなかったのである。
 しかし、主人公をオーストラリア人にする必要は果たしてあったのだろうか。逆に言えば、オーストラリアらしい要素があまり見られない点が気になった。

僕はかぐや姫 (福武文庫)

僕はかぐや姫 (福武文庫)

 

 

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