何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

夏目漱石『文鳥・夢十夜・永日小品』の感想


(2004年1月読了)

 漱石の文芸書(論文などではないもの)はこれで全て読んだことになる(一部2002年以前に読んだものがある)。

 表題の他、職業作家になり所用で上洛した際の第一印象を描いた「京に着ける夕」、ロンドン留学中の愚痴めいた内容を手紙文で綴った「倫敦消息」、同じくロンドンで初めて自転車に乗ることになっての苦闘を自虐を交えて語る「自転車日記」も収めている。

 秀逸は、やはり表題作というべきか、「文鳥」「夢十夜」である。それに「永日小品」として収められた、随筆とも日記とも小説ともつかないような25の小品のうちの「変化」「クレイグ先生」辺りだろうか。順に述べよう。

文鳥」の感想

 「文鳥」は随筆的な小説である。弟子の鈴木三重吉と思われる人物に薦められ、文鳥を飼いだした「自分」(≒漱石)の日常を描きつつ、文鳥に「自分」がかつて親しんでいた「美しい女」を重ねて偲ぶという構造をしている。

 この「美しい女」というのは、漱石の養父に当たる人物の再婚相手の娘がモデルと言われているが、漱石が彼女にどんな思いを抱いていたかを、以下の一節はよく表していると思う。少し長いが引用しておく。

昔し美しい女を知っていた。この女が机に凭れて何か考えているところを、後から、そっと行って、紫の帯上げの房になった先を、長く垂らして、頸筋の細いあたりを、上から撫で廻したら、女はものう気に後を向いた。その時女の眉は心持八の字に寄っていた。それで眼尻と口元には笑が萌していた。同時に恰好の好い頸を肩まですくめていた。文鳥が自分を見た時、自分はふとこの女の事を思い出した。この女は今嫁に行った。自分が紫の帯上でいたずらをしたのは縁談のきまった二三日後である。

 何度も書いた気がするが、漱石の作品では友人の妻だったり嫂(あによめ)だったりという、手の届かぬ(届いてはいけない)存在への恋情が頻出する。主人公のそうした感情の出所の少なくとも一つとして、上記の文章は書かれたのではないかと思う。

夢十夜」の感想

 「夢十夜」は大半が「こんな夢を見た。」で始まる全10編の幻想的な小説群である。『神様』(当該記事)の川上弘美が愛読していたというのも頷ける。『草枕』(当該記事)などに通じる美文的な文体で、どこか不安定な感じを孕んだ空気が醸し出されている。 
 この作品を原作としつつ、大幅な翻案のなされた『ユメ十夜』というオムニバス映画がある。それぞれ違った監督が撮っているのだが、私は「第一夜」「第六夜」「第十夜」あたりが好きで、特に松尾スズキ監督・脚本の「第六夜」は、運慶が仁王を彫る話をダンサブル(!)にアレンジしており度胆を抜かれた。

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 解説にもあったが、これら10編を精神分析的に読むことで、以後の作品へと向かう意識を読み取れるのかもしれない。実は、非日常さ、不吉さという点では、私は「京に着ける夕」にも同様の印象を受けた。京都の夜の静けさを描いた随筆に、夢幻的な小説である「夢十夜」と似たものを感じるのは不思議な感じがする。

「永日小品」の感想

 「永日小品」は確かに「小品」と呼ぶしかない文章の集合体だが、「変化」「クレイグ先生」はいずれも随筆的な色合いの濃い作品である(他に純然たる小説風なものもある)。
 前者では、漱石の友人で満州鉄道総裁となった中村是公との若い頃の思い出が、後者では留学時代に個人指導を受けていたシェイクスピア研究者のウィリアム・クレイグのことが書かれている。是公との思い出は懐かしさがありつつも少しほろ苦く、クレイグ先生の方はユーモラスな書きぶりだがやはり幕切れが淋しげである。

文鳥・夢十夜・永日小品 (角川文庫クラシックス)

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