読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

ドストエフスキー『地下室の手記』の感想

小説 海外文学


(2004年5月読了)

 本当は先に『悪霊』の方を読み始めたのだが、作者の書いた順序的にこっちを先にした方がよさそうなので優先的に読む(そして『悪霊』の方は未読のままである…)。この作品から、ドストエフスキーは後期の大作群へと向かう。いよいよ本領発揮というところか。まずはあらすじを以下に。

  40歳の「ぼく」は、かつて意地悪な小役人だったが遺産が転がり込んだのを幸いに退職し、ここ20年ほどはずっと地下室で暮らしている。自意識過剰で、社会から除け者扱いされてきたことを恨み、しかし自意識過剰ゆえにさも“どっちでもいいんだけどさ”というポーズを取りながらも、「ぼく」は現在の社会を批判する。曰く、理性によって文明が進歩していくというが、疑わしい。曰く、「二二が四」という明白な計算が一から十まで敷衍され、全ての人間の全ての行動が合理化される時が来るとは思えないし、もし来たとしても、人間はそこから再び気ままな恣意を欲して調和を乱すだろう。曰く、そしてそれは、必ずしも不幸でも悪でもない。
 ぼた雪が「ぼく」に思い出を追憶させる。それは、「ぼく」が若いころに経験した、3つの出来事だった。

 まだ24歳で役人として働いていた「ぼく」は、自意識過剰で周囲に疎まれていた。あるとき街中で将校に押し退けられたことを根に持ち、その将校のことを小説に書いて投稿したり、街中で再会すれば今度こそ向こうをどかせようと意気込む。ついに双方は対等な立場ですれ違い、「ぼく」はそのことに満足するのだった。
 またある時は、寂しさに学生時代の友人シーモノフのもとを訪ね、同じく学校時代の友人スヴェルコフの送別会が行われることを知る。貧窮にも関わらず「ぼく」は勢い込んで参加を申し出るが、当日、会が始まる時間の変更が伝わってこなかったり、それに気分を害した「ぼく」が持ち前の逆走ぶりを発揮し、一同を激怒させる結果となってしまう。
 一次会を終えたシーモノフやスヴェルコフたちが洋品店(非合法の売春宿)に行ったのを知り、「ぼく」は後を追う。そこで出会った娼婦リーザを、「ぼく」は意地悪くののしるが、意に反してリーザは「ぼく」の言葉に共感し、「ぼく」は自身の住所をリーザに渡す。
 従者のアポロンとギクシャクしているところにリーザが訪問し、彼女の中で英雄視されていたと感じていた「ぼく」は、実際には貧窮しており従者もまともに扱えないことに動揺し、ヒステリーを起こす。リーザはそんな「ぼく」を愛する素振りを見せ、「ぼく」はリーザに5ルーブリ札を渡すが、リーザはそれを取らずに辞す。激昂した「ぼく」はリーザを追いかけるが、彼女はもう見つからなかった。
 現在の「ぼく」は改めて後味の悪さを覚え、この「手記」を打ち切ろうと考える。

 一言で表せば、ひねくれものの独白といったところだろうか。前半は小説というよりも評論で、後半が物語という形式である。島田雅彦の『僕は模造人間』を思い出すような(むしろ順序としては本作が先であるが)、恣意と意に逆行して暴走してしまう人物の手記である。全てを裏切り続け、ダメだと分かっていながら自らを変えられず、しかしながらそれをそこまでの罪悪を感じることなく日々を生きる。そんな「ぼく」の生き方は、某精神医学雑誌に載っていた通り、統合失調症人格障害の表れと考えてよいのだろうか。とすれば、ある程度の自意識を有する人(それは殆どすべての現代人とも言えるだろう)は皆、統合失調症的であり人格障害的である、ということか。

 前半の一部にみられる、理性に反発する語り手の姿は、プラトンの『国家』の中でソクラテスが論じている“気概”の表れと言えなくもないだろう。また一方では憎悪=愛情のようなことが書かれているが、それはつまり、無関心よりは感情の触れがある方がまだしも好ましいということを意味するのか。  

国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)

 

 後半の物語部分の肝は最後のリーザとのやり取りだと思うが、しかし学生時代の友人たちにわざわざ絡んでいって怒られるという中盤のエピソードも印象深い。もう止せばいいのに、と自分でも思いながらも、絡み、意地の悪いことを言い、さらには金を貸すようねだるという酷さに、思わず笑ってしまった。作者にそういう意図はないと思うのだが、この下りや最後の方の従者アポロンとのやり取りには、真剣さが突き詰められて喜劇に転じている面があるように思えた。
 新潮文庫版で読んだのだが、どうも訳文が分かり辛い部分があるように思えた。今ならば光文社古典新訳文庫など他に選択肢も多いし、始めて読まれる方は比較してみるのもよいかもしれない。

 ちょうど本作の初読時(2004年)、ネット上にどこかの私大に通う医学生が運営していたサイトがあったのだが、この作品を思い出すとそのサイトも芋づる式に思い出してしまう。というのも、そのサイトの作者の自意識過剰ぶりが本作の「ぼく」に重なるからである。あまりここでは書けないような逆走っぷりが、可笑しくも痛々しい名サイトだったと今でも思う。
 確か「ペンタ」と名乗っていたサイトの作者氏。サイトはなくなってしまったようだが、今現在は医師になられたのだろうか。 

地下室の手記 (新潮文庫)

地下室の手記 (新潮文庫)

 

 

広告を非表示にする