何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

吉永良正『「複雑系」とは何か』の感想


(2004年4月読了)

 過去の読書記録は2004年9月まで進んでいるが、同年4月に読んだこの本を入れ忘れていたので、新年最初から締まらないが後追いで載せることにする。
 読書会(どういう集まりの読書会かは『唯脳論』〔当該記事〕を参照)の課題図書その3。今世紀の科学として注目される「複雑系」について紹介した本である。ちなみに手元にある2004年当時の本の装丁は、クリーム色の地にシダの葉とマンデルブロー集合がコラージュされた図案があしらわれている。
 この本を読んだあと、ほどなくして講談社現代新書の装丁は、全点一括で上に示したようなポストモダンなデザインに変更されてしまった。スタイリッシュだし、個別に図案を考えるよりも制作上は楽というのも分かるが、私はやはり本ごとに個性が出る先代のデザインが好きである。
 横道に逸れたが、まず当時の読書メモ(を分かりやすく加筆・修正したもの)を載せる。

 プロローグ 失われた〈世界〉を求めて。映画化もされた『ジュラシック・パーク』で登場し、続編『ロスト・ワールド』でもカオス理論を説明する数学者マルカム。彼の語る「カオスの縁」とは何か。その無秩序と秩序の間に伸びる生命の尾根道について述べることが、「複雑系」の成立と展望を語ることとなろう。
 「複雑系」の抽象性は、その抽象性ゆえに生物学的システムはもとより、物理学的、化学的、経済学的、気象学的……数多の領域に適用可能である。
 I 複雑系」のほうへ
 第1章 「複雑」とはどういうことか。煙草の煙、パチンコ、落ち葉の軌跡など、古典力学と確率論との間に位置する「複雑」は世界に満ちている。生物活動や進化、免疫系や脳神経なども同様。これらを「複雑」と見做すのは人間だけの特性であり、仮に神が存在するとして、その者から見れば「複雑」ということは有り得ない。
 第2章 いま、なぜ「複雑系」なのか。「複雑系」という領域が出現したからといって、世の中が突如として複雑になったわけではない。この領域が興ったのには、パソコンの普及が一役買っている。「複雑系」の先駆と言えるカオスと非平衡系という2つの研究の流れは、ともに気楽に試行錯誤できるパソコンというツールによって進捗していった。
 II 花咲く「複雑系」の影に
 第3章 複雑系」のフロンティア。「複雑系」研究の牙城であるサンタフェ研究所の発祥は、ノーベル賞物理学者であるマレー・ゲル・マンが、ロスアラモス国立研究所で、昼食後に研究員たちと気楽に語らっていたことからだと言われる。運営上の困難を経験しつつも、領域横断的な研究者の陣容と、彼らの短期滞在を基本とする運営方針によって研究所は躍進した。
 同研究所によって見出された用語たち。
 複雑適応系…通商問題、地球環境、エイズなど、並列に働く幾つものエージェント(要素)のネットワークであり、下位の要素が上位の要素が常に訂正・再調整を繰り返し、経験に根差して未来を予測するようなシステム。
 カオスの縁フォン・ノイマン発案のセル・オートマトン(オセロのような、周囲のマスの状態からそのマスの次の状態を決定する論理ゲーム)を発端とし、ジョン・ホートン・コンウェーらを経て、スティーブン・ウォルフラム、スチュアート・カウフマン、ノーマン・パッカード、クリストファー・ラングストンらによって見出された、セル・オートマトンの「複雑さ」が最大となる規則群(周囲から次の状態を決定する規則の集まり)の領域。
 自己組織化臨界…砂山の上に砂を少しずつ落としていく時、堆積と崩壊を繰り返すことで砂山の頂の角度が一定に保たれるような、それ自体が常に動的安定を保とうとする振る舞い。
 創発…上記3つのように、物事が不意に組織化・構造化する事象
 サンタフェ研究所を始めとする「複雑系」研究には異論も多く、「複雑系」研究が即座に具体的な成果に否定的な研究者もいるが、筆者としては、サンタフェ研究所自体が「複雑系」的であるとし、今後に期待している。
 第4章 人工生命の複雑な未来。ラングトンによって構想された「複雑系」研究の主要分野のひとつ、人工生命の研究について事例を紹介する。
 CGアニメーターのクレイグ・レイノルズが実際の鳥の動きを研究して作った「ボイド(boid)」。“周囲の鳥の状態に対応して振る舞いを決める”という単純な命令で作り出された仮想の鳥の群れは、驚くほどの自然な振る舞いを見せた。
 ラングトンの「ループ」は、コンピュータの中でセル・オートマトンの輪が増殖していくというもの。ラングトンは人工生命の特徴をコレクショニズム(構成する上位・下位の要素が相互に動的安定を創る)だとする一方で、人工生命の創出によって倫理的な問題に直面するだろうと予想している。
 生態学者トマス・レイの「ティエラ」は、コンピューターの中で増殖・進化するプログラムによる人工生態系。寄生体、寄生体への寄生体、共生など、予想を超えた多様な“生命”が生じた。
 日本のATR(国際電気通信基礎技術研究所)が進める「人工脳」プロジェクトでは、気づかいや冗談を理解するコンピューターを目指している。ソフトウェアの進化とともに、ナノマシンの導入でハードウェアに自己改造・自己増殖といった機能が加わった「ダーウィン・マシン」もいずれは実現されるかもしれない。が、その際にラングストンの言った倫理的な問題は重要となってくるに違いない。
 第5章 コンピュータの中の遍歴。カオスから生じる「複雑さ」を研究するカオスの生態学における、日本の研究者の活躍が目覚ましい。
 物理・生物学者の金子邦彦は、カオス的特性を持つ系を相互作用を持たせて組み合わせた大域結合マップ(GCM;Globally Coupled Map)という手法を用いて、平均との結合度と構成要素の非線形度によって、相空間における系全体のふるまいが4つに分かれることを発見した(コヒーレント相、カオス相、秩序相、部分秩序相)。これはウォルフラムがセル・オートマトンで見出した4クラスと類似する。
 このうちの部分秩序相では、バラバラの状態と秩序だった状態が時間経過とともにスイッチする。しかも秩序だった状態になる際の個々の結びつきはその時々によって異なる。同じ頃に国内で類似の実験結果が見られ、この現象はカオス的遍歴と名付けられた。
 カオス的遍歴とカオスの縁は似ているが、前者が結果として提示された有様であるのに対し、後者は結果をλパラメータという人為的な評価尺度の導入によって示されたという点で異なる。また後者は概念というよりも探すべき標的といった方が適当と思われる。
 カオス的遍歴が示すのは、自由度の低減が秩序の生成を、増大が秩序の崩壊を意味する(ように見える)ということ。これは、静的なものと考えられがちな自己組織化という概念に、各部分が自由に動きながらも総体としては秩序があるかのように見えるという新しい見方を提示する。
 動的な安定状態を保とうとする機構を、金子らはホメオカオスと呼称する。また、自由度が変動する開いたシステムで起こる、自由度のジャンプとホメオカオスによって、多様性が維持された安定性が生まれるダイナミクスを開放系(オープン)カオスと呼んでいる。厳密に定義されたこれらの概念が、今後の「複雑系」科学では重要になるのではないか。
 日本で「複雑系」研究が実を結ぶのはなぜか。第一に“複雑→単純化”という発想への懐疑。第二にそうした単純化の背後にあると思われる“プラトン的なイデアを求める”という発想に囚われないこと。第三に複雑な現実を複雑なまま直視するという“流行の中に不易を見る”見方ができるということ。仲間内で通じるだけというのは避けなければならないが、日本には良い土壌がある。
 III 囚われの科学、逃げ去る自然
 第6章 「科学」とは何であったか。「複雑系」に至る科学の歴史を紐解く。理系・文系問わず、いかなる人間でも、自然主義的世界観によって自己の周囲を認識することから逃れることは困難である。そうした世界観の形成で決定的な役割を果たした人物の1人がユークリッドである。彼の『原論』による対象の単純化、普遍性の結晶たる法則という概念の提示は、聖書と並んで西欧文明が世界を理解・改造するための基礎となった。
 さらに世界の数学化を、膨大な数の実験と結果の数値化によってガリレオ・ガリレイが推し進め、アイザック・ニュートンが見出した古典力学(運動の三法則)により、現実世界の複雑・多様な事象は単純なモデルに還元され、運動方程式によって決定論的に算出されるという図式が出来上がった。世界は機械的に認識されることとなったが、そこから漏れるものとしてサイコロの出目などの“デタラメを生成する機械”を処理するため、統計力学による確率論が生まれた。
 古典力学の決定論と統計力学の確率論の両輪は万能であるかのように見えたが、しかし、「複雑」なものを「複雑」なまま見ようという態度は依然として欠落していた。それを見ようとするのが「複雑系」である。より細かく言えば、古典力学的な秩序から混沌を見出すのがカオスの研究、統計力学的なカオスから秩序を見出すのが自己組織化の研究である。
 第7章 秩序と混沌のはざまで。カオスを本格的に研究した最初の人間は、アンリ・ポアンカレである。太陽系の安定性についての問題で、近似解を厳密化していく補正を繰り返すと、逆に軌道が不安定になるということを発見した。彼の研究は長く放置されたが、やがて気象学者のエドワード・ローレンツがコンピューター上で行った大気の変動のシミュレーションでバタフライ効果が見出されると、10年後に彼の論文をヒントにリー・ヨークの定理が発見され、カオスの研究は世界的に行われるようになった。
 カオスの定義として分かりやすいのは「もっぱら法則によって支配されながら法則性のないふるまい」。ローレンツの気象モデルで見れば、大気の状態を示す数値(初期値)が僅かに異なれば結果が指数関数的に変わる(初期条件に対する鋭敏な依存性)。
 ローレンツのモデルの変数それぞれを座標軸に取り、時間経過に従って変化する状態を示す点をトレースする(位相空間という)ことで得られる軌跡を長時間追跡すると、固有の幾何学模様が表れる。アトラクターと呼ばれるその模様は、普通は一点収束したり、巻き付いたり、ドーナツ状になったりするが、ローレンツのモデルのものは蝶の羽のような奇妙なアトラクターとなる。これらストレンジ・アトラクターは、いくら拡大しても同じように見えるフラクタル図形であり、従って微分不能である。カオスとフラクタルは密接な関係を持つらしいことが明らかになってきていることは「複雑系」研究のポイントの1つである。
 カオスの多様さはまた、非線形性(直線的でない図形やその関数など?)の多様さともいえる。数学者の山口昌哉によれば、(自然を読み解くという意味での)数学は非線形のものの方が多く、これまで人類が拠り所としてきた線形は一部に過ぎない。自然の大部分を占める非線形こそは、人間にとって一般化不能なものではないだろうか。
 自己組織化について言えば、最初にこれに言及したのはアダム・スミスに始まる古典経済学であろう。考えてみれば、人文科学はその対象とする事物によって、最初から複雑性と直面していたとも言えるが、方法論が確立されてきたかというと疑問である。結局はユークリッドに始まる単純化した世界しか対象としてこなかったのかもしれない。
 物理学場における自己組織化の重要性を探究していた人物としてイリア・プリゴジンが挙がる。彼とブリュッセル学派の文脈によれば、熱力学が対象とするマクロ系は、外部とのエネルギーと物質の交換が有るか否かにより孤立系・閉じた系(エネルギーの交換のみ行う)・開いた系(エネルギー・物質の交換を行う)の3つに区分される。社会や生物は、開いた系と言える。
 孤立系は古典的熱力学の二大法則(エネルギー保存、エントロピー増大)が成立し、時間の経過に従って不可逆的にエントロピーは最大となり(熱平衡)、熱的死を迎える。開いた系においては、熱平衡から遠く離れた状態・熱平衡の手前の状態・熱平衡の状態という3段階に分類することができる。時間的には最初となる熱平衡から遠く離れた状態では、系の構成要素の相互作用が働き、状態を表す方程式は非線形となる。さらにエネルギーや物質の流れが臨界点を超えると、新しい構造や組織が自然に出現する。非平衡非線形開放系で出現するこうした構造には、エネルギーが常に散逸することによって維持されるという特徴がある(散逸構造)。散逸構造の例として卑近なものではレーザー、ろうそくの火、アリなどの社会性昆虫の行動、都市などが挙げられる。
 エピローグ 見出された〈世界〉。複雑なものを単純化・一般化・線形化せずにそのまま見ようという姿勢は、哲学の現象学に通じるものがある。普遍的な一般理論が作りにくくなったという傾向は、自然科学だけでなく観念的とされてきた数学にも見られ、科学全体の変容を予感させられる。『ニーチェツァラトゥストラはかく語りき』における人間の精神の変容になぞらえて言えば、19世紀までの科学はラクダ、20世紀はライオン、これからは小児に変化しなければならない。
  「複雑系」の科学には、確かに小児の遊戯に似た面がある。例えばアナロジー(ここでは「類推」というより隠喩=メタファーに近い?)が多用されるが、それは恣意的解釈に繋がりやすいという危険性がある。
 そうした危険性を克服した上で、こう言えるかもしれない。地動説の登場になぞらえ、人間は物自体を認識せず認識形式が現象を構成するとしたカントの「コペルニクス的転回」に対し、天動説になぞらえ、物自体を認識するという「プトレマイオス的逆転回」が起こる時が来るのかもしれない、と。

 「複雑系」の科学に関する最低限の(計算式や具体的な方法論はさて置いて、という程度の)知識と、「複雑系」研究にまつわる幾つものエピソードを知ることができるのは良い。文科系的に知識として知っておくには、本書を皮切りに、この本の参考図書にも挙げられているM・ミッチェル『複雑系』と米沢富美子『複雑さを科学する』あたりを読むのがいいのではないだろうか(ちなみに前者は積読中)。

複雑系―科学革命の震源地・サンタフェ研究所の天才たち (新潮文庫)

複雑系―科学革命の震源地・サンタフェ研究所の天才たち (新潮文庫)

 
複雑さを科学する (岩波科学ライブラリー)

複雑さを科学する (岩波科学ライブラリー)

 

  しかし、本書の構成にはいささか難があるのではないかと思った。私のように何も知らない人間にとっては、「複雑系」登場に至るプロセスを描いたIII部が最も分かりやすかったからである。ここから読み始めて、それからI部・II部と進んだ方が内容を大づかみしやすかったように感じる。
 確かに、III部の内容を頭に持ってくると、冒頭にインパクトがなくなるし、先行研究から始まる割とよくあるタイプの本になる可能性はある。しかし、線形と非線形の違いすら読みながら調べて理解した私のような純・文科系人間にとっては、ユークリッドから始めてもらった方が有り難いし、恐らく講談社現代新書でこうした本に手を出すのは専門外の人間の方が多いだろう。
 もう1点、ローレンツのストレンジ・アトラクターに図版がない点も、細かいことながら気になった。ネットで検索すればすぐに出てくるものであるが、それほど有名な図であれば、「複雑系」の分かりやすい紹介を狙ったであろう本書には、やはり収めて欲しかった。セル・オートマトンについては割と気配りされた図版があっただけに気になった。

 難点はさて置いて、良かったところも挙げる。内容的には、やはりIII部の、ユークリッド以来常識となった“単純化し線形化する”という自然観を喝破したところだろう。西洋科学が連綿と“人間vs自然”という図式を持ち続けてきたということは何となく思っていたが、人間が自然を認識するその捉え方に、ユークリッドの単純化の手法やプラトンイデア論があったとする説にはなかなか説得力があるように思う。プラトンといえば僭越ながら私自身の卒論で少し触れたし『プラトンの呪縛』という本も斜め読みしたが、古く著名な哲学者だけに、その言説が後の時代でいいように利用されたり解釈されてきた、ということは言えそうである。

プラトンの呪縛 (講談社学術文庫)

プラトンの呪縛 (講談社学術文庫)

 

 それと、たびたび引用される金子邦彦氏の言葉はいちいち印象に残る。カオス的遍歴を、ルールが作られ、そのルールに沿った状態が続き、いつしかそのルールが壊され別なものに変容していくという“子犬の遊び”になぞらえたり、登場人物が作者も思いもよらなかった方向に動き出すのを指して「物語というのは複雑系研究の方法として人類が生み出した最高の手法なのではないだろうか」(p.177)と言ったり、表現が感覚的なのである。エピローグで触れられているアナロジーへの危惧とは、こういった表現に対してのものかもしれないが、今までの科学にない領域に踏み込むには、これくらいの突飛さが必要なのかもしれない。

 本書の内容から思い出したこともひとつ書いておこう。
 これも学生時代の話だが、とある講義でオートポイエーシスなる概念について知ることがあった。自己組織化、閉鎖系、入力と出力など、「複雑系」とオーバーラップするところが大きかった気がするが、参考にと思って入手した以下の本を読んでも殆ど分からなかった。 

 「複雑系」とその前後の文脈が分かった今になって考えると、オートポイエーシスとは自己組織化の一類型だったのではと思うが、受けた講義は思想系のもので、本書(『「複雑系」とは何か』の方である)に出てくるようなイリア・プリゴジンなどの物理学系からの自己組織化についてのアプローチには言及がなかったこともあり、確証はない。双方の関係を明確にする言説があれば読みたいと思う。

 以上のように「複雑系」と科学をめぐる分析がスリリングで面白い一方で、上記の読書メモでは多くを省略しているが「複雑系」の先駆となった研究者たちの性格や私生活に言及した評伝的な記述もかなりある。なかなか臨場感を出して書かれており、それはそれで興味深い。やがて科学的に裏付けられるアイディアも、脳裏にひらめく時は無根拠な直観であることが往々にしてあるようだということは、浮世離れしているように思える学者たちも生の人間であることを思わせてくれる。

 筆者の筆致そのものも西洋的な機知に富んでおり、時折はそれが鼻についたりもしたが、総じて達者な書きぶりと言える。刊行から少し時間が経ってしまったが、複雑系の概論を述べた本としては手頃ではないだろうか。

「複雑系」とは何か (講談社現代新書)

「複雑系」とは何か (講談社現代新書)

 

 

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