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吉行淳之介『原色の街・驟雨』の感想


(2003年11月読了)

  吉行淳之介を知ったのは『子供の領分』という本によってである。ドビュッシーの曲からタイトルを拝借したこの作品は、2003年よりも前に読んだ本の1つだが、どうも手に入れた時のことを憶えていない。いつの間にか本棚に刺さっていた。恐らく大学時代に入り浸った古本屋で買い求めたものだと思うのだが。ともあれそんな出会いの吉行淳之介の2冊目として読んだ。
 以下、まずはあらすじを。

あらすじ

 「原色の街」。昭和2X年、隅田川からほど近いところに、けばけばしいネオンの瞬く娼婦街があった。そこの娼家「ヴィナス」に勤めて2か月ほどになる、あけみ――魚谷はな子は、男に快感を感じることもないし、心を開くこともなかった。常連客の汽船会社の社員、望月に連れられやってきた元木英夫は、そんなあけみの心身に異変をもたらす。愛憎の入り混じった感情を元木に抱くあけみ。一方、元木は某大学教授の娘である瑠璃子と見合いをし、交際することになる。奔放な瑠璃子に、元木は終着点としての結婚を考えられない。
 望月は「ヴィナス」の春子を業界紙の表紙モデルにすると約束するが果たさず、同じ「ヴィナス」の蘭子へと気を移していく。その蘭子は、店を止めて映画俳優の男と暮らし始めるが、生活に行き詰まって店に復帰し、自らの痴態を写真に収めて売りさえする。あけみには、薪炭商の男が常連として付き、彼から結婚を申し込まれる。春子を哀れに思い写真を渡しに来た元木に抱かれ、あけみは元木への愛を予感するのだった。
 それぞれの事情が交錯する中、元木たちの会社では新しい貨物船のレセプションをすることになる。望月が口を滑らせ、レセプション当日、甲板には「ヴィナス」の面々と瑠璃子がやってくることになる。瑠璃子に視線を送った元木に嫉妬し、あけみは彼に体ごとぶつかり、2人は水に落ちてしまう。2人は救助されるが、あけみは娼婦街に戻ろうという自分の心に気付く。

 「驟雨」。汽船会社に勤めて3年になる山村英夫は、女を愛することは煩わしいと考え、娼婦街を彷徨している。しかし、なじみの娼婦、道子に惹かれていく。道子は次に会うまで「操を守っておく」などと言い、山村の心を掻き乱す。同僚の吉田五郎の結婚式の前夜、山村は道子と共に一夜を過ごす。そのとき降り出した俄雨に、初めて娼婦街の「情緒」を感じた山村は、道子への愛を確信し、同時に不安を覚えるのだった。
 結婚式に出席した後、山村は再び道子を訪ねる。が、先客があり、山村は40分ほど散歩してくるように言われる。山村は飲み屋に入り、嫉妬を飼い慣らそうとするが、それは巧くいきそうもなかった。

 「薔薇販売人」。檜井二郎は、人から聞いた話に倣い、偽の行商人となって薔薇を売ろうと考える。たまたま訪れた伊留間家の妻、ミワコは艶めいた女だが、夫の恭吾は彼女のことを「乱倫」だと言う。薔薇を売ろうと檜井の作った子供めいた表情は、ミワコについて幻滅させようという気持ちを恭吾に起こさせ、またミワコの恭吾に対する微かな不満を刺激したのだった。その後、伊留間家を訪れた檜井は、夫の不在に乗じてミワコに迫っていく。恭吾が覗いている、と檜井が感じたのは錯覚で、そのことで檜井の心には空虚なものが広がっていった。

 「夏の休暇」。小学5年生の一郎は、母を家に残し、夏休みに父とともにO島へと赴く。船旅の途中、申し合わせたように若い女が道連れに加わる。島に着いた3人は、M山に登る。若い女との同道に、性の目覚めが一郎を襲う。女と別れ、親子はI半島のA温泉へと移る。退屈な滞在期間を過ごすが、海でボートに乗っていると、別れた女、さわ子が上がってきた。さわ子を加えた親子が宿へ戻ると、宿は海が荒れ水死が出たと騒いでいた。荒れる海で父は泳ぎ出す。姿が見えなくなった父に、一郎は不安と安堵を覚えていた。

 「漂う部屋」。短期入院患者として結核の療養所に入っている「私」。内科から移ってきて、術後も長く病院に居なければならない青山。青山がほのかに慕う、入院しているのに赤いスカートばかり履くアキ子。彼らの他にも多くの人が療養所で暮らしている。短期の患者はまだ社会復帰の目途が立てやすいが、長期の患者は会社も馘になっており、世間から浮かんで漂うような病室の中で過ごし続けるしかない。
 「私」と青山は手術を受け、少しずつ回復していく。アキ子も手術を受けるが、青山は次第に彼女に近づかなくなっていった。冬が終わり、春になって退院していく者もある。「私」はまだ、漂う部屋の中にいる。

感想

 現在の新潮文庫の装丁は提示したような花弁の写真だが、私が読んだ版は古く、表紙には蔦のような質素なイラストが付されただけのものだった。これは全く個人的な思いではあるが、昔の版の方が吉行淳之介らしくて好きである。

 それはともかく、男女の湿り気を帯びた作品が揃っている。表題作と「驟雨」は、同じテーマを異なる長さで書いたと思われる。娼婦街が主な舞台ではあるものの、直接的な描写は殆ど無い。それでいて淫靡な感じが漂うのが、吉行淳之介の小説だろう。愛が煩わしいというのは、言い換えれば、それを失う時が来るのが怖いから、ということにならないだろうか。仏教で言う愛別離苦を味わいたくないために、敢えて娼婦と客という枠組みに収まろうという姿勢は、もしかしたらとても仏教的なのかもしれない。読んでいて決して愉快ではない2作だが、そのもやもやした感じに旨味があるようにも思う。

 「薔薇販売人」は、浅田次郎の『薔薇盗人』(当該記事)でも触れたが、この本にも収録されていた。やはりこれが小説としては処女作ということになるようだ。作品としては、なかなか捉えどころが難しい。ミワコはけっきょく「乱倫」だったのか否か。そう考える読者は既に、恭吾氏の術中にはまっているのかもしれない。
 終盤に登場する「ポオル・モオラン」の「夜ひらく」から拝借している遊戯については、もう少し注釈が欲しかった。と思って原本を調べてみたら、絶版ですごいプレミアがついている模様。復刊か電子化しないだろうか…。

夜ひらく (1954年) (角川文庫)

夜ひらく (1954年) (角川文庫)

 

 「夏の休暇」は、他と同じく三人称小説ではあるが、視点は小学五年生のもので新鮮だった。O島は大島でM山は三原山だろうか。少年から見た若い女の描写が瑞々しい。対応するように、父は不可解で死の匂いもする。
 最後の「漂う部屋」は、他と違ってあまり男女の湿った感じがしない異色作である(とはいえ、ヒロイン格であるアキ子の下着が干しっ放しになっているくらいのシーンはあるが)。吉行淳之介結核の経験があるので、実体験に取材したものと見ていいだろう。
 悲しかったり辛かったりが前面に出てくる小説ではないのだが、自分の結核は治るのか、退院できるのか、退院できたとしても仕事をどうするのか、などといった不安を抱える者同士が叩く軽口は、やっぱりどこか寒々しい。小説的には途中で断ち切られた感じの強い幕切れだが、それだけに、日々が淡々と過ぎていく感じが強調されていると感じた。

原色の街・驟雨 (新潮文庫)

原色の街・驟雨 (新潮文庫)

 

 

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