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夏目漱石『虞美人草』の感想


(2003年10月読了)

  漱石も5作目である。以下あらすじを軽く。

あらすじ

 哲学を学んだ甲野と、外交官志望の宗近は京都を旅行する。
 そのころ東京では、甲野の異母妹にして宗近とほぼ婚約状態にある藤尾と、甲野たちの同窓で博士論文に取り組む文学者の小野の仲が近づきつつあった。画策しているのは、藤尾の母である。

 京都から東京に帰る甲野と宗近。同じ列車には、小野の恩師である井上先生と、その娘である小夜子が、東京で暮らすべく乗っていた。
 上野の博覧会で一堂に会する人物たち。

 超然たる甲野は、策を弄する藤尾とその母を良しとせず、客死した父から相続した家督を妹に譲り、家を出ようとする。
 優柔不断な小野は、旧き日本の道徳を体現する先生と慎ましい小夜子に対する愛着や道義と、美しく我の強い藤尾に対する執着との間で葛藤する。そして、宗近の妹である糸子は、甲野への秘めた想いを持ち続ける。

 ついに小野は、先生と小夜子に対し、友人の法学士、浅井を通して断りの言葉を伝える。それを知った宗近、糸子、彼らの父、そして甲野は行動を開始する。
 宗近の説得で小野は翻意し、企みを挫かれた藤尾と母は打ちのめされるのだった。

感想

 あまり「爽快」という言葉の似合わない漱石の作品群だが、 職業作家としての第1作となったこの小説は、勧善懲悪ものと言って過言でない作りになっている。悪役はもちろん藤尾とその母である。
 作者の脳裏には、クレオパトラなどのいわゆる“傾国の美女”があったようである(これは作品の序盤で藤尾と小野がクレオパトラについて話していることからも分かる)。

 21世紀のいま読むと、藤尾は確かにちょっと性格に難があるとはいえ、そこまで糾弾されなくてもいいのではないかと、少し思う。まあ、それだけ今日の世間から日本的な道義心が失われているからだ、と漱石には言われそうではあるけれど。

 そこのところの引っ掛かりはともかく、ラスト50ページの活劇は熱い。
 井上先生が熱いし、宗近は胸焼けするほど熱い。それまではクールで何を考えているかもわからなかった甲野がまた、熱い。ふらふらしていた小野の決意もまた、熱い(そういえば、小野が抱える、結婚と博士云々という問題は『吾輩は猫である』(当該記事)の寒月君を思い起こさせる)。
 一例として宗近の台詞を少し引用しておく。

「今だ。こんな事は生涯に二度とは来ない。この機をはずすと、もう駄目だ。生涯真面目の味を知らずに死んでしまう。死ぬまでむく犬のようにうろうろして不安ばかりだ。人間は真面目になる機会が重なれば重なるほど出来上ってくる。人間らしい気持がしてくる。――法螺じゃない。」

 こんな感じで、「少年漫画か」と言いたくなるほどの熱量である。宗近の説得が文学をやっている小野に届いたか、というと、冷静になるとちょっと微妙な気もするが、読んでいる間は引き込まれてページを繰っていった。

 文章についても触れよう。
 先日の『草枕』(当該記事)と同じように、この小説も文語体で書かれている。漢文古文の知識も動員された地の文は、現代人からするとなかなか難解であることは否定できない。精読するならかなり気合いを入れる必要があるだろう。

 会話の部分はテンポよく進むため、ある意味はメリハリが効いている。
 ただ、会話は会話で長く続くと、どちら人物の台詞か分からなくなる部分があった。もちろん会話はキャッチボールなので、Aの台詞、Bの台詞、Aの台詞…と続くのには違いないのだが、2ページに渡ったりするとふと混乱したりする。
 立場がはっきりしている2者の場合はそんなこともないが、宗近と甲野みたいに友人同士の軽口の叩きあいの場面ではしばしば幻惑された。

 それと、些細なことだが私が記憶しておきたいのは、序盤の甲野と宗近の京都旅行である。
 構成上は、実は重要じゃないのではないかと思うのだが、それだけに彼らの旅には手放しの気楽さがあって楽しい。東京に戻る汽車の中でも、富士山が見えるのどうのと語るのを読んでいると、ふらりと旅に出たくなる。

虞美人草 (岩波文庫)

虞美人草 (岩波文庫)

 

 

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