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何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

島田雅彦『彼岸先生』の感想

小説 日本近現代文学


(2004年7月読了)

 私の読書の羅針盤の1つとして、ときどき参照する福田和也作家の値うち』での評が気になり読み始めた。以下、まずはあらすじ。

 大学生の「ぼく」(菊人)は、ロシア語を専攻している。恋人の砂糖子はイタリア語学科で、その暗さと明るさは奇妙に対照している。
 あるとき菊人は、姉の声楽の教え子として「先生」と知り合う。「先生」はいちおう小説家だが、プロの嘘つきだとも言う。その作風は「ポルノなんだか、SFなんだか、政治小説なのか、ミステリーなのかわからない不思議な恋愛小説」。遊びも仕事のうちとうそぶいて週休4日制を実施し、あちらこちらをふらふら歩き、智恵子という奥さんを持ちながら方々の女性と(菊人の姉も例外ではない)関係を持つ「先生」。菊人は彼から小説を学ぶ訳でもないのに「単にときどき会いたくなる」という理由から弟子になることを申し出、何となく承知される。菊人は多摩川の向こう岸に住むという意味を込めて、彼を自分の中でだけ「彼岸先生」と呼ぶのだった。先生との関係を終わらせた姉は「先生が自殺しないように見張って」と言い置いて留学する。
 夜行性の彼岸先生に付き従い、菊人は先生の“夜の同志”たちに出会う。下町のヘーゲルこと猪首の吉田教授、彫刻家のサンチョ三宅、その妻ミハイラ、吉田の元教え子でピアノ教師で先生の愛読者である諏訪響子といった面々である。響子に惹かれた菊人は、誘われるままに彼女と関係を持つ。菊人は響子と関係することで先生を裏切ったと煩悶するが、先生は逆に響子を譲るようなことを言う。
 そんな先生の奥さんは、夫の浮気癖には達観した風で、それでも互いの寂しさから別れないと語る。奥さんに案内された先生の書斎で、菊人は先生の「生けるフィクション」を書いた日記の存在を知る。そこへ帰宅した先生は、2人がずっと自分について話していたと知ると珍しく怒り、余計な詮索はするな、と言う。
 ウィーンに渡った姉の元、家族で集まり、父の入院などもあって2週間を過ごした菊人が帰国すると、先生が発狂したという話を奥さんから聞かされる。響子と共に見舞いに行くと、そこには2人に対し無反応な先生がいた。「奥さんの勝利」と打ちひしがれる響子と菊人は暴力的に求めあい、それから響子は「先生の意識を自分でも体験できそうな場所」としての砂漠に行こうと海外へ旅立っていった。
 留守中に届けられた小包を開封すると、そこには先生の日記があった。菊人はそれを読み始める。それは、先生のここ7年間のものだった。ただし冒頭に「フィクションである」と断り書きの記された。
 日記はニューヨークでの日々から始まる。初対面ではおとなしかったが次第に激しい性衝動を露わにするアグネスとの恋愛、理知的なゲイのパットとのメキシコ行、図書館で『源氏物語』を読む細面の日本人女性――東山智恵子との出会い。そして帰国後、智恵子をめぐるアメリカ人ウィリーとの三角関係と、切腹によって智恵子を勝ち取ったこと。大昔に付き合っていた女性が生んだ女の子は、自分の娘ではないかという疑惑、など。日記は次第に的になり、日付を失い、妄想と区別がつかなくなっていく。
 先生の手紙の条件を破り、菊人は再び入院している先生に会いにいく。入院患者たちと楽しい日常を生きる先生を見て、菊人は漠然と自分も変わったように感じる。退院した先生を奥さんは優しく迎え入れ、先生は新しい冗談を始めるのだった。
 3年が経ったが、先生は死のうとしても死にきれず、冗談の新機軸も振るわなかった。菊人はたまたま受けた採用試験に受かり新聞記者になり、ボローニャに留学した砂糖子との関係は辛うじて続いている程度である。先生のような恋愛ゲームよりは、普通の日本人の家庭に安定したいという気持ちが芽生え始めていた。
 ある日、先生は分厚い手紙を受け取る。「拝啓 彼岸先生」と始められたその手紙の差出人には響子と書かれていた。今はチベットで暮らし新しい生き方を見出したという響子は、今でも先生を愛しており、先生は彼岸と此岸の陸続きとなったところを目指していると思うと語る。近々日本に帰るが先生の邪魔はしないとし、先生へのエールと奥さんの健康と幸福を祈ると綴られ、手紙は結ばれる。

 文庫版のあおり文にもあるが、夏目漱石の『こころ』が下敷きにあるのは間違いなさそうである。それと、序盤に出てくるヘーゲル的な歴史の終焉というイメージも気になった。
 ヘーゲルの言った「歴史の終焉」というのは、文明は必ず進歩していくという前提で、ナポレオンだかが登場したところでその発展は終了した(=歴史はこれ以上は進まない)とした説だったかと思う。そのままの書名の『歴史の終わり』という本でその辺りを踏まえた話を読んだことがある。

歴史の終わり〈上〉歴史の「終点」に立つ最後の人間

歴史の終わり〈上〉歴史の「終点」に立つ最後の人間

 

  菊人の暮らしと彼から見た先生の生態を描いた前半部分と、先生の長大な日記と後日譚の後半部分に大別されると思うが、『こころ』がそうであったように、本体はやはり先生の日記だろう。週休4日で遊ぶのが仕事の一環という、表面的には羨ましい生活をしている。先生の考え方は著者自身がエッセイの形で本にまとめらているが、実践するには相応の覚悟が要るだろう。私としては寝室哲学の方はそこそこでいいので、週休4日の方をぜひとも実現したいところである。

彼岸先生の寝室哲学 (ハルキ文庫)

彼岸先生の寝室哲学 (ハルキ文庫)

 

 本作を支えているのは、先生や菊人や吉田(猪首)教授やサンチョといった男たち以上に、菊人の姉、先生の奥さんである智恵子、諏訪響子、砂糖子、アグネス、ちづるといった女性たちだろう(ニューヨーク時代に先生と共にいたゲイのパットは、女性たちに含めていいかもしれない)。彼女達と関係を結び、それによってもたらされる“関係性の確定”に侵襲されて己自身も確定することを恐れ、逃げ去るのが彼岸先生の“真摯な”態度なのではなかったか。
 根元で扱われているテーマはとても深刻だと思うが、言うまでもなく、その性的放縦さという表層で読者を選ぶと思われる。ネットのどこかで読んだ感想では、単なるポルノとして一蹴されてしまっていた。
 それにしても砂糖子という名前はグッドネーミングだと思う。

  最後に仏教的なモチーフが漂うところで、島田雅彦はそういえば『僕は模造人間』や戯曲「ルナ」でもそんな感じだったな、と思い至り、彼の仏教に対する期待を垣間見られる気がする。ただし、“全ては嘘である”という言説を深く踏まえた上で、での話だが。

 それでも、作者としての島田雅彦は、恐らく誠実なんじゃないかと思っている。

彼岸先生 (新潮文庫)

彼岸先生 (新潮文庫)

 

 

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