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何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

石川武志『ヒジュラ インド第三の性』の感想

 “第三の性”という言葉に興味を惹かれて読んだ。大学で文化人類学やら民族学やらを履修していたが、ヒジュラというものは本書で初めて知った次第である。
 作者の本職は写真家であるため、専門的・学術的な記述は限定的である。専門書ではなく、あくまで紀行ノンフィクションとして読むのがよいかと思う。ちなみにAmazonの画像が小さかったので、今回の書影はYahoo!ブックスから拝借した。
 以下、とりあえず、あらすじというか章ごとのメモを記載しておこう。

 1 カルカッタ。ヒジュラとの出会いと取材の開始。コンタクトを取ることに苦労するものの、集団生活をするヒジュラのファミリーのグル(指導者)であるモーリンから取材の許可を得る。
 ヒジュラとはウルドゥー語で「半陰陽、両性具有」を指す。彼らはグルとチェーラー(弟子)でファミリーを形成し、その生活は、バダイ(喜捨)、結婚式や子どもの誕生の際の祝福儀礼(これもバダイと言われることもある)、売春という3つの行為による。どれにウェイトが置かれるかは地域によって違う。
 人々は聖なるものであると同時に俗なるものとしてヒジュラを見ており、普段は煙たがり、行事の際などは有難がる。
 10月下旬のヒンドゥーの祭りカーリー・プジャとデュワリー・プジャで、モーリンたちは家々を歌い踊りながらめぐり、バダイを求める。
 子どもの誕生の場では祝福の歌を歌い、対価を求める。赤子の前世からの穢れや過ちをヒジュラに移し替えるという意味があるようだ。
 2 デリー。モーリンたちがあまり典型的なヒジュラのファミリーではなかったため、オールド・デリーで典型的なヒジュラ社会に属するファミリーを探す。その結果、ナイク(グルの更に上の地位のヒジュラ)であるチャマンのファミリーから取材を許される。ヒジュラ社会の実力者として君臨するチャマン。そのチェーラーたちは歌や踊りといった芸能に秀で、売春は行わない。
 反対に、ニュー・デリーのグルであるパドマのファミリーでは主たる仕事は売春である。彼らはカースト的にもヒジュラ社会的にも下層であり、儀式なども知らない。近代化された都市であるニュー・デリーでは、ヒジュラ的な職分を受け入れる余地もないのかもしれない。
 ヒジュラになる人々とは、大半が自分のジェンダー(社会がその性に要求する役割)に違和感を持った男性で、彼らが去勢してヒジュラになる。両性具有が聖なるものと考えられるのは、男性と女性の両方を併せ持つことが完全であると見做されるヒンドゥー教の文化があるためである。
 3 アジメール。都市のヒジュラではなく、より伝統的な暮らしを残しているヒジュラを求めて北インドの西端、ラジャスタン地方のタール砂漠を訪ねる。近代化によりヒジュラの数は減っており、取材許可を得るのも難航したが、現地の人物の助力を得てグルのレシェマ・バイを取材できることになる。地元の住民は、ヒジュラは真性の両性具有であると信じているようである。
 ヒンドゥーの聖地であるプシュカールに住むレシェマ・バイたちは、この地に祀られるブラフマー神の巡礼祭で喜捨を求めて回る。オールド・デリーなどのように喜捨の額をめぐっての強引なやりとりはなく、和やかなムードで喜捨は進む。赤子の祝福や結婚式ではヒジュラのダンスや歌で儀式が進む。他の土地でのようにヒジュラが儀式を押し付けるのではなく、人々の求めに応じて儀式を行うようである。
 4 北インドと南インドの寺院。北インドのバフチャラ寺院と南インドのアラバン寺院を取材する。前者はパールヴァティと並ぶヒジュラの祖神バフチャラ・マータを祀るヒジュラの聖地、後者で行われる祭祀では“ヒジュラの結婚”というテーマが登場するという。
 バフチャラ寺院は、貞操を守って死に、両性具有の神となった娘バフチャラを祀っており、子どもや多産の神のため、寺院ではバフチャラに仕えるヒジュラが子どもに祝福の儀礼を行う。また、両性具有の王子と結婚し、彼を去勢した女神の伝説に倣い、ヒジュラは去勢後にこの寺院に詣でることで正式にヒジュラとなる。
 ヒジュラの去勢は単純に性器を切断することで行われる。流れる血は“男性の一部”だと考えられ、止血もされない。しかし、信仰のためか痛みは少ないとヒジュラは語る。
 アラバン寺院で催される“ヒジュラの結婚”をモチーフとしたチットラ・プルニマ祭は、『マハー・バーラタ』に記された、王国を勝ち戦に導く占いに際して自ら生贄となったアラバン王子の伝説に由来する。生贄による死が確定している王子はその前に結婚を望むが、誰も立候補する女性が居なかったため、ヴィシュヌ神の化身クリシュナは自らモヒニという女性として顕現し、アラバン王子と結婚式を挙げた。ヒジュラ達はこの伝説のモヒニに自らをなぞらえ、村の女性は自らの幸せな結婚を願掛けする。
 祭に集ったヒジュラ達は、アラバンとの結婚を意味するターリーという黄色い紐を結ばれ、1人ずつ祈りを捧げる。アラバンの神像を載せた山車が村を練り歩き、最後に寺院の境内中央で、その首が刎ねられると、“未亡人”となったヒジュラ達は、花嫁の証であるジャスミンの髪飾りと黄色い紐を一斉に像に投げつけ“亡夫”への献身を誓う。アラバンに嫁いだクリシュナへの信仰は、ヒジュラにとっては売春を正当化する意味合いもあるようである。
 5 ボンベイ。インド最大の売春地帯であるカマティプラ地区とフォークランド・ロードを擁するボンベイ。ここで生きるヒジュラの主な生計は売春であるが、チャマンのつてで知り合ったソーナムは歌手やダンサーとして活動している例外的存在だった。売春が横行する地区にソーナムが居続けるのは、聖俗併せ持つヒジュラ多様性を愛しているからではないかと筆者は思う。
 売春で生計を立てている、ボンベイの他の多くのヒジュラ達に共通しているのは、男性が好きであるという同性愛者的な動機が先行しているということ。現代的なファッションをし、伝統的な儀式を知らずバダイをすることもない彼らは、西欧的な性転換者と大きく異ならない。ヒジュラの未来を思う筆者の胸に鈍い痛みが走るが、ソーナムはヒジュラの将来など「神様の手の中にある」として笑う。 

  筆者の本職が写真家のため、ふんだんに写真が用いられているのは有難いと思う。ヒジュラという存在が身近でないため、文字だけではどうしてもイメージが湧き難いだけに写真は助けになるであろう。
 章ごとに末尾に写真のページがある作りになっており、トータルで言えば全体(200ページ余り)の半分近く(80ページ強)は写真で占められている。本文ページに組み込まれているため、どれも白黒なのが難と言えば難だが、売春を主たる仕事としている地域のヒジュラ達の写真は、陰部を出したりと過激なものもあるので、仕方ないのかもしれない。カラーページを増やせばそれだけ本の単価も上がるので、出版側としても致し方ないかと思う。
 ちなみに、ニュー・デリーのヒジュラ、プレマ(88ページ)が、私にとって最も衝撃的なヒジュラの写真であった。口紅を引いているところを撮ったものだが、確かに男性と女性を兼ね備え、神性というべきものに至った感じがする1枚である。

 “第三の性”といいつつも、大半が男性からの性転換者であるという実態は多少意外な感じだった。もちろん生まれつきの両性具有がそんなに多かったら、それは何らかの外的要因(環境汚染や放射能)を疑わなければならないところだが、それにしても女性がヒジュラになる例があってもよさそうなものである。
 それが無いという点は、やはりインドの伝統における女性への抑圧を示すものに相違ないと思う。他の国と同様、インドの女性の中にも自らのジェンダーに疑問を持つ人は当然いるだろうし、そうした人はインドでどのように過ごしているのか気になるところではある。

 ヒジュラの生態はもちろん面白いが、当初ただの通りすがりの写真家にすぎなかった石川氏が、まったく没交渉だったヒジュラの社会に何とか分け入っていく過程が、私には興味深かった。国内でさえ、旅先の個人営業の飲み屋なんかに1人で入るのになかなか覚悟を決めなければならない私には、インドのスラムで探偵まがいのことをしてまでヒジュラに迫るという芸当は、たとえ当時の筆者と同じ若さであってもできそうもない。
 筆者がそこまでできたのは「ヒジュラを撮ろう!」という意欲があったためであろう。そういう意味では、写真家の執念を知ることができる1冊、とも言えるかもしれない。

ヒジュラ―インド第三の性 (写真叢書)

ヒジュラ―インド第三の性 (写真叢書)

 

 

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