何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

川端康成『伊豆の踊子』(集英社文庫版)の感想


(2004年9月読了)

 デビュー作「招魂祭一景」所収。「踊子」は学生時代に新潮文庫版で一度読んだのだが、処女作や新潮版に入っていない他の作品(逆に「抒情歌」「禽獣」は新潮版のみ)を未読だったので再読かたがた手に取った。こちらの収録作品は前掲2編と、「十六歳の日記」「死体紹介人」「温泉宿」の合計5編である。
 私が手に取った2004年の頃はもっと野暮ったい(失礼)表紙だったのだが、2008年ごろに集英社の週刊漫画誌『ジャンプ』の漫画家陣による名作文庫の表紙一新があって、『踊子』は『ジョジョの奇妙な冒険』で大人気の荒木飛呂彦氏が手掛けることとなった(参考:旧版の表紙を載せているブログが有ったのでリンクしておこう→shino-shinoのブログ:June 26, 2008)。何となく、『ジョジョ』のPart5である「黄金の風」の主人公ジョルノ・ジョバァーナの“スタンド(一種の超能力)”、生命を創り出す“ゴールド・エクスペリエンス”を思わせる表紙である。
 調べてみると、集英社が漫画家による文庫本の装画を始めてからもう10年近く経っており、20点ほどがあるようだ。ざっと見て「いいな」と思った3点を下に示すが、荒木氏の独自性はやはり頭一つ抜けているように思う(ちなみに以下3点の『遠野物語』は『ぬらりひょんの孫』の椎橋寛氏、『銀河鉄道の夜』は『I'll』や『テガミバチ』の浅田弘幸氏、『夢十夜草枕』は『封神演義』の藤崎竜氏による。)。

遠野物語 (集英社文庫)

遠野物語 (集英社文庫)

 
銀河鉄道の夜

銀河鉄道の夜

 
夢十夜;草枕 (集英社文庫)

夢十夜;草枕 (集英社文庫)

 

 それはそれとして、まずは各編のあらすじを。

 伊豆の踊子。秋。20歳の一高生である「私」は、伊豆の旅の途中にあり、天城峠に差し掛かる。道中、「私」はぐうぜん出会った旅芸人の一座の踊子に惹かれ、一座と共に下田まで旅することになる。一座は大島から来ており、14歳の踊子・薫、薫の兄の栄吉、栄吉の妻の千代子、千代子の母、雇われの17歳の少女芸人の5人だった。「私」は一座や宿で出会った紙屋らと屈託せずに交流し、同時に踊子から寄せられる素朴な思慕に、孤児根性で歪んでいると感じていた自分が癒される感じを受ける。「私」と踊子は次第に接近していき、一座とは正月に再会して芝居を手伝う約束すらするが、下田に着き、踊子を約束した通り活動に連れて行こうとして果たせず、そのまま「私」が東京に帰る日がくる。乗船場には踊子の兄だけが見送りに来たが、海際には踊子がいた。踊子は「私」の言葉に頷くばかりで、船が出ると白いものを振って見送った。船室で涙を流す「私」を、隣にいた少年は気づかってくれ、その好意に甘えながら私の涙は零れ続けた。
 「招魂祭一景」靖国神社の例祭である招魂祭で、曲馬娘のお光は団員と共に芸を披露している。客引きをしていると、かつて曲馬団にいたお留がやってくる。今は源吉という男と日暮里で暮らしているお留は、「男のおもちゃになり出したらもうきりがない」「早く抜け出しなさい」とお光に言う。お光の心はさざめき、一団の花形の桜子と話すことで気を取り直そうとするが、動揺が後を引く。曲芸の調子が出ず、ついに桜子の落馬の原因すら作ってしまうのだった。
 十六歳の日記。作者の16歳の頃の日記に注釈を付ける形で展開する。祖父と2人暮らしだった当時、その祖父は病を患い、中学生の作者に寝返りや用便の世話をさせ、曖昧な精神状態で世話をかけていた。近所の百姓女おみよに手伝ってもらい、“毛物憑き”ではないかなどと不安にかられつつ、祖父の世話の日々は続く。漢方医の心得があり、易学や家相にも通じて「構宅安危論(こうたくあんきろん)」なる書物を企てたこともある祖父は、先祖の栄光を口にし、自身の人生を悔やむ。つのった苛立ちは作者にも向けられ、思わず作者は祖父を憎む。祖父の曖昧さは増していき、整頓された会話が難しくなっていった。そこで日記は途切れており、現在の作者は当時の記憶が無いことに驚き、その後8日して祖父が死んだことを付記しつつ、祖父に思いを致す。
 「死体紹介人」。訪ねてきた「私」に、朝木新八は物語る。Box and Cox(顔を合わせないルームシェアの類例)をきっかけとした奇妙に悲劇的な体験を。当時学生だった新八は、帽子修繕屋に下宿する酒井ユキ子という女性の部屋を、彼女の出勤時だけ勉強部屋として使うという契約を交わす。彼女の仕事とは乗合い自動車の車掌だった。しかしほどなくユキ子は病を得、亡くなる。身寄りのないらしいユキ子の葬儀にかかる金に困った新八は、友人で医科大助手の入江と相談し、彼女の死体を内縁の妻のものとして解剖用に寄付することを決める。解剖台の上に載ったユキ子を写した写真を見て、新八は“科学の白々しさ”を感じながらも、寝る前にポルノ写真とともにそれを眺めるのが癖になってしまった。
 ユキ子の妹の千代子が遺骨を取りに来るが、新八は入江に相談して代わりに鶏の骨を用いようとする。その準備のために赴いた火葬場で知り合ったのが、娼婦だった姉を亡くした伏見たか子であった。大学を出た新八は千代子を使用人として雇って同居を始めるが、たか子が会いに来たり、ユキ子の死体の写真を千代子が見たことなどから、千代子を単なる使用人以上として扱うようになっていく。千代子が姉と同じ車掌として働き出すと、たか子は足しげく新八のもとを訪れるようになり、姉と同じ急性肺炎で千代子が入院すると、新八とたか子の距離は接近し始める。千代子の死の間際、新八は千代子との結婚届を出した。千代子の通夜の晩、たか子がやって来ると、2人はそこで、死体の媒酌によって婚礼を交わす。
 「私」は、葬式費用に困っている死体を解剖用に寄付するよう勧めている死体紹介人、朝木新八に死体の周旋を頼もうとやって来たのだった。
 「温泉宿」。恐らくは伊豆近辺の温泉宿。そこへ女中として出入りする女たちの群像。
 A 夏逝き。跳ね返りで開けっ広げで、自身の経験から近所の曖昧宿の娼婦たちを憎むお滝と、「修身教科書」的な道徳観と、芸者屋に奉公していた経験によって花開く女としての自身の間で揺らぐお雪。宿の客と懇ろになる者もいれば、それを蔑む者もいる。宿の近くに朝鮮人の土工たちがやって来ると、朝鮮の女たちもやって来、女中の1人お絹が土工相手の淫売宿へ移って行った。
 B 秋深き。毎年夏と正月に宿を手伝いにくる倉吉と、お雪は親しくなる。料理番の吾八は暇を取って宿を出る。朝鮮人に続き、日本人の土工たちがやって来て、宿の離れに工夫監督が下宿し始めた。娼婦のお清は、自身が長くないことを悟り、自分の棺の後を可愛がった村の子ども達が列を成す様を想像する。ある朝、庭掃除をしていたお雪は、工夫監督と深い仲になったらしきお滝を見て涙が込み上げる。お滝のもとへと来たお絹は、土工たちに貸した金を帰すよう監督から便宜を図るよう頼むが、お滝は取り合わなかった。倉吉と関係を持ったお雪は、暇を出された倉吉を追って宿を出るが、その先行きは暗い。
 C 冬来り。あまりに娼婦的過ぎたお咲は、村から退去を言い渡されて今では町に住んでいるが、葉書で呼び出されれば村まで商売に来る。彼女がやって来たちょうどその日は、お清の葬儀の日だった。しかし、夜も明けきらぬ時分の葬儀に子ども達の列は無く、侘しい光景だった。見ていたお咲が酒壜を投げると、それは竹の幹に当たり、ガラスのかけらが散った。

 「伊豆の踊り子」は、20歳頃の初読時には主題が何だか定まらない感じではあったが、再読では一定の方向性を見られた気がした。秋の天城峠から下田までの旅程と、踊子の素朴な美しさはいずれも瑞々しい。そこに、孤児同然だった作者自身を置いて、心の回復を描きつつも、それだけで終わらずに、帝大生と旅芸人という避けがたい別れまでを収めたところが良いと思う。『雪国』(当該記事)は完全に大人の世界だったが、こちらはそれほど老成されていないという印象である。ストーリー的には本作の方が私は好きである。

 「招魂祭一景」は靖国の祭での芸人の寂しさ。このテーマは、「踊子」と共通であろう。短いが、構成は巧みと思う。比較的古い小説を読んでいると割とよく感じるなのだが、会話文でどちらが話しているか分からなくなるところがあった。私だけなのかもしれないが、地味に困る。
 「十六歳の日記」は、かつての日記に註釈をつけるという趣向。日記なのに、創作と同じような美的描写があるのは驚きである。例えば以下のような「~で寂しい」という書き方などは何ということもなさそうだが、不思議に趣き深い。

ランプの火で、祖父の長いひげが銀色に光って寂しい。

 「死体紹介人」は死姦一歩手前という印象である。その意味でも、この中篇は前衛的と言えそうである。“芸を生業とする人達”というテーマとともに、死もまた、川端文学の一要素だろうと思う。それは多分、「十六歳の日記」に記されているように、早くに両親を亡くし、思春期に身近なものの死に触れたからではないだろうか。
 死(タナトス)と眠り(ヒュプノス)はギリシア神話では兄弟とされるが、川端康成にはずばり『眠れる美女』という作品もある。だいぶ前に勤め先の上司から「すごくいい」という話を聞いたので、いずれ読みたいと思う。

眠れる美女

眠れる美女

 

 「温泉宿」も「踊り子」「招魂祭」と同じく、下層に生きる者の寂しさを描くものといえる。あるいは、そこに重なり合うように、女であることの辛さ、だろうか。筋は有るような無いような、不思議な感じであるが、お滝の活きの良さやお雪のしたたかな感じは読んでいて小気味よいと感じた。そんな彼女たちが結局は男たち(世の中)に取り込まれていく様も、「踊子」のちょうど裏返しのように思えて味わい深い。
 複数の人物のエピソードが並列されているのを、元祖とされる映画から取って『グランドホテル』形式というが、この作品もその形式と読んでよいかと思う。あの映画のメインは宿泊客たちの方ではあるが、温泉宿とグランドホテルという対照は何だか面白い。 

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 現状で私の抱いた川端康成のイメージは、死と女性(しかもその多くは当時の下層を生きていた女性)という2つのテーマを描き続けた人、というものである。当たっているか否か、他の作品について読んだ折々に検証してみたいと思う。
 それにしても、特に死に対する美意識は独特である。端正に美しく光景を描写するから、逆にその異常が際立つ。端正さと異常さの両方を持っているというのは、やはり流石というところかもしれない。

伊豆の踊子 (集英社文庫)

伊豆の踊子 (集英社文庫)