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何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

川上弘美『神様』の感想


(2003年11月読了)

  パソコン通信上で募集された「パスカル短編文学新人賞」に応じて受賞した表題作を筆頭に、『マリ・クレール』誌(フランスのファッション雑誌『Marie Claire』の日本版を、当時中央公論新社が出していた模様)掲載の短編も入れて計9編を収録した本である。
 その辺りの事情などは全く知らず読んだ。例によって各編のあらすじを記す。

 「神様」。「わたし」はくまと共に散歩のようなハイキングのようなものに出かける。くまは先日、3つ隣の305号室に越してきたのである。「わたし」とくまは川原に着く。くまが魚を獲って干物を作ったり、弁当を食べたり、昼寝をして帰る。帰ってきて別れる間際、乞われて「わたし」はくまと抱擁する。悪くない1日。
 「夏休み」。このところ夜になると「何かがずれる」感じがする「わたし」は、近所にある原田さんの梨園でアルバイトしている。そこで「わたし」は、梨を食べる3匹の小さなものに出会い、白い毛が生えて片言を喋るそれらを、何となく家に連れて帰る。だんだんと3匹のうち1匹が鬱陶しくなってきた「わたし」は、それに怒鳴ってしまい、1匹は姿を消すが、数日で戻ってきた。アルバイト期間が終わろうかというある夜、激しい“ずれ”が来て「わたし」は自分の体から抜け出てしまう。3匹に連れられて「わたし」は梨園に行き、連れていかれそうになるが、これを拒む。3匹は消え、翌日「わたし」は梨園に行くが3匹はもういなかった。
 「花野」。秋の野原で「わたし」は亡き叔父と会う。5年前に交通事故で死んだ叔父は、時おりこうして野原にいる「わたし」の前に出てくるのだ。家族のことや世の中のことを聞き、また語る叔父。嘘を語ると叔父は消え、またしばらく経つと出てくる、ということを繰り返していた。しかし、だんだんと叔父の興味の幅は狭まっていき、今回で出てくるのは最後だという。最後に1つ願い事を叶えるという叔父に、「わたし」は最後の午餐を願う。一緒に食べる叔父と「わたし」。食べ終えると叔父は消え、「わたし」は花野を後にした。
 「河童玉」。友人のウテナさんと、お寺に精進料理を食べにきた「わたし」。ビールを飲んで寝入っていると、境内の池から出てきた河童が声をかけてくる。河童はウテナさんに恋の相談に乗って欲しいと、2人を池の中の河童の家まで連れていく。河童の相談とは、300年連れ添った恋人と巧く「あちら」が出来なくなったということだった。なぜかウテナさんの最近の失恋のことが河童界では広く知れ渡っており、彼女はそのスジの権威と認定されているのだ。河童の料理に歌舞音曲で歓待される2人。根拠もなくウテナさんは「きっとだいじょうぶ」と言い、2人は帰ってきた。
 「クリスマス」ウテナさんがくれた骨董の壺には、コスミスミコが入っていた。彼女は壺をこすると出てきては甘い声で喋るのだ。しばらく「わたし」は無視していたが、コスミスミコが料理ができるのを切っ掛けに打ち解ける。彼女はどうも、チジョウノモツレの結果、壺の中にいることになったらしい。クリスマスムードの街に出たいというコスミスミコの願いを聞いて「わたし」とコスミスミコは街に出る。ワインをぐいぐい飲みながら、人生について話し合う2人。そういえばウテナさんも失恋したんだし、ということでイヴの夜、「わたし」の部屋にウテナさんも招いてやけ酒会が始まる。徹底的に飲み、涙が流れ、夜は明ける。

 「星の光は昔の光」。「わたし」の部屋に時おり訪ねてくる、304号室のえび男くん。3人家族で暮らしている彼は、いつも居ないお父さんはニンゲンフシンなのだと語る。えび男というあだ名は、海辺で生まれ育ったお父さんがエビを好きだからなのだ。急にえび男くんは姿を見せなくなる。年が明けて1月の半ば、久々に会ったえび男くんは、「お父さんとお母さんの間でとりこみごとがあったの」と語る。焚火に当たり、どんど焼きを見ながら、2人は“感じ”を“形”にしたらどうなるか話す。帰り道、空の星は昔の光で、昔の光はきっとあったかい、とえび男くんは言い、少し泣いた。

 「春立つ」。「わたし」がたまに行く「猫屋」はカナエさんというお婆さんが1人でやっている飲み屋である。「春だから」とカナエさんは、自身が若い頃の話を始める。雪の多い町に住んでいたカナエさんは、冬のある日、眩暈を感じ、やってきた若い男の影に連れられて、男の家で連れ添うようになる。雪が溶ける頃、男に「好き」と言うとカナエさんは自分の家に戻ってきてしまった。その後も雪が降るたび男の処へ行くが、男を欲する度に帰されてしまう。カナエさんは苦心して男のことを考えずに一緒に暮らすようにするが、無意味なことに気付いて男の処へ行かなくなったという。今なら違うようにできるのでは、と「わたし」が言うとカナエさんは笑ったが、4月になって店に行くと、「猫屋」は閉店していた。書置きを読んで、「違うようにできるかも」とカナエさんが故郷に帰ったことを知る。
 「離さない」。真上の部屋に住んでいる、美味しいコーヒーを淹れてくれるエノモトさんから久々に電話がきた。それは「相談に乗って欲しい」というものだった。エノモトさんの部屋を訪れた「わたし」は、彼が旅先で見つけ、思わず持ち帰ってしまった人魚を見た。浴槽の中で泳ぐ人魚を見るうち、魅力に囚われて無断欠勤までしまったエノモトさんは、しばらく人魚を預かってほしい、というのだ。押し切られて預かった「わたし」も人魚に囚われ、暮らす上で最低限のことをする以外は人魚を見ているようになる。不意にエノモトさんがやってきて、人魚を放すといって人魚と「わたし」を車に連れ込む。海に来た2人は人魚を放そうとするが、なかなか上手くいかない。人魚が「離さない」と言ったのに驚き、ようやく放すことができる。
 「草上の昼食」。くまに誘われ、「わたし」は散歩に出る。今度は草原に着き、くまの凝った料理とワインを堪能する「わたし」。くまは、故郷に帰ると語る。結局馴染めなかった、と。雷雨が来て、「わたし」はくまに抱擁されていたが、不意にくまは手を離し咆哮する。夏になり、くまから手紙が来る。出しようのない返事を書き、「わたし」は熊の神様に祈り、人の神様にも少し祈り、眠りに落ちていった。

  全編を覆う、なんとも言えない夢心地が持ち味だろう。現代の『遠野物語』のような感覚を受けた。かわいかったり親しみがもてたりするが、一方で恐ろしい、人間のルールが通用しない怪奇幻想の類が登場する。

新釈遠野物語

新釈遠野物語

 

 その中で表題作と最後の「草上の昼食」に出てくる“くま”は、話も通じるし人間界のルールにもすこぶる寛容で、本当はこの“くま”自体が神様なんじゃないかと私は考える(アイヌの人々は多くの自然物を神として崇拝するようだが、中でもヒグマの信仰は大きなウェイトを占めているんじゃなかったろうか)。

 その神様が、最後の1編で「わたし」の前から姿を消すのは、作者に意図がなかったにせよ意味深である。2011年3月11日を受けて、この「神様」が改稿されたものが出版されている由。私はまだ未読だが、私の読みもそう的外れじゃないのではないんじゃないかと思う。 

神様 2011

神様 2011

 

  もう1編、逆の意味で異彩を放っているのは「星の光は昔の光」である。前の話で登場したコスミスミコについての言及はあるものの、主な内容としてはえび男少年の家庭の事情で、他の話のように幻想的な出来事が起こるわけではない。しかし、「熱いっていう感じをかたちにすると、どんな形になると思う」という疑問から、「みかんって、どんな感じをかたちにしたものなんだろう」という問いに変じ、冬の星を冷たいものではなく、昔の光だから「あったかいよ、きっと」と言いつつも「終わった光なんだ」と涙する少年の心情が、綺麗で、切なくて、印象に残る。

 “くま”絡みの2編と異色作に先に触れてしまったが、それ以外でと言われれば「クリスマス」が最も面白く思った。チジョウノモツレのお蔭でランプならぬ壺の精になった、馬鹿っぽくも純情なコスミスミコの恋の記憶を慰撫しつつ、女3人で聖夜に酒を飲みまくる話だが、人も霊もいっしょくたに語り合わせてしまう酒の魔力を感じて愉快だった。『遠野物語』みたいと感じたのは、恐ろしいだけじゃなくて、人も怪異もフラットな扱いがされているから、ということもあるだろう。

神様 (中公文庫)

神様 (中公文庫)

 

 

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