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何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

福井晴敏『川の深さは』の感想

小説 日本近現代文学


(2004年8月読了)

 娯楽大作が読みたくなり読んでみた。刊行された順番でいえば本作は作者の2作目に当たるが、書かれた順番的には処女作と言ってよいだろう。まずは軽くあらすじ。

 新興宗教の神泉教が起こした地下鉄爆破事件の公判がマスコミを賑わす日本。そんな世間には我関せずを貫いて、40代の桃山剛は亀戸でビルの警備員として働く毎日を送っていた。マル暴の刑事として“桃太郎”の異名を取ったのも数年前の話。警察組織と折り合いを付けられず、数年前のとある事件を潮に退職し、ついでにバツイチになってからは、仕事を適当に済ませてはパチンコに耽る、無為な日々を送っているのだった。
 そんな桃山だったが、ある晩の勤務中、ビルに逃げ込んできた若い男女と接触し、ビル内のMDF室に匿うことになる。黒髪と華奢な体つきの少女、須藤葵。そして、葵を守ることを「任務」だと言い、銃器を始めとした強力な戦闘技術を有する少年、増村保である。重症を負っていた保の手当をするうち、自分の現状が恥ずかしくなり奮い立った桃山は、2人に協力しようと考えるが、葵と保は忽然と姿を消す。2人の足取りを追う桃山は、現役時代に信頼関係を築いたヤクザで同じように保たちを探す金谷と接触したり、通称「市ヶ谷」こと防衛庁情報局の城崎涼子と対峙するうち互いに不思議な親近感を抱くに至る。
 やがて明るみに出る神泉教と各国をめぐる真実と、保と葵の過去。静かに動き出す何者かの野望。
 「あなたの目の前に川が流れています。深さはどれくらいあるでしょう?」。桃山と出会ったばかりの頃、葵が問いかけた心理テストにいずれも「肩まで」と答えた中年と少年の、それは戦いの始まりを意味していた。

 恐らく多くの読者が指摘するところだと思うが、確かに映像的な作品である。それも終盤のスペクタクルな感じを活かすためには東宝あたりで映画化されるとよさそう…などと書いていたら、同じ作者の『終戦のローレライ』を原作とした映画『ローレライ』は東宝で映画化されていた。他に『亡国のイージス』も映画化されており、映画好きから小説を書き始めたという作者の経緯に沿っていると言えるだろう。

ローレライ [DVD]

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  作中の物語では、国内外の組織の思惑が絡み合った複雑な陰謀が背景にあるわけだが、それはあくまで遠景に過ぎず、葵、保、そして桃山の3人――もっと言えば保と桃山の心境の変化がメインであると言えそうである。
 真剣に生きるということ。国を愛するということ。そういうことを臆面もなく書かれてしまうと、私のような斜に構えた読者は、ちょっと恥ずかしいような興醒めなような気がしてしまうのだが、桃山の江戸っ子っぽい口ぶりで話される台詞には、そういう抵抗を振り切って恰好よさを感じた。ちょうどいま代表作『うしおととら』のアニメが放映されている漫画家の藤田和日郎にも通じる、愛すべき短絡さといったところだろうか。

 とはいえ、それは桃山の台詞だからであって、地の文で延々と展開される現代日本社会への批判的吟味はやはり、もう少しあっさりでも良かったのではと思う。それに、登場人物の過去の説明なども同じような調子(人物の主観的な回想ではなく、地の文での客観的説明)で描かれているのだが、これも少し間延びした感じがした。
 終盤に至るまでは割とそういう地味な場面が続くので、活劇というよりは葵と保を探したり素性を探ったりというミステリ的なニュアンスの方が勝っていると言えそうでもある。その点を勘違いしなければ、職場に匿った葵と保との、同僚には秘密にしながら彼らの手当をしたり一緒に食事をしたりという不思議な日常や、敵役と思われた城崎涼子とちょっといい感じになったりという、桃山の物語を楽しめるのではと思う。

 一般的に書くと以上のような次第なのだが、私自身、会社を“途中下車”して独立した経緯があるために、世の企業組織とそこで働く人間に対する桃山の考え方には、だいぶ首肯する部分が多かったように思う。仕事というのは良くも悪くも人生において大きなウェイトを占める要素だが、彼の仕事とそこに向ける意識の変遷に着目しながら読むというのも、乙なものかもしれない。

川の深さは (講談社文庫)

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