何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

川端康成『雪国』の感想


(2003年8月読了)
 言わずと知れた小説である。川端のノーベル文学賞受賞の審査対象となった。

 舞踊研究の真似事をしつつ、実態は妻子持ちながら親の財産で暮らしている島村は、旅先の越後湯沢で駒子という娘と出会う。最初は芸者代わりに呼んだ、三味線と踊り見習いの娘として、次に訪れた時には正式な芸者として。島村は清潔な印象の駒子に惹かれ、駒子も島村を慕うようになる。
 一方、駒子の踊りの師匠の息子で、駒子の許嫁という噂のある行男は、病のために死に瀕していた。彼を想い、甲斐甲斐しく看病する葉子は、哀しいほどに美しい声をしていた。
 過ぎゆく年月の中、島村はしばしば越後湯沢を訪れるが、駒子の愛情に徒労の予感を感じ、それゆえに駒子を哀れみ、同時に自らをも哀れむのだった。

 冷えた透明感のある文体である。夏を除いた春秋冬を描いていながらも、冒頭の有名なくだりにある冷静な感じ(幻想性と孤独感がある)がずっと残存しているように感じた。

  それと思ったのは、省略が上手だということ。ここのところ読んだ池田満寿夫とか田中康夫は、性的な場面を割と明確に表現しているのだが、川端康成は巧みにぼかしたり、あるいは全く表現しなかったりする。例えばこんな感じである。

「……あんたが悪いのよ。あんたが負けたのよ。あんたが弱いのよ。私じゃないのよ。」などと口走りながら、よろこびにさからうためにそでをかんでいた。
 しばらく気が抜けたみたいに静かだったが、ふと思い出して突き刺すように……(p.31)

 こんな風に場面がいきなり飛ぶ感じは、現代の小説というよりは『伊勢物語』の「いきて寝にけり」とだけ書いて済ませるセンスと共通したものを感じた。 そういうジャパニーズな感じが、海外でも評価された一因なのだろうか。

伊勢物語―付現代語訳 (角川ソフィア文庫 (SP5))

伊勢物語―付現代語訳 (角川ソフィア文庫 (SP5))

 

 駒子の人物像にも少し触れる。読む前は漠然と、『銀河鉄道999』のメーテル的な性格を想像していたのだが、超然とした感じはありつつも、意外と烈しい性格だったのは意外だった。ただそれが反感を感じるほどでもなくて、総体的には丁寧さを持ち合わせた、いじらしい女性という印象である。彼女がよく酒に酔って島村のところに押しかけてくる場面があるのだが、そういう時のやり取りは娘らしくて、全体的に哀しみを帯びた本作中で少し可笑しみのある部分と感じた。

 この作品は、国外で暮らす日本人に郷愁を抱かせ、愛読されたという。地方の温泉地で、唄と踊りがあって、という情緒が盛り込まれているからかと思う。ただ、新緑の季節、真冬、晩秋と、真夏を除いた日本の季節を描いている点も、愛読された理由には含まれるのではないだろうか。特に冬の雪国の暮らしぶりについては、作品のタイトル通り、念の入った描写がされていると思う(作中に出てくる「昔の本」というのは『北越雪譜』とのことである)。

北越雪譜 (岩波文庫 黄 226-1)

北越雪譜 (岩波文庫 黄 226-1)

 

 もっと甘々な物語かと予想していたのだが、読んでみればこれは清冽な日本酒のような味わいだった。甘くも辛くもなく、ひたすら澄んでいるが気がつけば酔っている、というような。
 さすがに古さはあるが、それがある種の熟成された魅力になっていると感じる。川端康成はもう少し纏めて読みたいところだ。

雪国

雪国

 

 

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