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宮本輝『錦繍』の感想


(2004年10月読了)

 タイトルの“しゅう”は機種依存文字のため、閲覧環境によっては正確に表示されない。残念だが略字と目される「繍」の字で代用する。
 およそ1年にわたる、両者の14通の手紙だけで構成された作品である。以下、とりあえずあらすじを記そう。

あらすじ

 かつて27歳と25歳の夫婦だった2人。その2人は、37歳と35歳という別々の人生を生きる2人となって、紅葉に燃える蔵王のゴンドラ・リフトの中で、つかのま再会した。1人は平安でない日々に疲れ果てた容貌で。もう1人は障害をもつ子の母として。そして殆ど言葉を交わすことなく、再び別れた。
 一瞬の再会を契機に、かつての妻――勝沼亜紀は、十数年ぶりにかつての夫――有馬泰明に手紙をしたため、泰明も躊躇いがちにそれに返信する。文通は当初、離縁の直接の原因となった泰明の不義――彼の旧知であり、深い仲となっていった瀬尾由加子についての回想を交えた、彼女からの無理心中に至るいきさつ――の説明として始まった。
 それは次第に、それぞれが生きてきた日々と現在を語る言葉に移り変わっていく。
 亜紀は書き綴る。泰明に去られた哀しみを。経営している建設会社の跡継ぎに娘婿をと考えていた自分の父の失望を。常連となった喫茶店モーツァルト」の焼失と再建を。別離の元凶となった由加子への憎悪と、息子・清高が障害児として生を受けたことの遠因としての泰明への怨恨を。「モーツァルト」での奇縁による東洋史学者・勝沼壮一郎との再婚と、通い合わぬ心を。そして、それら全ての元と言えるかもしれない、宿業めいた自らの因縁を。
 泰明は書き綴る。離婚以後のすさんだ生活を。心中の夜に、死にゆく自分を離れた所から見ていたという臨死体験を。現在ともに暮らしている令子の献身と、彼女の祖母が語ったという生と死の巡りあわせを。そして、令子の発案によるささやかな新事業の立ち上げと、それによって少しずつ回復していく心を。
 慕わしさとともにあった屈託は、手紙の応酬のうちに消えた。「生命の不思議なからくり」を秘める宇宙に、互いの幸せを心から祈りながら、2人はついに本当の別離の時を迎える。

感想

 美しくも哀しい小説だった。お互いにかけがえのないだろう相手に、自分の道を行くことを伝えあって歩み去っていく結末には、ただのロマンスでは済まされない力強さもある。
 主人公である泰明と亜紀はもちろんだが、亜紀の父である星島照孝がまた、老齢のうえ哀しみを抱えつつも、経営者として父として頑張っていて素晴らしい。老境にあって思い通りにならない事態に接しつつも、心折れることなく善処する様子は、私自身も老いていくにあたって見習いたいものである。
 また、泰明の不義の相手である瀬尾由加子の少女時代の描写が、舞台となっている東舞鶴の翳った感じと相まって良かった。“陽”ではなく“陰”の美しさとでも表現すればよいだろうか。先だって記事にした「学生アリス」シリーズの名探偵役・江神二郎(当該記事)の出身地が宮津だそうだし(彼もまた少し影のある男として描かれている)、いずれ京都の日本海側をめぐる旅に出るのもよさそうである。

 ただ、この題名はこの物語に確かに相応しいとは思うのだが、燃えるような秋の情景がもっと生きていると、なお良かった。逆に言えば、中盤に出てくる「宇宙の不思議なからくり」「生命の不思議なからくり」などの臨死体験や輪廻転生を連想させられる言葉が2人を変えていくキーになるのだが、それと「錦繍」という言葉のイメージが、私にはあまり合致していると思えなかったのである。

 単純に私が、そうした「不思議なからくり」に祈る、という終盤の2人のスタンスに、あまり共感しなかったためかもしれない。まあ、それは主観であるから仕方がないだろう。

 もう1つ、特に亜紀にとっては、モーツァルトの音楽も重要な役割を果たしている。作中でも登場する交響曲41番の動画があったので貼っておこう。流しながら読むと、作中で亜紀が感じたことを感じ取れるかもしれない。

 内容についてはいいとして、この小説の形式(書簡体小説)について思ったことも書いておきたい。
 冒頭こそ蔵王だが、主な舞台は関西なので、登場人物はみな関西の言葉を使う。しかし手紙文としてはほとんど共通語として書かれ、関西弁は大体「 」でくくられた直接話法としてのみ表れる。ここでの関西弁は、例えばお笑い等で触れる関西弁とはまた違う、落ち着いた印象を持ちつつも、関東の言葉にはない含みのようなものがあって興味深かった。
 また、幾度か両者が「過去の手紙でこう書いたはずだ」というような言い方をしている点も記憶に残った。これは、メールのように過去に自分が書いたことが手元に残らない手紙という形式ならではであろう。
 コミュニケーションに必要な厳密さとしては、勿論、過去に自分が書いたことをその後も確認できるメールの方が有利だと思う。しかし、コミュニケーションに必要なのは、常に厳密さだけだろうか、と考えもする。「以前こう書いたと思うが」という曖昧さは、とりわけ男女の情を綴った手紙には似つかわしいのではないだろうか。

 今、仮にメールなどの形式を用いて、このような小説が書けるだろうか。『パンプキンシザーズ』という漫画に、手紙から電信への変移を具体例とした技術進展についての一考察が描かれている(同作19巻)が、そこで言及された、技術の進歩に伴う世界の変化(より極端に言えば、かつて存在した世界の“滅び”)の1つに、現代における書簡体小説の困難さ、というものも含まれるのだろう。

 最後に、やはり主人公2人について書こう。
 手紙のやり取りを嫌がる泰明に、「性懲りもなく」手紙を送り続ける(そして、それによって結局はやり取りが続いていく)亜紀の、品の良さと、かつての妻としての執着が同居するような書きぶりが愛らしかった。「私、またお便りしますことよ」とか「あなた、ねえ、あなた、」といった文面に、いかにも往年のお嬢様育ちを感じる。
 亜紀の方が基本的に裕福なのに対し、泰明は経済的にも苦しいことになっており、特に最初の方の手紙ではうらぶれた感じである。それでも令子という存在を支えに立ち直っていくのだが、その過程のいじけた様子には少しやきもきさせられた。やることなすこと裏目に出てばかりだったのだから、仕方ないのかもしれないが。むしろ令子が人格者すぎて、その辺りは彼女に味方するつもりで読んでいた。

 お互いが生きていながら別れていくというのは、今生の別れではないだけに、場合によっては死別よりも辛いことではないかと思う。ただ、それでも、どれだけ思い合っていても、それぞれの道を行かなければならないということは、あるのだろう。そのことを静かに決然と、この小説は示している気がする。

錦繍(きんしゅう) (新潮文庫)

錦繍(きんしゅう) (新潮文庫)

 

 

 

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