何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

夏目漱石『草枕』の感想


(2003年9月読了)

 漱石読みの2点目としては、『草枕』を手に取った。

 画工の「余」は、「いやな奴」が充満している世の中から逃れ、人の営みをまったく詩や絵として見るという「非人情の旅」と称し、熊本の温泉地までやってくる。
 宿へ向かう山中の茶屋で聞いたのは、これから行く那古井の志保田という宿の娘である「嬢様」の話だった。京都に好きな男がいたが、親の意向で地元の富豪に嫁いだものの、日露戦争のために男の勤め先がつぶれ、今では実家に戻っているという。
 宿についた「余」は、その「嬢様」である那美と会う。エキセントリックな言動をする那美に意表をつかれながらも、「余」は彼女をつぶさに観察し始める。その様を俳句に詠んだり、絵を描こうと外を歩いたり、宿の主に骨董を見せてもらったり、近所の禅寺で和尚と話したり、離縁した元の夫に金を渡す那美の姿を目撃したりしながら、「非人情の旅」は過ぎていく。
 那美は「余」に、「身投げして往生して浮いているところを綺麗な画に描いてほしい」頼む。しかし「余」は「足らないところがある」と描き出すことができない。那美の顔に憐れの念が出なければ、ものにはならないと「余」は考えるのだった。
 やがて満州へと出征する久一(那美の従兄弟)を送るため、那美たち親族とともに「余」は吉田の停車場へと赴く。汽車が出る時、ふと窓から顔を出した元夫を見て、那美の顔には「憐れ」が兆した。それを見て「余」は自分の思い描いていた画の成就を認めるのだった。

  『吾輩は猫である』(当該記事)の直後に執筆されたとされている小説である。しかし、毛色はかなり異なっている。『猫』は文明論、こちらは芸術論という違いはあれど、それらの評論を漱石の和・漢・洋の知識をフル活用して本筋そっちのけで展開している点は共通しているように思うが、作中の空気がかなり違う。どちらかというと喜劇的な色合いのある『猫』に対して、この小説は無色透明という趣きがある。
 オフィーリアとか長良の乙女(万葉集の日置長枝娘子[ヒオキノナガエガオトメ]がモチーフらしい)に重ねられる那美の来歴は、なかなか痛ましいのだが、だからといって小説に悲劇的な色合いはない。彼女の過去に迫り、その心情が吐露されることはないのである。
 それが「非人情」ということなのだろうが、作中で語られているように「非人情」は「不人情」とはまた違うのである。“人情が無い”のではなくて“人情以前”である、というべきか。

 ともあれ、この小説で優先されているのは先に書いたような芸術論なのだ。詩歌・書画・骨董・茶など、芸術全般についての「余」(恐らくはイコール漱石)の論説が披露されるのはもちろん、那美についても、ただひたすらに彼女の姿ややや奇矯な振る舞いといったものが説明される。これも、芸術論の一環と言っていいかと思う。
 さらに言えば、温泉宿というロケーションの描写もまた、一種の芸術論ではないだろうか。夜になって宿に着いた「余」が部屋へ案内されて歩いた薄暗さや、浸かったままぼんやりと考え事をする湯壺の様子もまた、芸術的だと思うのだ(浸かっていると那美さんが入ってくるという多少どっきりなシーンもある)。
 「草枕」という言葉は、元は「草で編んだ枕」で、旅先での侘しい眠りを指している。ここから、鄙びた温泉宿に独り泊まる侘しさを連想するのもそう無理ではないだろう。日本旅館というのは、もしかしたら、この「非人情」の感じを出そうと営々とやってきているのかもしれない。

 この作品を面白がれるかどうかは、『猫』よりは人を選ぶかもしれない。私にとって芸術論は興味深かったり退屈だったりしたが、那美さんの人物像とラストの鮮やかな「非人情」の感じはインパクトがあって気に入った。旅に出る時、バッグに忍ばせておくのもよさそうな1冊だと思う。

草枕 (岩波文庫)

草枕 (岩波文庫)