読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

吉本隆明『共同幻想論』の感想


(2004年5月読了)

 『唯脳論』(当該記事)でも触れた、仲間内で本を読もうという通称「本の会」の6月課題として読んだ。作者は拠るべき典拠を『遠野物語』と『古事記』の二つに限って論をすすめた、としているが、実際はフロイトマルクスなど、先行の多くの人物の論を引いている部分は多い。その上で自己幻想・対幻想・共同幻想という独自の言葉を厳密な定義なしに用いているので、なかなかに難解である。
 あらすじの代わりに、当時読みながら章ごとに書いたメモを載せておこう。必ずしも作者の言わんとしたことの要約と言えるものではないだろうが、読書の足掛かりくらいにはなるだろう。

禁制論
 近親相姦に対する禁制は対幻想に、王権に対する禁制は共同幻想によるものである。
憑人論
 人に何かが憑依したということ(憑人)は、その共同体内でそう認める(共同幻想)か、周囲に異常と取られ(自己幻想)、後者ではその憑依を自分で制御できるか否かによって、制御可能なら巫覡と、不可能なら精神異常とみなされる。
巫覡論
 巫覡とは、いづな使いのように「狐」というトリガーを元に、自己幻想(自己幻覚)を意識的に共同体の行動幻想に集中同化させる能力を得た者である。トリガーを狐に限らなければ、現代においても巫覡は実在し得る。
巫女論
 巫女とは、共同体の幻想を自己の対幻想の対象とすることのできる者。言い換えればカミに恋することのできる者。
他界論
 社会的な共同利害のない共同幻想(彼岸)を考えるとき、それは必ず死(個別なものではなく、共同幻想の中での死)を通じてなされる。例えばある人の肉体的な死に際して、「○○(何らかの超常的な現象)したから自分は死ぬ」と作為的に意味付けし直す。死にゆく人の自己幻想に対し、その共同体の共同幻想が意味を与える。
祭儀論
 誕生、言い換えれば出産は、共同体の共同幻想と男女の性(対幻想)の両方に関わっているという点で死と異なる。
 これら死と生をめぐっては、穀物の生成についての共同幻想と親和的で、『古事記』の大気津姫など、女神の死が大地の豊穣に繋がるという例を見ることができる。
母制論
 母系制社会とは、家族的な対幻想(そのうち拡がることのできる兄妹、姉弟という関係)が共同体全体の共同幻想に同致した(ほぼ同じものとなった?)社会をいう。
対幻想論
 家族とは、母系制社会のような、共同幻想に同致するような対幻想を抜いた、純然たる対幻想の場をさす。一組の男女の、お互いに対となる幻想から家族は生み出されてきた。
罪責論
 共同体(共同幻想)の定めたルールに反し、個人的な行動をすることは、共同体から罪責を問われることになるが、このとき同時に、個人の中に何がしかの倫理が生じたことをも意味する。
規範論
 宗教が分裂し(整備され)法となり、それは国家になっていくが、その過渡期に“規範”はある。それらはいずれも共同幻想には違いないが、その移り変わりは不連続であり、前段階の共同幻想は後の段階の共同幻想によりただの掟とか伝習といったものに陳腐化される。
起源論
 国家の成立とは、血縁内での共同性(対幻想?)を超えた共同幻想が現れた時のことを指す。

 一読して面食らったのは、『遠野物語』と『古事記」という民俗学的な文献を例に取っているという点だった。「序」では全世界的な視野で考えられるものとして共同幻想論を提示しているが、本編は日本国内に限られている感じがして、少し窮屈にも思えた。とはいえ、援用されている文献は海外のものも多いので読むうちに気にならなくなったが。

遠野物語―付・遠野物語拾遺 (角川ソフィア文庫)

遠野物語―付・遠野物語拾遺 (角川ソフィア文庫)

 
古事記 (岩波文庫)

古事記 (岩波文庫)

 

 それにしても、もともと詩を書いていた著者のためか、言わんとしていることを読み取るのにかなり骨を折った。そんな本書に対し、どうやら重要そうな事項を章ごとに抽出し、自分の考えも加えたのが上のメモである。

 また、用いられている用語が読み辛さに拍車をかけている。「上部構造(下部構造)」「同致」「疎外」など、マルクスを始めとする当時の思想的経緯を踏まえていないと分からない言葉が多いのである。文脈的にぼんやりと意味は分かるものの、精読するというのであれば思想用語辞典のようなものを傍らに置くべきであろう。
 さらに、著者独自の3つの幻想がまた難しい。共同幻想、自己幻想はまだいい。国も会社もどこかの委員会も、それぞれの個人がそういう組織が存在すると幻想しているからこそ運営されていて、誰もそんなものを信じなければ組織は組織として機能しない。これが共同幻想で、個々人が勝手に考えたり夢みたりするのが自己幻想といえばいいだろう。
 曲者は対幻想である。男女の性的な関係における幻想とはつまり恋情だと思うが、それと家族というものは本当に同一なのか。読んでいるうちに何となく分かったような気もしたが、実感は伴わなかったように思う。著者もそこを補強しようとしたのかこの言葉の説明に一章を裂いているが、それでも不明瞭さは残る。
 同じように思った人が多く需要が見込まれたのか、ずばり『対幻想』という聞き書き本が出ている。既に手元にあって積読状態なのだが、いずれ読みたい。

対幻想―n個の性をめぐって

対幻想―n個の性をめぐって

 

 そういう、論の整合性について不満に思うところは幾つもあったが、もともと民俗学文化人類学は割と好きだったこともあって、『遠野物語』や『古事記』から具体的なエピソードが引かれ、それらに著者独自の解釈が加えられていくところは、その部分部分として読めばまことに興味深かった。
 共同幻想というものが世の中の諸々の背景にある、というのは頷けることである。著者はあまり現代的な例を挙げていないが、それらを挙げて卑近な例に引き付けて書いたものも読みたかったと思う。既に鬼籍に入った著者であるし、在野で論じ続け、後継となるような人物もいないように思うので、この望みは果たされることはないだろう。仕方なく、本書とに付随する何冊かを味読する他はなさそうである。

 

広告を非表示にする