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何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

夏目漱石『道草』の感想


(2003年12月読了)

 完結した漱石の小説としては最後の作品である。この後、『明暗』の連載中に漱石胃潰瘍のために没している。ひとまずあらすじを。

 海外に留学し、帰って大学に勤めている健三は、ある日、絶縁した元の養父の島田と会う。かつて健三を世話したことを種に、健三に金をせびる島田。島田だけでなく、比田に嫁いだ姉のお夏、島田の先妻であるお常、妻の父と、次々と金銭的な援助を求めて親類が健三のもとを訪ねてくる。
 しかし、健三にも余裕があるわけではない。大学で忙しく働き、傍ら自分の著作を書き上げようと呻吟し、なにかと口論をする妻の御住(おすみ)は3人目の子どもを身ごもっておりヒステリーを起こすこともある。そんな境遇の中、苦々しい思いを抱きながらも健三は自身の感情と義理の間で葛藤し、再三金をせびりにくる島田を拒絶できないでいる。
 ある時、島田の娘である御縫の死を切っ掛けに、ようやく断ることができ、御住は無事に出産を終えるが、島田は人を介して最後の無心を仕掛けてきた。比田と兄の手助けにより、最後の用立てを済ませた健三ではあったが、健三の心には「片付かない」という感覚ばかりが残った。

 大学教師の夫とクールな妻。それと金を腐心してもらいに来る老いた養父母に兄や姉。こうした構図は、『吾輩は猫である』を執筆していた頃の漱石の境遇そのままであるとの指摘がある。それまでは自分と似て非なる人物たちを描き続けてきた作者が、最後に完成させた小説が自伝的なものだったというのは不思議な感じがする。
 健三=漱石だとすると、妻の御住は漱石の奥さんである鏡子夫人ということになる。作中ではさんざん不人情な妻というように描かれている。以下のような薄ら寒い一文すらある。

夫婦はどこまで行っても背中合せのままで暮した。

 しかし実際のところはどうだったのだろう。夫婦の間の話など、外野が何を言っても詮無い面はあるにせよ、手掛かりはある。鏡子夫人には『漱石の思い出』という著書がある。これを読んだ感じでは、漱石の癇癪に負けない、良い意味でお似合いの夫婦だったと私は思う。

漱石の思い出 (文春文庫)

漱石の思い出 (文春文庫)

 

  ほぼ全編、お金の話で(妻と夫と子どもたちという家庭小説の側面もあるにはある)、それはそれで身につまされるのだが、金の無心を切り出すまでの島田や姉たちの話しぶりが楽しい。“世間話とはこうやって用いるものだ”という見本のようである。
 こんな話し方は誰もしないよと思っていたら、とあることで知り合った年配の方は、私に何か頼み辛いことを頼む時、まさにこういう話し方をしていた。どうも、一定以上の年齢の方にとっては普通のことのようである。

 この小説に一貫しているキーワードは「片づかない」である。確かに人間が生きることは、すぐさま右や左や真っ直ぐというように片付かないものが多い。
 しかし、それで腐るのもつまらない。健三は嫌々ながらも「片付けよう」とする生き方をしているように、私は読んだ。逃避がないのである。「片付くものである」という前提自体、間違っているのかもしれないが、仮に間違っているとしても、「片付けよう」とする意識を持って困難に当たるというのは、割と健全なことのように思う。

道草 (岩波文庫)

道草 (岩波文庫)

 

 

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