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何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

夏目漱石『門』の感想

 


(2003年10月読了)

 漱石のいわゆる3部作を扱うのも最後の1作となった。『門』というのは漱石の弟子が適当につけたものだそうで、漱石は「なかなか「門」っぽくならないんだよね(意訳)」と困っていたらしい。そう書いた書簡が残っている。以下あらすじを簡単に。

 役所で働く野中宗助は、妻の御米とともに極力外界との接触を控え、ひっそりとした生活で満足している。満足しなければいけないと自分たちに言い聞かせている。仕事も憂鬱だが、目下、急を要する困りごととしては、実弟の小六の学費をどうするか、ということであった。金はない。
 仕事で各地を転々としているうち、亡くなった父の遺産である実家は、山っ気のある叔父の佐伯のもとで空費され、その叔父の家に厄介になっていた小六は、叔父の死とともに今後の学費が出せない旨を叔母から言い渡されたのだった。小六にせっつかれながら、日頃の仕事の疲れもあり、宗助はなかなかこの問題を片付けられない。
 やがて、小六を家に同居させ倹約しつつ、鰹漁の船に発動機を取り付けるビジネスを始めようという叔父の息子・安之助からも幾らか出させて学費を捻出しようと宗助は考える。しかし気苦労のためか、今度は御米が体調を崩して寝込む。
 御米は過去に三度、妊娠出産に失敗しているのだ。それが余計に宗助と自分の過去の罪への意識を助長している。かつて、既に御米と内縁の夫婦だった宗助の友人、安井。宗助と御米は彼を裏切り、夫婦になったのだった。
 ふとしたことから大家の坂井と懇意になった宗助は、坂井から小六を書生として寄こしてはどうかと相談される。小六の件に見通しが立って安堵する宗助だったが、蒙古をうろついているという坂井の弟が、現地での友人で安井という者を伴って遊びに来るという話を聞いて驚愕する。
 救いを求めた宗助は、役所を休み、単身鎌倉に向かって禅寺で参禅する。親切な禅僧はアドバイスをしてくれるが、悟りは得られず、ほどなく彼は帰宅した。その間に坂井の弟と安井は蒙古に戻り、小六は自力で安之助からの援助を取り付けていた。
 知らないうちに春の兆しが来ていた。御米はそれを喜ぶが、宗助の脳裏には、既に次の冬が思われていた。

  先日の『それから』の感想(当該記事)で、『三四郎』と比較して「暗さを帯びた雰囲気」と書いた。それから更に進んだ本作では、暗さというよりは、まずは“無色”という感じが前景にあるように思った。
 『それから』は、代助が高等遊民から脱して職業を探し出すところで終わっているが、これに対し、宗助は役所勤めというこの上なくしっかりとした仕事に就いていて、日曜日だけが楽しみという、まるで現代のサラリーマンのような心境に至っている。お金について叔父の家と若干トラブルを抱えているようだし、それに関連して弟の小六の学費をどうするかという問題も抱えているが、激烈な悩みというほどでもない。だから毎日の暮らしは、仕事場に行って帰ってくるのと同じ程度に平坦である。
 しかしそれはあくまでも前景であって、宗助と御米の足下にあるのは、『それから』のクライマックスとほぼ同じ、かつて友人を裏切った上での今の暮らしである、という意識である。そのことが読み続けるうち徐々に姿を現していく様は、暗いとかではなく、もう怖かった。そこから振り返ってみれば、淡々とした夫婦の日常もまた、不安で不気味なものにも思える。
 そうした不安は、大家である坂井の家に、坂井の弟と一緒に安井という男が来る、という話が出たところで頂点に達する。しかし、宗助はそれを御米には言えない。

 宗助はいっそのこと、万事を御米に打ち明けて、共に苦しみを分って貰おうかと思った。
「御米、御米」と二声呼んだ。
 御米はすぐ枕元へ来て、上から覗込むように宗助を見た。宗助は夜具の襟から顔を全く出した。次の間の灯が御米の頬を半分照らしていた。
「熱い湯を一杯貰おう」
 宗助はとうとう言おうとした事を言い切る勇気を失って、嘘を吐いてごまかした。

 このところに、例え同じ罪を共有する(だろう)妻であっても、肝心なところで他者としてしか向き合えない宗助の寂しさがあると感じて薄ら寒かった。御米は、安井を裏切った頃はいざ知らず、小説の中では、美禰子や三千代らと同列とは考えにくい、意気の弱い女性として描かれている。

 ここに至って宗助は禅にすがることを思いつき、ようやく「門」らしくなる。結果は思わしくはないが、この禅寺でのシーンは、それほど長い分量ではないもののなかなか印象的である。私は大学生の頃、人に誘われて座禅サークルなるものに2、3度参加したことがあるのだが、そのとき座禅ビギナーだった私が感じた座禅への半信半疑な感じが、宗助の座禅する描写にもよく表れていて面白いと思った。
 作中に出てくる座禅に関する本を調べてみたら、『碧巌録』というのは岩波文庫にもなっているようだ。

碧巌録〈上〉 (岩波文庫)

碧巌録〈上〉 (岩波文庫)

 

  宗助の面倒をみてくれる僧の釈宜道は、参禅に当たってこういうものを読むのは「極悪う御座います」と言っているので微妙なところかもしれないが、まだ「宜しゅう御座いましょう」と言っている『禅関策進』の方は、そう手軽に読める代物ではないようである。こちらも岩波文庫になればいいのに。

禅の語録〈19〉禅関策進 (1970年)

禅の語録〈19〉禅関策進 (1970年)

 

  結局、宗助は何も能動的に動くことなく(禅寺には行ったが、それが能動的と言えるだろうか)物語は終わる。坂井の家で安井と鉢合わせしていたらどうなっただろう、という思いはあるが、何も変わらなかったのではないか、というようにも考える。そう考えさせられるほど、宗助は倦怠しているように思われた。

 『三四郎』『それから』と本作が、なぜ3部作と呼ばれるか、改めて少し考えてみる。1つには、男が年齢を経るごとに変化していく精神の在り方を捉えたものだから、というのはどうだろう。あるいは、引き裂かれた恋情の過去・現在・未来を描いたものだから、というのも言えなくはない。
 依然として私には『三四郎』と他2作とのギャップがあるように思えるが、一応、納得はいくような気はしてきた。
 ちなみに漱石の3部作としては、後期3部作というのもあるとのこと(『彼岸過迄』『行人』『こころ』)。『こころ』は高校の頃に夏休みの課題で読んだが、あと2冊もそのうち手に取ることになるだろう。

門 (岩波文庫)

門 (岩波文庫)

 

 

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