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純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

若合春侑『腦病院へまゐります。』の感想


(2004年9月読了)

 煽り文句に曰く“究極の情痴文学”と言われた表題の処女作と、もう一編「カタカナ三十九字の遺書」を収める。以下まずは各篇あらすじ。

あらすじ

「腦病院へまゐります。」。苦しむ「私」から「おまへさま」への書簡。普段はお春婆様の営む店の帳場仕事をしていた「私」が、カフェの女給として働いていた時、客として来た英国帰りの帝大生「おまへさま」。夫がありながら「私」は「おまへさま」に強い恋情を抱き、肉体関係を結ぶ。谷崎潤一郎の小説を偏愛する「おまへさま」は、数々のサディズム的行為を「私」に強いるが、愛するあまり「私」はそれを全て受け入れようとする。乳首を煙草の火で炙られ、糞を食わされ、野外で全裸にさせられ、苦痛を感じる理性と喜悦を感じる情欲の間で揺れながらも「私」は「おまへさま」を慕い続ける。が、「私」との関係を変態性交のみと割り切る「おまへさま」は「私」に好意を示しながらも冷淡で、良家の女性と結婚する一方で「私」を苛み続ける。心身ともに傷つき、病院通いを始めた「私」は「おまへさま」に自分が既婚者であることを告げ、距離を置こうとする。満州から傷痍軍人となって戻った「私」の夫とお春婆様は「私」を手厚く介抱するが、「おまへさま」はしつこく「私」を誘い、それに乗った「私」に対していや増しに責め苦を与える。理性と愛欲の相反に苛まれ、ついに「私」はゼームス坂の脳病院(精神病院)に行くと書くが、直後、狂乱のさなかで「おまへさま」への愛を語り、「おまへさま」に殺されるのが本望と綴る。
「カタカナ三十九字の遺書」。少女時代から長く仕えた家の主人である色川喬太郎が死に、後を継いだ息子が屋敷を処分するため、居場所がなくなる寡黙な老使用人、芙蓉。死のうと思った彼女は、かつて主人が書き散らした反故を古鞄に詰めて街に出るが、適当な場所があるように思えない。みちみち思い出すのは、奉公し始めた時の少年だった喬太郎のこと。芙蓉が15歳の時、喬太郎は自分の「おとことしての機能」を試すために彼女を使い、芙蓉を奉公に出して間もなく自死した母に代わって片仮名を教えてくれたのだった。屋敷に戻った芙蓉は、台所を見て喬太郎の3人の妻と、年上の使用人だった八重を思い出す。この屋敷を相続する息子とは最初の妻ロオリィの子である祐太郎だが、その祐太郎の口からロオリィは姑が嫌だったわけではなく、妾が同居しているのに耐えられなかったと聞かされ、芙蓉は自分のことではないかと狼狽する。蘇る、堕胎と、喬太郎が芙蓉に書かせた片仮名の遺書による策略の記憶。いよいよ家を出る日が近づく中、持ち去られたベッドの下の防空壕に久しぶりに入った芙蓉は、そこで女の肖像画と、若い男女の写真をみつける。それは、喬太郎と芙蓉のこれまで全く思い描かなかった関係を示していた。やってきた祐太郎も残された手紙で事実を知り、亡き母への想いから「謝れ」と芙蓉に迫る。芙蓉の贖罪の祈りは届かない。

感想

 いずれもハッピーエンドとは言い難い2編だが、表題作の方の幕切れには不思議と一種の爽快感が伴うように思う。気になってネットの感想文を読むと「救いが無い」という人もそこそこあるが、サディズム的な描写については恐らくもっと克明で赤裸々なものがあるだろう。そこを絶妙に抑えた描写に留めているところが、爽快感に繋がっているのかもしれない。「そこまであの男に執着するなら、もうどこまでも行ってくれ」とでもいうような。万人には勧められないが、一方で甘い恋愛小説を好む人が読むとどういう反応をするかという興味はある。そういえば「腦病院…」が発表された1998年周辺は、椎名林檎がデビューした頃だが、あの世界観と通じるところがあると思う。

 よく「SはサービスのS」と言われるように、正しいサディストには相手に対する気づかいが必要とされる(私は門外漢で、あくまで流布される説としては)ようだが、そこに照らすと「おまへさま」はいささか配慮不足ということになるだろう。ただ、それでも、結末においても「私」は崩壊寸前の自我を奮い起こし呪わしくも慕い続けており、単純に“SMを扱った小説”とは言えないのではないかと思う。仮に「おまへさま」が極度のマゾヒストだったとしたら、どういう物語になったか(そもそも「私」が「おまへさま」に惹かれたか)という点は、読み終えた他の誰かと意見交換したい気がする。

 技巧的な面では、旧字旧かな遣いはもちろん、版面を罫線で囲む(これは、文庫版では再現されていないかもしれない)など、全体として谷崎潤一郎の『春琴抄』が出た頃の出版物を模していると言えるだろう。高村光太郎と智恵子夫人のエピソードが同時代的に引き合いに出されるのも同様の効果を出している。「性染色体」やら「女性ホルモン」やら、明治時代にその概念があったのかと思われる言葉も出てくるが、調べてみるといずれも19世紀後半~末には発見されていたようで、逆に「私」という人物に“当時の最先端の知識に通じた女性”っぽさを与えているようだ。

 「腦病院…」と同じ、1人の男に隷属し続けることを望む女性を描く路線ながら、「カタカナ…」の方がより深刻な悲劇を孕んでいるのではないかと感じた。それというのも、幕切れになって初めて、それまで何も語らず動かずだった芙蓉の怒りや後悔が滲むからである。しかし、それは芙蓉が初めて主体性を得たとも考えられるわけで、あながち最悪の事態とも言えないのかもしれないが。
 喬太郎という男の身勝手さ(「おまへさま」ほどではないが)を描く一方で、この小説の本体は女たちの描写ではないかと思う。主観である芙蓉はおくとして、喬太郎の母、芙蓉の母、喬太郎の3人の妻、使用人の八重など、各人の自意識がそれぞれに表れ、時にぶつかり合う様は、性質の違う花が咲き乱れるようで、読んでいて辛くもあるし、いじらしくもある。それが美しいと言えば、言えなくもないのである。

脳病院へまゐります。 (文春文庫)

脳病院へまゐります。 (文春文庫)

 

 

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