何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

梶井基次郎『檸檬』の感想


(2003年6月読了)

 「檸檬」は高校の教科書でも読んだが、これはその他にも短編を収録している。同様の本は各文庫から出ていて、収録作に若干の違いがあるようである。自分はなんとなく新潮文庫で読んだ。

 20もの作品が収録されているのでいちいち言及するのは止すが、特に心に残ったものだけあらすじを示す。

あらすじ(一部の収録作のみ)

 檸檬。鬱屈とした精神を抱えて京都の街を歩く「私」。彼を慰めるのは高級なもの、瀟洒なものではなく、何気ない風景やありふれた品々。

 ある心の風景。廓の女から悪い病気を貰った喬(たかし)。廓の無常さ、飽き足りなさ。友人から貰った朝鮮の鈴の枯れた音色がつかのま彼を慰撫した。

 Kの昇天。病気の身の「私」とK。ドッペルゲンゲルドッペルゲンガー)についてなど語りあい、やがてKは自死する。

 「冬の蠅」。温泉宿で療養中の「私」。嫌気がさして宿に帰らず夜道を逍遥する。残る陰鬱。

 「交尾」。やはり静養している「私」。猫の交尾を観察したり、つかまえた河鹿の交尾を見て、美しさを感じる。

感想

  幾つかの話に通底しているのは、“事物の癒し”ということではないかと思った。
 檸檬の香気、鈴の音、郊外の景色といった事物や風景を、見る、触る、聴く、嗅ぐ…などをすることで、人間の高ぶり病んだ精神は清涼さを取り戻せるというような。
 「ある心の風景」の「視ること、それはもうなにかなのだ。自分の魂の一部分或いは全部がそれに乗り移ることなのだ」という言葉は、そういうことを表しているんじゃないだろうか。

 京都の出版社が出した『言葉は京でつづられた。』という本がある。梶井以外にも京都に所縁のある作家たちの文章を、京都の写真とともに味わうという企画だが、レモンを嗅ぐ横顔の映ったページを見ていると、そんな“事物の癒し”を思うのだった。

言葉は京でつづられた。 (京都モザイク (007))

言葉は京でつづられた。 (京都モザイク (007))

 

 思えば梶井は活動した年代的には藤沢清造(現代の私小説家・西村賢太の尊崇する私小説家)と近い。
 京都時代の私生活の荒れ振りも、藤沢を彷彿とさせるものがあるが、藤沢が私小説一辺倒であるのに対し、梶井は身辺に取材した私小説的な書き方から始めつつ、そこから離れた詩情を描いているところが異なっている。その点が、彼の死後の評価につながったように思う。
 その意味でも「檸檬」の完成度は高く、梶井作品の最高傑作としていいだろう。

 そういえば京都の丸善は、梶井の頃は三条麩屋町にあったらしい。閉店の折にはレモンが置き去られることが続出したとか。
 私は2004年だったかの夏に、京都でひと月ほどぶらぶらしたことがあるが、その時の丸善は2代目で、住所で言えば河原町通蛸薬師上ルということになるらしい。たびたび立ち読みをしに入ったが、黄色い爆弾を置いて出ることはできなかった。

 その店も閉まってしまったが、今度また河原町通三条下ルの辺りに店を出すらしい(今年8月21日)。またレモンが置かれることになるのだろうか。

小説『檸檬』の舞台、「丸善 京都本店」が10年ぶりに復活します | honto

檸檬 (新潮文庫)

檸檬 (新潮文庫)

 

 

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