何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

野村美月『下読み男子と投稿女子』の感想


(2017年6月読了)

 先日の『死の淵を見た男』の感想(当該記事)で、福島出身の作家の1人として野村美月氏の名前を挙げた。同記事にそういうことを書こうと構想している段階で、俄かに野村氏の作品が読みたくなり、積読から本書を取り出して、『死の淵を見た男』について書き進めるのと並行して読了した次第である。

 文芸作品の新人賞の予選のようなものとして、著名な審査員ではなく編集者や出版関係者が応募原稿を読む「下読み」という段階が存在する。私は未経験だが、知人のライター氏などはたまにやっているようである。
 本作の作者である野村美月氏もまた、その下読みの経験が豊富なようである。その経験を、本領である少年と少女の清新な交流ストーリーに織り込んだのが本作と言えようか。
 まずは例によって、本作のあらすじを記す。

 風谷青(かぜたに・あお)は、平凡な男子高校生。しかし彼には秘密のアルバイトがあった。あまり人に言えないゲームのクリエイターである叔父・朔太郎のコネで周旋してもらうようになった、そのバイトとは一次下読み――ライトノベルの新人賞に応募してきた原稿を最初に読み、二次選考に送るか否かを判断する仕事――である。
 拙くとも、巧くとも、どんな物語でも読むのが大好きな青は、この「夢のような」バイトを楽しみ、休日返上で没頭していた。あるとき手にした投稿作『ぼっちの俺が異世界で、勇者で魔王でハーレム王』のプロフィールには、覚世ロイという筆名と、見知った名前の本名が書かれていた。氷ノ宮氷雪(ひのみや・ひゆき)。フォント変えや顔文字、多重カギ括弧に擬音に空白ページなどラノベ的な手法の乱舞するこの原稿を、本当に氷雪が書いたのか? 美人で優等生で、近寄りがたい孤高な印象からクラスでは“氷の淑女”と呼ばれている、あの氷ノ宮氷雪が?
 驚きつつも、守秘義務から直接たしかめることもできない青は、どうにかして覚世ロイ=“氷の淑女”であることを確かめようとするが奏功しない。しかし、とあるアクシデントをきっかけに氷雪は自ら青に接近し、そして依頼する。「わたしに、ライトノベルの書き方を教えて下さい」と。
 過去5回の投稿は全て一次選考選外。厳格な祖母のもとで気詰まりな生活を送り、心ない下読みの評価シートによって自身の作品への評価も低い氷雪を励ましつつ、青の原稿アドバイスが始まる。目指すは、2か月後が投稿締切である英談社スター文庫新人賞での、まずは第一選考通過である。
 ブレインストーミング、コンセプトの決定、世界観やキャラクターの設定、
プロットの作成、台詞や表現の指導、――伏線の張り方。青のアドバイスを受けて、氷雪の創作は進んでいく。取材で訪れた水族館や、打ち合わせを繰り返す喫茶店で語られる、彼女の生い立ちや母・祖母との関係。“氷の淑女”に見えていた彼女の素顔に知らず青は惹かれ、全ての物語を愛する青の広々とした心に、氷雪もまた思慕をつのらせていく。
 ささいな勘違いがあったり、氷雪の祖母の本心に気付いたり。面倒くさくもかけがえのない日常を重ねながら、氷雪の原稿は完成に近づく。綴られる物語の終わりは、青と氷雪の共同作業の日々の終わりをも意味していた。
 特別な毎日が終わりを告げ、離れ離れになった氷雪のもとに、1通の封書が届く。それは、彼の真摯で愛着のこもったある仕事の結果だった。
 ある物語は終わり、しかしまだ物語は続いている。

 …実も蓋もない表題に反して、中身はやはり作者らしい、真面目で綺麗な味わいになっている。氷雪の投稿作はフォントいじり等が頻出しているが、地の文は静かなもので、その対比も興味深い。「業界ものではなく青春ストーリーにしたかった」と作者は「あとがき」で書いているが、その目論見は達成されたと言えるだろう。
 とはいえ、ライトノベルの書き方、投稿に際しての“お作法”を学ぶという点でも無益というわけではない。作者もまた実際に投稿というプロセスを経てデビューした人物であるし、下読みを多数してきたことからも、当然と言えば当然かもしれないが。

 主人公である青は、理想的な下読み人として描かれている。一次選考に寄せられた、どの原稿も面白く読める彼は、確かに氷雪の言う「広い人」なのだろう。それは例えば、以下のような文に端的に表現されている。

未熟な作品は、その未熟さが。瑕のある作品は、その瑕そのものが。書き慣れた作品は、その技巧が。(p.119)

  ついでに、青がこの仕事をする切っ掛けを作った「モザイクがかかるようなゲーム」(青の母、つまり彼の姉の弁)の製作を生業としている叔父も、以下のような台詞を語っている。

「他人の作品が、いかにつまらなかったかをドヤ顔で長弁舌するようになったらおしまいさ。あれは最高に醜悪だ。……」(p.301)

 「青の考え=100パーセント私の考えというわけではありません」と作者は書いているものの、この辺りの言葉は、かなり本心に近いのではないだろうか。
 一見して粗雑な原稿から面白さを発掘する能力は、編集者としても大切なことだろうし(実際、氷雪の創作上の相談に乗る青は、よき編集者と言うこともできよう)、作品の詰まらなさを娯楽として語るのは創作に携わる者の職業倫理に反するだろう。「作品」を「人間」に置き換えるなら、それこそ万人に通じるルールとも言えそうである。

 ところで野村氏といえば(ここで書くのも変な気もするが)、やはり代表作は“文学少女”シリーズであろう。このシリーズは2冊目まで読んでいる(そのうち過去の感想として登場するはずである)のだが、とある趣向のもとに読んでおり、なかなか読み進まない。一念発起して3冊目以降も手に取りたいところである。

  その“文学少女”シリーズの最終作は、その後の“文学少女”が編集者になったという話だったかと思う(上で述べたように未読)。「下読み男子」と「“文学少女”な編集者」ではスタンスが異なるのか、異なるとすればどう違うのか、その辺りを比べるのも面白そうである。

半熟作家と“文学少女”な編集者 (ファミ通文庫)

半熟作家と“文学少女”な編集者 (ファミ通文庫)

 

 ライトノベルの書き方云々とは別に、もちろん本作は青と氷雪の物語としても読むことができる。共同作業を進めるうちに惹かれあっていく2人というのは類型的ではあるが、その穏やかさには心癒されるものがある。中盤、作中のキーワードであるヨロイザメの取材のために2人は水族館に行くのだが、そこで氷雪がヨロイザメと自分について語る場面には、不思議に静けさがあって、冷えた印象があって良かった。
 一辺倒なロマンスではなく、途中には勘違いやすれ違いから来るトラブルも幾つか待ち受けている。その1つが氷ノ宮氷雪という奇異な名前にまつわるものである。巧妙というだけでなく、氷雪の家族が抱いていた思いも内包させている点は、“文学少女”シリーズにも通じる作者の真骨頂と言うべきかと思う。

 敢えて問いを立てる。この作品自体も、作中で氷雪が取り組むのも、一般的な文芸作品ではなくライトノベルである必要はあったろうか。
 氷雪が送っている閉塞した生活からの解放の象徴として、あるいは青がそれまで触れた普通の小説よりも自由なものとして、ライトノベルが位置付けられていることから、必然性はあったのだろう。それは裏を返せば、一般の小説には現在そうした力が無いということにもなりそうなのだが。

 「あとがき」によれば、作者は本作の後半を入院中に書いたとのこと。体調が思わしくないことに色々と事情が重なったようで、昨年あたりには断筆を思わせるツイートもされていたように思うが、まだ作家活動は続けておられるようである。
 本作の2人を合わせた如く、読むのも書くのも本当に好きな作者だと思われる。無理のない形で書き続けていかれるとよい。