何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

フーケー『水妖記(ウンディーネ)』の感想


(2004年4月読了)

 『ノヴァーリスの引用』(当該記事)に感化されて、ドイツロマン派の作品を読んでみることに。長くなるので見出しでは略したが、作者は正式にはフリードリヒ・ド・ラ・モット・フーケーという。
 ファンタジックな作風である。まずはあらすじを。

あらすじ

 湖の岬に住む老夫婦のもとを、森の中を冒険してきた騎士フルトブラントが訪れる。老夫婦には、幼くして亡くなった子供の代わりに、風変りな養女ウンディーネがいた。川が荒れたために老夫婦のもとから動けなくなったフルトブラントは、不可思議な能力を持ち、奇妙な言動を繰り返すウンディーネを妻とすることを決める。結婚してほどなく、ウンディーネは自らが水の妖精であることを夫に告げ、人間の男と愛し合ったことで、魂を得たのだと語った。妻の伯父にあたる妖精キューレボルンが水を氾濫させる中、フルトブラントは妻の秘密を受け入れ、街に連れ帰った。
 街には、フルトブラントを慕う貴婦人ベルタルダがおり、3人は打ち解ける。ベルタルダがウンディーネの養父母の実の娘であることをめぐる悶着があり、3人はフルトブラントの居城であるリングシュテッテンへと赴く。途次、キューレボルンについて説明する過程でウンディーネは自身の素性をも打ち明けるが、それはベルタルダの心に多少の嫌悪を芽生えさせるのだった。
 リングシュテッテンで過ごすうち、次第にフルトブラントの心はベルタルダへと傾いていく。巻き起こる騒動の中、フルトブラントはウンディーネの深い愛を再び感じるが、ベルタルダを元気づけるためにドナウ川を下っていた時、“水の上でウンディーネを叱ってはいけない”という禁忌を犯してしまう。ウンディーネは嘆き哀しみ、貞操を守るよう言い残して水の中へと消えていった。
 残されたフルトブラントとベルタルダは、ウンディーネの言い残したことを守らず、結婚してしまう。するとフルトブラントの前には白いヴェールを被った女、ウンディーネが現れ、涙ながらに彼を抱きしめ殺す。フルトブラントの葬列にも、いつしか白いヴェールの女の姿があり、墓の周りを抱くように小川が流れるようになったという。

感想

 ある程度の年齢以下の方には、ウンディーネというとサブカルライトノベル)領域のファンタジー小説や、コンピューターRPG(近年では『パズドラ』に出ていたと思う)でお馴染みかもしれない(かく言う私がそうである)。この小説中でも一部触れられているが、西洋では地水火風という自然の元素それぞれに妖精が設定されており、それぞれノーム、ウンディーネ、サラマンダー、シルフなどと呼称されている。起源は不明だが、キリスト教以前の自然信仰と、錬金術的な思想が混淆したものではないだろうか。実際、この小説の資料としては16世紀の錬金術パラケルススが参照されているようである。
 ちなみにこの小説をもとにして、フランスの戯曲家ジャン・ジロドゥは戯曲『オンディーヌ』を書いている(タイトルはウンディーネのフランス語読みであろう)。他にもバレエやオペラなどの演目にもなっており、それらの末端に、前出のラノベやゲームがあると思うと感慨深いものがある。

オンディーヌ (光文社古典新訳文庫)

オンディーヌ (光文社古典新訳文庫)

 

 水と乙女と人間という関係性には、学生時代に読んだ泉鏡花の戯曲「夜叉ヶ池」を思い起こす。「夜叉ヶ池」はゲアハルト・ハウプトマンの「沈鐘」を下敷きにしているとされるが、ハウプトマンもドイツ人であるし、フーケーのこの小説を読んでいないとは考えにくい。 

夜叉ヶ池・天守物語 (岩波文庫)

夜叉ヶ池・天守物語 (岩波文庫)

 

 そういう意味で、この小説には“水の女”というモチーフのモデルというか原型があると思うのだが、どうだろうか。“水の上で叱ってはいけない”“貞操を守る”というような制約と禁忌をめぐる展開も、ファンタジーというよりもむしろ神話的なものとして読めるだろう。旧いが、その旧さが限りない魅力となった作品である。

 それにしても、哀しく美しい物語である。泉鏡花にせよ現代サブカルにせよ、“水の女”のモチーフが途絶えることがないのは、清冽な水が豊富な日本というロケーションも関係があるのではないかとふと思った。

水妖記―ウンディーネ (岩波文庫 赤 415-1)

水妖記―ウンディーネ (岩波文庫 赤 415-1)

 

 

 

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