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何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

姫野カオルコ『終業式』の感想

小説 日本近現代文学

 Twitterで幾人かが読んでいるのを見て、興味を惹かれて読む。ちょうど『錦繍』について書いて、現代で書簡体小説は可能か、ということを考えていたこともあって気になったのである。

 なぜ気になったかといえば、この小説は手紙やそれに準ずるものだけで構成されているためで、そこから現代の書簡体を考える手掛かりになりそうだと考えた、というわけだ。
 ちなみに、読んだものは角川文庫版だが、表紙のデザインが異なり、もっとイラストチックなものだった。私が手に取った方が新しい版なのだと思う。
 書簡体小説がらみの私の思惑がどうなったかは置いておいて、まずはあらすじを示そう。

 差し出された、あるいは書かれながらついに出されなかった、無数の手紙、葉書、FAX、メモ等が物語る。
 地方(恐らくは静岡県)にある濤西高校2年生の八木悦子は、親友の遠藤優子や、気になる男子の都築宏、その悪友の島木紳助たちと日々を過ごす。テスト、教師への憧れ、文化祭、そして初めての両想い。
 卒業を迎え、ある者は無事に進学、ある者は浪人と、離れ離れになっていく彼ら。新しい出会いと恋、深まる孤独、すれ違いや行き違い。しかし、その中でも、直接のやり取りができなければ、友人が仲立ちするなどして、音信は続いていく。
 やがて彼らは社会に出る。早々に身を固める者。道ならぬ恋情に身を焦がす者。自己実現に向けて転職する者。心に深い傷を負う者。またもすれ違いを経て、新たに2つの結婚が成立した。
 しかし、結婚とゴールはイコールではない。少しの違和感、あるいは忘れ得ない想い。それらを織り込んで、それぞれに変化は訪れる。そしてまた、3組の夫婦が生まれた。あの手紙をやり取りしていた頃から、20年が経っていた。

 まず、冒頭に触れたように、“この小説が現代の書簡体であるか否か”について書こう。
 この小説の舞台となっているのは1975年から1995年である。自分の記憶で言うと、1995年には、まだほとんど電子メールの類は使用されていなかった。
 『錦繍』が発表されたのが1982年頃のようだから、10年以上後の時代までを描いてはいるものの、やはりIT化以前の世の中の作品と云わざるを得ないだろう。作中を見ても、手紙、葉書(年賀状や結婚式の招待状など)、FAX、メモ書き、珍しいところでは文芸誌の編集後記など、多様な書面で構成されているが、やはり電子メールは存在しなかったと思う。もしも時代設定が10年ほど後にシフトしていたなら、IT技術による情報伝達は確実に作中に登場していただろう。
 従ってこの小説は、少なくとも電子メール登場以降の書簡体小説には該当しないと云わざるを得ない。奇遇(あるいは必然かもしれない)だが、作中の都築の手紙には、以下のような記述もある。この説を肯定するならば、電子メール登場以後の書簡体小説は、なかなか困難なのかもしれない。

だから、ぼくは思うんですけど、近代テクノロジーの発展ってすべて「手紙を書かないですませるための方法」を考えついてきた歴史だったんじゃないかと。(p.168)

 横道に逸れるが、なぜ私がこんなに書簡体小説を重要視するのかについて少し確認する。それは書簡体が、叙述トリックと並んで、映像メディアにない小説独自の面白さを提示できると考えるからである。叙述トリック書簡体小説も、簡単には映像化できない、という、逆からの説明の方が伝わりやすいだろうか。

 ともかく、この小説は少し昔が舞台のため、現代の(とりわけIT革命後の)書簡体小説とは言えない。しかし勿論、だからといってこの小説が取るに足らない、ということにはならない。
 そもそも複数名の書簡の集合体で、誰の誰宛てのものかは、たいてい書簡の末尾にが書かれているので、初読時は誰に対する誰の言葉かをいちいち確認しながら読み進める必要がある。これは普通の小説にはない苦労だが、一通一通の書簡がミステリ仕立てとも言え、興味をそそられる。更に、相手に渡されなかった手紙の類まで読ませてくれるのも面白い。これらは『錦繍』などにはない魅力である。

 それら書き言葉だけで描き出される、主要4人の男女の高校生から30代に至るまでの軌跡はそれぞれに性格が出ている。私自身や学生時代の友人たちを重ねながら読んだ。あるいは、女子2人男子2人という主要人物に『六番目の小夜子』を思い出しもした。

 高校時代のキラキラとした感じが、大学、社会人と大人になるにつれて段々くすみを帯びてくるというのは当然のことではあるが、その移り変わっていく様子の描き方がうまいと思う。また、大人になれば性的な話題も出てくるのだが、けっこう露骨な割に、からっと書かれているあたりは絶妙なバランス感だろう。
 一方、疑問だったのは、途中から登場する久米哲也と黒田あゆ子である。4人と無関係ではないが、彼らは必要だったのかと思う。編集者と作家という組み合わせから、もしかしたら作者が身の回りの人間に取材して組み入れたのかも、とも思ったが、意図を汲みきれなかった。登場人物のうち幾人かの名前が、どうも往年の有名人の名前に似ている気がするのと無化関係でないのかもしれない。

 それと『終業式』というタイトルの意味も、なかなか難しい。末尾の「解説」を書いている藤田香織氏は独自に解釈し納得したようだが、それを教えてはくれないので、自分で想像するしかない。
 私が思うに、高校を終えても社会人になっても、彼らの関係は「卒業式」を迎えず、しばし別れることがあっても休暇前の「終業式」のようなもの、ということかと思うが、どうだろうか。

 最後に、いささか気障だが本書の趣向に沿って、主要4人それぞれへの思いを葉書でも書くつもりで記して、終わりにしたい。

 都築宏様。主役級お疲れさまでした。特に学生時代の君を読んでいて、私の友人を思い出しました。君と同じような境遇にあった時、その友人も私にしばしば分厚い手紙をくれました。やはり君と同じような屈託した内容だったことを、懐かしく思い出します。
 それはいいのですが、大人になった君の素行はちょっとどうかと思います。桜井さんの薫陶のせいかもしれませんが、あんまり簡単に「好きだ」とか「かわいい」とか言うなよ、という気持ちになりました。まぁ、物語が終わった今となっては、それすらも若気の至りだったのかもしれませんが。どうぞ末永く、お幸せに。

 八木悦子様。主役級お疲れさまでした。正直なところ、あなたの安易さによって物語は大きく曲折したと思います。しかし、「解説」にも書かれていましたが、それがあの時代の「普通」だったのかもしれません。「普通」を体現するのはなかなか大変だったと思います。それにしたって、あの時わざわざ湯河原から都築君に葉書を出すのは、酷いなと思いましたけれど。
 ただ、あなたが書いていた「この世を支配しているものって、すべてタイミングだと思いませんか」(p.227)というのは、とても同意できる考え方です。最後はタイミングが合ったようで何より。どうぞ末永く、お幸せに。

 遠藤優子様。私の考えでは、あなたこそ影の主役、真の主役でした。あなたが出せなかった手紙の文面が痛々しく、胸に迫りました。想う人を「きみ」と形容する、あなたの距離感の取り方が素敵です。
 例えば飲み会で、いつまでも素面でいるために最後の会計や片付けをしなければいけない人。それがあなたなのでしょう。万感を込めて申し上げます。どうぞ末永く、お幸せに。

 島木紳助様。途中からちょっと出番が少なくなってしまいましたが、軽薄なようで手堅い生き方が良いと思います。それに、色々と面倒臭い都築に対する再三の手紙は、君の友情を感じました。
 「よそから見れば、オレなんて、ちゃらんぽらんな三流大学の学生にしか見えないだろう」(p.115)と言いつつ、色々と考えている様子は、手紙の端々から感じられました。あなたに対しては言う必要もなさそうですが、末永く、お幸せに。お体に気をつけて。

終業式 (角川文庫)

終業式 (角川文庫)

 

 

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