何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

おーなり由子『てのひら童話1』の感想


(2004年11月読了)

 休みの日に一気読みその4。
 おーなり由子氏は、もともとは少女漫画雑誌『りぼん』で連載していた漫画家である。さくらももこちびまる子ちゃん』の、割と初期の頃の巻に特別寄稿が載っていたと思うので、連載時期としてはそれくらいの頃だったのだろうと思う。私の知る漫画作品も以下に幾つか挙げておこう。

 本書は、そんな作者によるオムニバス形式の絵本というか物語付きイラスト集というか、そんな本である。単行本で発表され、後に文庫化されているが、私は文庫版の方を読んだ。
 春夏秋冬で分けられた4章に計25の話が収められている。数が多いので、いささか乱暴だが話ごとにごく短い概要を示すことにする。

概要

 早春と春の章
 「北の魚」。冷凍室で凍ったカエリチリメンが考えたのは北の海。生まれ変わってもまた魚になりたいと願う。
 「のはら」。女の子が日記を書いていると、犬の子が来て色鉛筆で黄緑色の野原を描いて帰っていった。
 「だっこ天使」。抱きしめ合ってばかりいる一対の天使。人と人がふと抱擁しあいたくなるのは、この天使の欠片の粒を身体のどこかに受けたから。
 「春一番」。女の子が温水プールに行った帰り道。ごうごうと風が吹いてみんな飛ばされてしまった。女の子も飛ばされてしまった。
 「川の音」。川辺で出会った、小さなお爺さんと犬。時間が流れる速さの違う彼ら。独りになったお爺さんは水面に何を思う。
 「うたいぬ」。住宅地で歌う野良犬。どこかの誰か、そのうちのいつか、のために歌う犬。
 「女の子」。田んぼで見つけた見覚えのある女の子。走った跡にはれんげの花が咲いていく。それはかつての自分自身の姿だった。
 「スカート」。スカートを履いてみたかった蛙の女の子。色々工夫しても皆に笑われ、それでもやっぱり、皆に見せに行く。

 夏の章
 「けむし」。毛虫が大好きな男の子。毛虫と仲良くなって遊ぶが、やがて毛虫は蛹になって夏になる。
 「あこがれ」。女の子の食欲がないのは、夢の中で魚に恋しているせい。近くなのに声が届かない。
 「初夏」。緑の中で生まれた子ども。森の奥で遊んでいると、葉っぱに懐かれ恐くなる。母は笑う。
 「おばあちゃん」。長生きのため、眼を閉じて食事をし、夏なのに厚着で昼寝するおばあちゃん。ぶつくさ言って煙たがられても、子芋の煮つけは美味しく食べる。
 「ひかるもの」。太陽が照りつける午後。ひまわりは太陽の輝きに驚き、それが照らすあらゆるものが光るのに感激する。嫌われ者のシデムシも例外でなく、それを教えられてシデムシは喜んだ。
 「夏の手」。炎天下で友人が来るのを待つ少女。帽子のゴムを噛むと感じる、天上から降る細かなもの。そして風とともに、大きな手が彼女を撫でにくる。飼っていた犬が死んだ時も、それは「イイコ」「イイコ」と撫でに来た。
 「水ねこ」。もともと魚に生まれる筈だったその猫は、だから川底で昼寝する。魚をつまみ食いし、川底から夕焼けを眺めて涙する猫。そんな猫の昼間の過ごし方を、家の者は誰も知らない。

 秋の章
 「手紙」。習っているチェロが上達せず、やめようと思っていた「僕」に手紙がきた。差出人の目が視えないその女の子は、宇宙の向こうで歌を仕事にしようと練習しているという。そして、「僕」のチェロを励みにしているとも。「僕」はチェロを弾き続ける。
 「てんとうむし」。「わたし」が、てんとうむしだった時、花が咲く音が聞こえた。その時の嬉しいような悲しいような香りを憶えている。今度は花に生まれたい。
 「はっぱ」。はっぱの子は春に生まれた。空を見て笑っていたが、大雨で兄や姉が飛んでいって怖くなる。木のかあさんは元気づける。秋の終わり、その子は嬉しそうに空に旅立っていった。
 「夕やけ」。夕焼けに顔を見せて立っていると、いつか「わたし」は透明になって空を飛ぶ。いたずらを幾つかして、想いを寄せながらも届かない人に、してみたかったことが1つ。あの人は行ってしまうけれど、それでも夕焼けは何でも透明にするから、だから大丈夫。
 「ひみつ」。クラスでは目立たない、大人しいつゆ子ちゃん。けれど彼女は空想を羽ばたかせて賑やかな夢をみる。誰にも教えない、ひとりだけの秘密。

 冬の章
 「雪の日」。冬の月夜、凍てついた夜空にスケーターが描くトレース(滑った痕跡)。ギャラリーの雪だるま達は大喜び。
 「冬のお客」。沼底で暮らす婆さん河童。独りで人恋しい彼女の元を訪れたのは、子ども達が取り損ねた蜜柑たち。
 「牛乳虫」。夜、カップに入れた熱い牛乳の中から、不思議な子たちが止めどなく現れる。それらは手をつなぎ、羽を振るわせてミルククラウンを描き、そして明け方の星になった。
 「しょーろり」。お風呂屋さんの裏の土手で、いつも「しょーろり」「しょーろり」とやってきて植物に笑いかけている不思議な女の子。「植物に笑いかけたらよく育つ」。彼女のその言葉に子ども達は打ち解けるが、大人たちは些細なことから子ども達を引き離す。女の子は居なくなり、けれども明くる春には不思議できれいな花が咲いた。
 「泣く星」。宇宙に浮かぶ小さな星。宇宙飛行士の「僕」は、地球の穴をふさぐため、その星の表面を切り取って持ち帰ろうとする。表面を切り裂かれ剥がされて、星は「ぽわぁー」と泣き声をあげる。その悲痛な声に「僕」は胸が痛くなるが、それでも手を離せずにいた。

感想

 さらりと読めるが、なかなか頷くものがある。ノスタルジーと、メルヘンチックな不可思議さと、弛緩の美とでも言うべき魅力と言えばいいだろうか。
 作者の漫画家時代の作品は、やはり既存の漫画の影響を脱し切れていなかったように感じられた。しかし、この本に至っては、画風ともあいまって不思議なオリジナリティを有していると言えそうである。
 文庫版の解説を高階杞一という詩人が書いているのだが、その表現を拝借すると、確かに「ストーリーを書くことを目的としていない」点で、本書は漫画や絵本というよりは詩なのだと感じられた。もちろん各編には、上に記したようにストーリーがあるのだが、それよりは“だっこ天使”やシデムシや葉っぱの子どもや牛乳虫といった登場する存在そのものや、それらによって織り成される感情や雰囲気の方に重きが置かれていると感じた。

高階杞一詩集 (ハルキ文庫 た)

高階杞一詩集 (ハルキ文庫 た)

 

 しかし、かといって純然たる詩であるかというと、それも違うように思われる。なぜなら、この本には絵があって、吹き出しによる台詞があるからである。漫画でも絵本でも詩でもない、独特な表現が生まれていると言ってよいだろう。
 女性的な綺麗さに支配されてはいるが、死や別れや孤独といったマイナスな要素にも向き合っている点も見逃せない。しかも、そうした要素を過度に暗くならずに扱えるというのは、それだけでも美点ではないだろうか。
 この本には続編が2冊あるが、それらも同様の表現形式である。既に手元にあるので、いずれ読んで感想を書きたいと思う。 

てのひら童話〈3〉さよならの魚 (角川文庫)

てのひら童話〈3〉さよならの魚 (角川文庫)

 

 最後に、本書で特に印象的だった3編に触れたい。
 最初に挙げるのは秋の章の「手紙」である。秋にチェロという組み合わせが、それだけで私には好ましく感じられるのだが、その練習をやめてしまおうとする「僕」を思いとどまらせる、「宇宙のむこうのどこかの星の女の子」の手紙を描写する言葉と絵が素晴らしい。最も好きなところを引用しておこう。秋の情緒に相応しい1編である。

「いま/わたしは/うたうしごとがしたいと思っています/そのために よけいひとりきりになるかもしれないけれど/あなたも今たったひとりで練習してると思うと/元気がでるのです――」(文庫版p.118~119)

 次も同じく秋の章より「夕やけ」である。
 女子学生を主人公にして彼女の失恋を描いたものだが、透明になった彼女が、意中の人に「したかったこと」を最後にできたのか否か、明らかではない(私は、できなかったのだと解釈している)。いずれにせよ、黄昏時にひとり佇む少女の、最後まで表情が分からない後ろ姿が胸に迫る。

 3つ目は、冬の章の最後、つまり本書に収められた最後の1編である「泣く星」を挙げる。オゾンホールと思われる「あなだらけの地球の空」を元に戻すため、他の星の表面を切り取ろうとする話だが、身を切られる星の泣き声が辛い。それに心を傷めつつも、切り取ったものを離せない宇宙飛行士の(というか、人間の)罪深さがまた辛い。

 近年、作者は幼児と親のための本を主に手掛けているようだが、いま「泣く星」のような話を書くとしたら、やはり原発に関するものになるのではないだろうか。そういう方面に現在は興味が向かないのかもしれないが、読んでみたい気もする。

てのひら童話〈1〉 (角川文庫)

てのひら童話〈1〉 (角川文庫)

 

 

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