何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

藤原智美『運転士』の感想


(2004年8月読了)

 夏休みの旅行中に読むものが無くなったので、出雲大社の参道にあった書店で何となく購入して読んだ。芥川賞受賞作の「運転士」と、デビュー作「王を撃て」を収める。まずはそれぞれのあらすじから。

 「運転士」。曖昧なものや自然なものよりも、秩序だった人工的なものを好む地下鉄の「運転士」。定時運行を至上命題とする運転をしながら、彼の頭には幾つかの妄想が浮かんでくる。電車がホームに入りブレーキングする時の、落下するバルーンの妄想。不意に去来する、乗務用の携帯箱が成長した大きな旅行鞄の中にいる膝を抱え込んだ下着姿の女の妄想。それらを抱えながら、昼勤務、泊まりからの早朝勤務、一番電車乗務のための地下車庫にある「ベッソウ」での泊まり勤務と、「運転士」は几帳面に仕事をこなしていく。
 ある日、ベッソウの前に何者かが放置した大型のコピー機が見つかると、「運転士」はその「機械特有の誠実さ」に惹かれる。しかし、ほどなくコピー機は遺失物扱いとなり、テープでぐるぐる巻きにされたそれを見て「運転手」の中で何かが失調していく。妄想の鞄の中で、女は窒息して内側から鞄を叩き引っ掻く。現実ではコピー機が壊れ、その残骸に「運転士」は鞄の中にいた女の残り香を嗅ぎ、自分が泣いていることに気付く。気力を振り絞って運転を始めるが、身体が震え、全てが不快に感じられてしまう。ようやく始発駅に着き、今日の乗務が始まろうとしていた。
 「王を撃て」。商社らしき「カイシャ」に勤める、卓上掃除機「カゼノマタサブロウ」とビタミン剤を手放せない「ぼく」(キミノ)は、「ファクトリー」で種ブタ生産・飼育をする試験的なプラントを管理している。現場の監視員もいるが、「ファクトリー」のシステムの大部分は機械化され、「ぼく」はラップトップパソコンの「ベルガ」を通じて現場の映像を見、給餌やシャワーなどを管理することができるのである。「ぼく」はそれを利用して、飼育しているハイブリッド種のアーサーとその直系たちを王党派、ヨーク種のヨークを筆頭とするブタたちを共和派と見立て、共和派が王党派を打倒せんとする「王国」の権力闘争の物語を演出して楽しんでいる。他のブタの尻尾を食いちぎったブタを耳が白いことからシロミミと命名し、王党派ナンバー2にランキングしながらも「懲罰」として3日間70%の給水をカットする、というように。そんな「ぼく」を、87’入社の女性を始めとする同僚たちは奇異な目で見ている。自分が持ち物に名前を付けていることを持ち出され、「ぼく」は少年時代に飼っていた犬のベルガのことを思い出す。ベルガは病気で右の前足が腐り溶けて丸くなり、死んだのだった。
 上司から「ファクトリー」のプロジェクトからの撤退が仄めかされ、「ぼく」は「王国」の物語を急展開させようと、ヨークの“クーデター”が成功するようシステムを介して画策し始める。同期入社に出世で追い抜かれ、プロジェクトの中止が本決まりになると、「ぼく」のアーサーへの痛めつけは露骨なものとなる。さらに、プロジェクトの中止を覆そうと、「ぼく」はマスコミ発表の場にヨークを運び込むよう手配するが、システムの誤作動か、実際に搬入されたのは傷つき醜くなったアーサーの方だった。

 潔癖症の零落譚二編といったところだろうか。どちらの作品も、“人工的で清潔できっちりとしたもの”に惹かれる主人公が、何らかのきっかけによって自ら秩序を崩していく様子が描かれている。ただ、両者の色彩は微妙に異なっていると思う。「運転士」の主人公「運転士」(固有の名前は登場しない)は、「時間と方法がきちんと確立」されていることを重んじ、やや異常なまでに有機的なものを嫌い人工物に好意を抱いているが、客観的には運転士としての職務に忠実であり、その点では他者に何も迷惑をかけていない。一方で「王を撃て」のキミノは、自分の仕事から逸脱してブタたちに「王国」の物語を見出し、その物語を維持あるいは加速させたいというだけの理由でブタたちを苛む。端的に言って、私は「運転士」の主人公の方がまだ好感が持てた。
 しかし作品の解釈的には、「運転士」の方が難しい。主人公の妄想に出てくる、旅行鞄の中に入って下着姿で膝を抱えて入っている女は何を意味しているのだろうか。無意識下に封じ込められた生命体としての「運転士」の表れではないかと私は感じたが、もちろん確証はない。
 それにしても、自宅の冷蔵庫の中にはシリアルが「百科事典のように整然と」入っているという「運転士」の暮らしぶりは、好悪は別にしてもっと見てみたいと思った。地下鉄運転士という、あまり注目されない職業を描いている点もそうだが、そういう疑似ルポルタージュ的な要素は、テーマとは別個の本作の魅力としていいだろう。
 余談だが、作品の末尾で著者は「実在する地下鉄とは関係ありません」と断っているが、「運転士」が集中するために呟く「ヨヨギウエハラヨヨギコウエンメイジジングウマエオモテサンドウ……」という駅名らしきものの列挙は、東京メトロ千代田線の路線と一致している。なので、この線の運転士とみていいのだろうと思う。

 先述のように、「王を撃て」の方の主人公キミノは自分の空想を仕事よりも優先させる困った人である。ブタたちにブリタニア由来の名前をつけ、革命物語めいた権力闘争を思い描く様子はなかなか面白いが、機械化された「ファクトリー」のシステムを用いてブタたちになされる「懲罰」や「試練」の描写は陰惨である。
 例えば人間の革命史の陰に(というよりも「より上位に」としたほうが適当か)、キミノのような存在がいなかったとも限らないと考えると、結構な嫌悪感を催す。という意味では作者の目論みは成功していると言えるのかもしれない。飼育員の言う「キカイが大丈夫だというんですから」という思考停止は、キミノ的な存在に対してはヒトもブタもそう変わらないということを示すようでもある。

運転士 (講談社文庫)

運転士 (講談社文庫)

 

 

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