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何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

夏目漱石『我輩は猫である』の感想


(2003年9月読了)

 某老舗出版社の採用試験を受けるにあたり、夏目漱石くらいは読破してやろうという意気込みで漱石読みを始める(結局落ちたけど)。
 まずは処女作である。

 生まれてふらふらしていたところを、どういうわけか教師の家で暮らすこととなった猫。自らを吾輩と呼称する彼は、近所の三毛子や黒といった猫たちと交流しながら、人間社会を眺め出す。
 彼の目には、人間社会のあれやこれやはどれも滑稽に映る。英語のリーダーを教える主人の苦沙弥、その友人の美学者でおかしなことばかり言う迷亭、苦沙弥の元教え子で理学士の寒月、寒月の友人の新体詩人・東風らが織り成す益体もない会話は、その最たるものである。
 猫の観察と批評がなされる一方で、苦沙弥たちは、実業家の金田家の、娘の富子の婿として寒月が博士になることを条件に充てようという一件に触れる。実業家が気に食わない苦沙弥は色々と言って金田の妻を凹ますが、これに憤慨した金田はあの手この手を用いて苦沙弥に嫌がらせをする。しかし当の寒月は博士論文を諦め、故郷で結婚を決めるのだった。

 文庫で500ページにも及ぶ大部だが、これが面白い。博学な猫の語り口はかなり難しい部分もあるが、それでも読みやすいし、猫が語るということそれ自体が一つの滑稽になっている。

 さらにその猫の視点で見る人間・文明論が的を射ていて、その点も興味深い。猫の口を借りた作者の評論と言ってもいいだろう。
 意外だったのは、猫同士の交流がメインかと思いきや、途中から猫と同族の友達が全く出てこなくなってしまう点である。もっと猫同士の話を読みたかったと思いつつ、それは作者の趣旨とは違っていたと読了して気付いた。この作品は、最初の章が発表されて以降、順々に書き継がれていったもののようである。このため、当初は猫の生態描写から入り、反響があって続編を書く際にテーマを再考したものとも考えられる。

 猫の話しぶりもいいが、人間の方も、なかなか楽しい人物が揃っている。苦沙弥やら迷亭やら寒月やら、理知的でありながらも際限なく与太話をする彼らの様子は落語めいてもいる。いま(2015年)読み返すと、大人の男らが異様に仲良しで、歯切れのよい言葉がどんどん連なっていく様は、なんだかちょっと『水曜どうでしょう』みたいである。一例だけ、引いてみる。 

「偶然童子というのもあるのかい」「なにありゃしないが先ずその見当だろうと思ってらあね」「偶然童子というのは僕の知ったものじゃないようだが天然居士というのは、きみの知てる男だぜ」「一体だれが天然居士なんて名を付けて済ましているんだい」(岩波文庫版p.88)

 特に迷亭の出鱈目ぶりは堂に入っている。彼らの中に入って談笑してみたい気もする。そういえば、チェーンの蕎麦屋名代 富士そば」の水道橋店には、迷亭が蕎麦を食う時の台詞を書いた額が飾ってあるのを、いま不意に思い出した。

 それはそうと、思いがけない幕切れのせいもあるのだろう、この小説のパスティーシュ(模倣の意)が多いのも頷ける。読んだら続きを書きたくなるものな。以下、今後の自分の読書のためにも、めぼしいものを2点、挙げておこう。  

贋作吾輩は猫である―内田百けん集成〈8〉   ちくま文庫

贋作吾輩は猫である―内田百けん集成〈8〉 ちくま文庫

 
『吾輩は猫である』殺人事件

『吾輩は猫である』殺人事件

  全体的に漱石のものは「さすがに古いんじゃないか」と思っていたのだが、読んでみれば、少なくともこの小説は現代でもぜんぜん失効していないという感じがした。さすがは漱石というところか。
 大筋よりも随所に挟まれている与太話の方が本体という感じはするが、それでも、実業家を嫌いながらも嫌がらせをされて追い込まれていく様子はこの小説のあらすじと言って差支えないだろう。そして、そんな苦沙弥の姿は、『坊ちゃん』の主人公「おれ」にも、後続の多くの漱石作品にも通じるものがある。そういう点もあり、分厚いが、漱石の読み始めの選択としては悪くなかったと思う。

吾輩は猫である (岩波文庫)

吾輩は猫である (岩波文庫)

 
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