何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

門田隆将『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発』の感想


(2017年1月読了)

 実に久々になってしまったが、今年1月に数日間で読了した本から再スタートといこう。またぞろ止まってしまうことも大いに考えられるのだが、時間が許す限りは変わらず“かつて読んだもの”と“いま読んだもの”を混在させて更新していきたい。
 本書は、今年の年始に実家に挨拶するため帰省した折、父が読んでいたのを借りて少し読み、読み通したくなったので自分で入手した。福島第一原子力発電所の大事故をめぐるノンフィクションである。
 同所所長だった吉田昌郎氏の名前が副題として付されているが、内容としては、同所のスタッフ達、地元住民、政府関係者、自衛隊員など、吉田氏以外の人物に取材した部分も多く、福島第一原発の事故全体を俯瞰した著作と言ってよいだろう。
 もともと2012年11月に単行本として刊行されていたが、昨秋になって角川文庫に入り、それで読む人が増えたことと思う。
 全22章と細かく章分けされているので、それを逐一示すことはせず、全体について私なりの概要を示したい。本文に倣って敬称は略す。また、役職等も当時のものである。

概要 

 2011年3月11日。福島第一原子力発電所所長の吉田昌郎は、所長室で被災した。揺れが収まるとすぐさま免震重要棟の緊急時対策室(緊対室)へ駆けつけ、緊急対策本部の本部長として、勤務する人員と原子炉の安全のための指揮をとることとなる。
 地震に次いで予想外の大津波が襲来、非常用DG(ディーゼル発電機)が水没し駆動不能となったため、事態は致命的なものとなる。SBO(Station Black Out)――全交流電源喪失。原子炉を冷却するための機器を動かす電源が、確保できなくなったのである。
 電源が喪失状態に陥る中、吉田は原子炉冷却のため、消防車で水を入れることを考え、手配する。原子炉1号機、2号機を操作する中央制御室(中繰)では、当直長の伊沢郁夫により、現場へ行く際の基本方針が定められ、非番の当直長たちも集まりつつあった。しかし、制御盤の表示も消えている状況では、電源復旧の方法を探りながら、ともかく原子炉に水を入れ続ける方法を模索するしかなかった。
 既に放射能測定器が放射能漏れの可能性を示すなか、スタッフたちの懸命の努力が続く。決死の覚悟で原子炉建屋に突入し、ポンプが動くか確かめ、手動でバルブを開き冷却水の注入ラインを確保したとき、時刻は午後8時ちかくになっていた。

 地震発生と津波により、元大熊町長の志賀秀朗は着の身着のままで避難を余儀なくされた。無論、それは志賀だけでなく全ての地域住民に襲いかかった。「福島民報」富岡支局長・神野誠が見た被害の光景は、壮絶なものだった。
 地震発生から10時間が経過し、「線量増加」が東電幹部を焦らせていた。テレビ会議ヨウ素剤を服用すべきか否かについて煮え切らない返事しかしない本店に対し、吉田は怒りを爆発させる。

 原子炉に水を注入し続け、格納容器を爆発させないためにベントを行う。その方針に沿って、吉田は津波で押し寄せて貯まっていた海水を注入することを決める。しかし、福島第一原発にあった消防車3台のうち、損害がなく動かせるのは1台のみ。消防車の確保が次の課題となる。
 経済産業省池田元久副大臣らが現地入りし、現地対策本部が発足する。しかし、電源喪失のため、原子炉のあらゆる数値は計測不能のままだった。海江田万里経済産業大臣はベント実施の会見をするが、ベントをすると判断するのは政府か事業者たる東電なのか、解釈がバラついていた。会見で耳慣れぬ用語に記者らが困惑し、同時に事態の深刻さを胸に刻む中、世界初の本格的ベントの準備は進められる。
 原子力安全委員会斑目春樹委員長は、ようやくもたらされた情報が示す深刻さに驚くが、現場の状況を推測し、フィード・アンド・ブリード(注水しつつ蒸気を逃がす)を提唱するとともにベントの必要性を説いた。次第に入ってくる情報は、どれも想定を超えて悪いものばかりで、1号機が“空焚き”になっていることは間違いなかった。圧力上昇する格納容器を破裂させないためには、ベントを急ぐしかなかった。
 緊迫が強まっていく1号機、2号機の中繰では、手動によるベントの準備が進められていた。誰が危険な現場に行って、ベントをするのか。必要以上の志願者たちが手を挙げるのに、申し訳なさと有り難さを覚えながら、伊沢は人員を決めていく。基準は、比較的年齢が高く、職責が高い者だった。恐怖を“何か”で克服し、ベント実行メンバーたちは重装備を整えていった。

 12日未明、池田元久は、菅直人首相が現場にやってくるという報告を受け、驚く。震災・津波の被害からの人命救助に大わらわの現地に首相が来る意義は乏しく、また原発についても官邸から指示した方がよいのではないか。居合わせた東電副社長・武藤栄も同感だった。周囲が困惑するまま、官房長官の枝野に全権委任をし、菅は斑目らとともにヘリに乗り込む。
 菅の現地入りには、吉田も困惑した。注水とベントに頭を絞り、装備も限られた中で首相を迎えることはロスでしかない。
 福島へ向かうヘリの中では、斑目が事態の深刻さを菅に説明しようと試みたが、“イラ菅”とあだ名される菅に封殺された。現地に着くなり、菅は武藤にくってかかり、汚染検査に対しても怒声を発する。
 菅と相対した吉田が状況を説明すると、ようやく菅は落ち着き、池田が差し出した福島第二原発についても「原子力緊急事態宣言」を発し、避難指示を出す書類を決裁した。菅らが乗ったヘリが宮城方面に飛んだのは、午前8時過ぎ。彼らが首相官邸を飛び立って2時間ほどが経過していた。
 のちに、現場を混乱させたとして、菅の現場訪問は非難された。菅は訪問の理由を、筆者(門田)に対し、“ベントが進まないことの説明が官邸では得られなかったため(星見による要約)”と答えている。菅にとって、現場で吉田に話を聞くまで、納得できる説明が得られなかったということになる。

 郡山市に駐屯する陸上自衛隊第六師団隷下の第六特科連隊に、消防車派遣の準備をせよという命令が下ったのは、3月11日の夕刻。吉田所長の発案が要請という形で届いたものだった。危機の迫る原発への出動という任務に、これまでとは違う思いを抱き、隊員たちは福島駐屯地の消防車とも合流、福島第一原発へと向かった。現場の状況に改めて驚きながら、隊員たちは一号機への注水・冷却に従事する。
 菅らが去った直後、吉田はベントは午前9時開始を目標とするよう指示した。それまでイメージトレーニングを繰り返していたベント実行メンバーたちは、淡々と原子炉建屋へと向かう。第1陣の2人は企図したバルブを開き、無事に帰還した。しかし、第2陣では、線量計が振り切れ、撤退を余儀なくされた。

 12日明け方、富岡町の災害対策本部では、福島第二原発の広報担当から、ベントとそれに先行する住民避難について説明が行われていた。7時前に避難指示が町内に放送され、14時のセシウム検出の報を受け、町長ら幹部だけが残った災害対策本部は現地での機能を失った。
 内部からの手動ベントが不可能と分かり、吉田の指示で「外」からのベント――コンプレッサーで空気を送り込み、ベントができないか――が検討される。内部からのベントを再チャレンジすべく、第3陣が覚悟を決めて建屋へ向かった時、スタック(排気筒)から上がる白い煙が発見され、ギリギリのところで第3陣は引き返す。
 この白い煙こそが、空気圧によるベント成功を示すものだったが、まだそうと知らない中繰は重苦しい空気に支配される。中繰に居る意味はもはやない。しかし、自分たちが中繰から去ることは、発電所も地域も見捨てることになる。万感を込めて伊沢は若い運転員たちに残ってくれと告げ、他の当直長たちも頭を下げた。
 その時、突如として爆音が発電所を襲った。12日15時36分、1号機が水素爆発を起こしたのである。爆発の衝撃により、免震重要棟の渡り廊下の天井は崩壊。以後、汚染状態での活動を余儀なくされる。給水活動を続けていた自衛隊の渡辺秀勝曹長は、驚きながらも怪我人の手当てにあたり、続けて海水注入の作業に入る。
 しかし、海水の注入について、官邸から「待った」がかかる。海水注入について再臨界などの懸念を斑目が口にしたのに対し、政治家たちが過剰反応したためだった。吉田はテレビ会議上では注入停止を聞き入れながら、実態は海水注入を継続させた。
 過剰な介入だったのではないかとの指摘に対し、菅は法律が想定していた緊急事態の甘さ、それゆえの機能不全に官邸が出ざるを得なかったと反論する。しかし、それによって官邸が混乱していたことは、映像と音声に残されている。
 1号機建屋の爆発を受け、伊沢は中繰から若い運転員たちを退避させた。残った“年寄り”17人の1人、吉田一弘は「最後だから」と各人の写真を撮り始めた。
 やがて吉田所長の指示により、中繰は5人ずつの交代勤務へと切り替わる。地震当日の朝に中繰に入って以来、外に出ていなかった伊沢は、上部が吹き飛ばされた1号機建屋を見て、爆発の凄まじさに驚く。さらに、免震重要棟内のあらゆる所に倒れ、うずくまっている人――協力企業や女性など、戦争でいうところの“非戦闘員”――の多さにも驚くとともに、何かしら心強いものも感じていた。

 14日午前11時1分、ふたたび轟音が響いた。3号機が水素爆発を起こしたのである。福島第二原発での支援を切り上げ、第一原発へやってきたばかりの陸上自衛隊中央特殊武器防護隊や、東電関係者らも爆発の被害を受け、緊対室の吉田が把握できない行方不明者は一時40人に達した。結果的にこの数字はゼロとなり、死者は出なかったが、吉田は作業を命じた自分の判断を後悔する。交代で中繰に詰めていた担当者は、死を覚悟していた。
 3号機の爆発により、海水注入を行っていた消防車やホースが大破したが、幸いにも代替策が見つかる。一方、2号機は内部の圧力が上昇し、注水できなくなるという致命的事態が出来していた。一進一退の状況が続き、3日間不眠不休の吉田は、現在の作業に直接関係の無い者の避難を口にする。座り込んだ吉田の脳裏に去来するのは、“一緒に死んでくれる”仲間たちの顔だった。
 「東京電力が福島第一から全員撤退したいと言っている」。15日未明にそんな連絡が入り、官邸は驚愕する。東電の清水政孝社長は「制御に必要な人間を除いて」という言葉を使っておらず、そこから生じた誤解だった。
 全てのプラントの暴走を許せば、福島第一から半径250キロ以内、およそ5000万人が避難対象となる。菅らが清水に直接確認すると、「撤退など考えていない」との答え。不信感をつのらせた官邸は、政府・東電が一体となった統合本部を東電本店に設置することとした。
 菅はテレビ会議の映像を通じ、福島第一や対策本部など各所に対して統合本部の設置を宣言する。しかし、「逃げてみたって逃げ切れないぞ」など現場を理解していない言葉は反感を買うことになる。「逃げ切れない、とは日本自身のこと」と菅は当時の発言を振り返っている。

 15日午前6時過ぎ、衝撃音とともに2号機が爆発した。「必要最小限の人間を除いて退避」と吉田は命じる。自分は今ここに必要か否か――この曖昧な命令の判断は、各人に任せられた。
 生と死の瀬戸際に、ある若い者は「残る」と言って説得されて出て行った。ベテランでも出て行く者がいた。防災安全グループの佐藤眞理は、緊対室に残っていた若者たちを説得し、避難させる。緊対室の円卓に残った69名の人員は、佐藤には死に装束に身を包んだ神聖な者たちに見えていた。
 残った人々はしかし、死ぬと決めたわけではなかった。食べ物を探し、ヨウ素剤と一緒に摂って作業に臨む。とはいえ身体はボロボロだった。仮設トイレの小便器は、皆の血尿で赤く染まっていた。
 69人では、注水作業の人員が不足していた。一度は避難したが、徐々に現場に戻る人が増えていく。それに、消防車を運転したり水を補給するノウハウも充分ではない。周囲から消防車は集まってくるが、被曝を恐れて近づいてこれない。
 消防のノウハウがある協力企業・日本原子力防護システム(JNSS)の阿部芳郎は苦悩する。すぐにも第一に行って支援したいが、JNSSの社長が社員を危険な場所に向かわせられないと判断したことも理解できる。電話で作業のやり方を教えながら、阿部は社長に懇願する。翌16日、社長はついに阿部に福島第一に行く許可を出す。危険な現場に向かうのに、阿部は社長に感謝していた。
 そんな人々の奮闘に、状況は一進一退を繰り返す。物資が近くまで来ているのに到着しない。そんな孤立無援の中で現場の作業は続いた。
 まさに根比べだった。原子炉以外に核燃料保管用のプールが損傷している可能性もあり、予断は許されない。
 東電は改めて自衛隊に支援を要請。空と陸から、放水を試みることとなる。ヘリで、消防車で、放水が実施される。重装備に身を固め、消防車に乗った隊員は、線量計のアラームが鳴り響く中、屋外に立って自分たちを誘導する東電の人間を見て畏怖の念を抱く。
 自衛隊による幾度もの放水、福島第一原発の復旧班と消火班、その他多くの人員の協力によって、福島第一原発の冷却は進んでいった。

 混迷する現場の状況の中で、スタッフたちは家族との連絡を試みていた。
 死んだと思われていて半ば驚きとともに再び通話できたことを喜ばれた者がいた。その人物が涙を流したのは、震災から5か月後、動物たちにまで迷惑をかけたことを自覚した時だった。
 たまたま通じたメールによって遺言に等しい言葉を送った者がいた。誰もが、家族の深い愛を知った。

 一方、津波によって帰らぬ人となったスタッフもいた。生死も分からない子を待つ間、家族や友人たちが折った折り鶴は7000羽にもなった。故人の父は、行方不明者2名を出しながら仕事を続け、今また故人の話をしに自分たちの所へ来てくれた現場の仲間たちに敬意を表した。

 所長である吉田が自宅に戻れたのは、4月になってからだった。高校の頃から仏教に興味を持ち、座右の書は道元の『正法眼蔵』。達観した死生観を持つ彼がステージⅢの食道癌の宣告を受けた時、震災から8か月が過ぎていた。
 11年12月初め、既に所長の職を辞した福島第一原発の緊対室で、吉田は挨拶した。後に「チェルノブイリ事故×10」と自らが表現した福島第一原発最悪のシナリオを回避するため、状況に向き合い続けた吉田に対して、万雷の拍手が起こった。

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歌野晶午『長い家の殺人』の感想


(2004年11月読了)

 現代日本のミステリである。布団の中で二晩読んで読了した。
 「現代」といっても発表されたのは1988年なので、読んだ当時としても一昔前、現在(2017年)からすると四半世紀以上前の作品である。それほど昔とは感じていなかったが、改めて驚く。
 それはともかく、まずはあらすじを示す。

あらすじ

  1986年の秋なかば、越後湯沢のロッジ「ゲミニー・ハウス」には、東稜大学の学生バンド“メイプル・リーフ”のメンバーたちの姿があった。ベースの山脇丈広(やまわき・たけひろ)、ギターの戸越伸夫(とごし・のぶお)と武喜朋(たけ・よしとも)、ドラムスの駒村俊二(こまむら・しゅんじ)、キーボードの三谷真梨子(みたに・まりこ)、そしてファンのようなカメラマンのような役割を勤める市之瀬徹(いちのせ・とおる)。まだスキーには早い季節、彼ら6人が集まったのは、メンバーの大半の卒業を控え、最後のライヴのために練習合宿をするためだった。
 しかし、彼らを待っていたのは不可解な惨劇だった。初日の夜に行方不明となった者と、消えた荷物。窓から見えた人影。そして、翌日の午後、忽然と現れた死体。
 警察が捜査に入り、唯一の宿泊客だったメンバー達と、オーナーの権上康樹(けんじょう・やすき)は取り調べを受け、疑われる者も出るが、犯人が明らかになることはない。殺人を犯したのはメンバーの誰かか、宿のオーナーか、あるいは近隣のリゾートマンションを荒らす窃盗犯の仕業なのか。
 真相が分からないまま季節は過ぎ、“メイプル・リーフ”は1人を欠いた状態で再度ラスト・ライヴの準備を始める。だが、新宿のライヴハウス「パーム・ガーデン」でのステージ真っ最中、再び凶行が演ぜられる。
 またも理解不能な現場の状況に、警察は困惑し、メンバーは打ちひしがれるが、彼らの前に、ドイツ帰りの“メイプル・リーフ”初代ドラムス、信濃譲二(しなの・じょうじ)が現れる。彼は、残されたメンバー達から話を聞き、2つの現場を調べ、手巻きで煙草を吸い、信濃は消えて現れた死体の謎を解き、譜面に記されたA7の暗号を解明する。
 真相を看破した信濃だったが、真犯人への法による裁きを重視せず、犯行を「ライヴ・ショー」と言い表す。真犯人よりも、狂気に満ちているのは、信濃かもしれなかった。

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過ぎた年(2016年)におくる50冊

 いつもは読んだ本の感想を書いているのだが、広い意味で「その年」を概観する本のリストを作りたいと思い立った。この考えは、実のところ年末には生じていたのだが、主に多忙さによって、これまで叶わなかった。

 仕方がないので、手が空いた年度末のこのタイミングに作成する。2016年の1年間、世の中の動向などから興味が広がり読もうと考えた本や、人に薦められた本、実際に読んで心に残った本などから成る50冊である。おすすめ本リストというよりは、個人的な、これから読みたい本・手元に置きたい本の列挙と言うべきだろう。
 ただ、脈絡なく列挙するのではなく、幾つか定めた大枠ごとに挙げていきたい。では始めよう。

ある節目

  毎年、なにかしら「〇周年」という節目はある。2016年は、どういったものがあっただろうか。

 まず、夏目漱石の没後100年を数えた年だった。『夏目漱石の妻』などNHKのドラマも、それを踏まえたものだったのだろう。
 漱石の主要な作品は全て読んでいるが、再読するならば『こころ』だろうか。初めて読んだのは学生の頃で、それから断片的にしか再読はしていない。

こころ (岩波文庫)

こころ (岩波文庫)

 

  漱石にはロンドンに留学した経歴があるが、そのイギリスでピーターラビットが有名になるのは、彼が帰国してしばらく経ってからのことだったようである。漱石と同時代人と言っていい、この一連の絵本の作者ビアトリクス・ポターは、2016年に生誕150年を迎えた。
 欧風趣味の母が買いそろえていたので、実家でピーターラビットの本を読んだことはある。それから随分と時が経ったが、いま読んだらどんな感想を抱くだろうか。

ピーターラビットのおはなし (ピーターラビットの絵本 1)

ピーターラビットのおはなし (ピーターラビットの絵本 1)

 
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梶本修身『すべての疲労は脳が原因』の感想

  現在、年末の進行による深い疲労状態で、これを書いている。疲労しているのは今に始まったことではなく慢性的なものでもあるので、どうにかできるかと思い手に取った1冊である。
 本書の内容は、テレビ等でもよく扱われるようだが、私は最近ほとんど地上波のテレビを観ていないので、著者の説に触れるのは本書が初めてだった。まずは目次に沿って概要を示す。

概要

はじめに 疲労を科学することとは

 疲労とは“エネルギーの枯渇”と考えられがちだが、それは多くの場合あてはまらない。がん細胞による悪質液、風邪におけるインターフェロン分泌といった原因もあるが、大半の疲労の原因は細胞のサビ――酸化ストレスである。そして、長時間の運動によって最も酸化ストレスが大きい身体の部位は、脳の自律神経中枢なのである。本書ではこの脳疲労のメカニズムと解消法を論じる。

第一章 疲労の原因は脳にあり

 疲労とは、医学的には痛みや発熱と並ぶ人間の生体アラームと考えられている。過労防止のための疲労定量化する研究によると、運動の結果、最も疲労するのは筋肉ではなく、脳の自律神経の中枢であることが分かった。
 脳において、実際に疲労が起こる部分(自律神経の中枢――視床下部と前帯状回)と疲労“感”を感じる部分(眼窩前頭野)が異なり、人間はこの疲労感を達成感でマスクしてしまえるためにランナーズ・ハイや過労死を引き起こしてしまう。同じ動作を続けると身体の一部がだるくなるように、同じ作業を続けると「飽きた」と感じるのは、脳(特に自律神経の中枢)の神経細胞疲労し、作業能率が低下しているサインである。「飽きた」と感じる前に小まめに休憩を挟むことで、脳の作業能率の低下を防ぐことができる。また、脳に入る情報の90%は視覚情報であり、疲労してくると視野が狭くなる。このため連続的な車の運転などは危険である。眼精疲労の原因も自律神経の疲労にある。
 飽きてきているのに集中力を高めようとすることは、疲労を蓄積させることに他ならず、危険である。スポーツ選手が「ゾーンに入った」状態は一部の神経回路ではなく脳全体を使っていると考えられるため、単なる集中とは区別される。従って、仕事の後のスポーツクラブや早朝からのゴルフなどは疲労を蓄積させる可能性が高く危険である。一方、スポーツや楽器演奏の反復練習が苦にならないのは、小脳が関わる「手続き記憶」の構築に当たるためである。
 脳の神経細胞は新生しないため、疲労が蓄積しやすい。放置すれば、生活習慣病メタボリックシンドロームなどのリスクも高まる。
 本書で取り上げる生理的な疲労の他に、慢性疲労症候群による病的な疲労もあり得る。この疑いがある場合、専門の医療機関を受診する必要がある。

第二章 疲労の原因物質とは

 疲労の原因物質というと、かつては乳酸が挙げられていたが、近年の研究では否定的である。真犯人として考えられているのは、脳内で神経細胞を攻撃する活性酸素である。紫外線も活性酸素を発生させるため、疲労軽減のためには紫外線に対策する必要もある。
 活性酸素神経細胞などを酸化させると、それによって疲労因子FF(ファティーグ・ファクター[Fatigue Factor])というタンパク質が増加し、疲労感として自覚される。この疲労因子FFをモニターすることで、疲労の度合いを計測することができる可能性がある。ヒトヘルペスウイルスの量も、同様の尺度として用いられる可能性が高い。
 疲労因子FFが体内に増えると、これによって傷ついた細胞を回復させようと疲労回復因子FR(ファティーグ・リカバー・ファクター)というタンパク質も増加する。しかし、この因子は疲労因子FFが急激に増加した時には反応し切れないため、日ごろ疲れていない人が急に徹夜をしたりすると、健康を損なうリスクが高いと推測される。
 これら疲労因子FFや疲労回復因子FRの分泌には、個人差が大きい。疲労回復因子FRの反応性は加齢などによって減少する(=疲れがとれにくくなる)ため、睡眠・食品・居住空間などを工夫して対応する必要がある。

第三章 日常的な疲労の原因はいびきにあった

 夜の睡眠中のいびきが原因で、昼間の眠気を訴える人がいる。いびきによる気道の狭小化は多くのエネルギーを浪費するし、睡眠中に休まるべき自律神経が酷使されることで疲労が蓄積されるのである。昼間の眠気がひどい場合、睡眠時無呼吸症候群SAS:Sleep Apnea Syndrome)と診断されることもある。
 いびきや睡眠時無呼吸症候群は、放置していると糖尿病や脂質異常症などの生活習慣病、高血圧症や心筋梗塞、心房細動などの罹患リスクが高まるとされている。居眠り運転がもたらす危険性も無視できない。睡眠時無呼吸症候群にはCPAPシーパップ)――鼻から空気を送り込み、気道を広げる療法――が有効である。単なるいびきに対しても、これを用いることで疲労回復に効果がある。
 入眠障害中途覚醒早朝覚醒、熟眠障害など、眠りに何らかの障害があることを睡眠障害と呼ぶ。睡眠障害の日本人は多く、厚労省は国民病と位置づけている。睡眠中は疲労回復因子FRの働きが疲労因子FFのそれを上回るため、疲労回復には充分な睡眠が不可欠である。睡眠のうち、脳の疲労を回復させるのはステージⅢとⅣのノンレム睡眠(徐波睡眠)で、これは一晩の眠りの最初の3分の1ほどである。
 睡眠の質を向上させるには、夕方以降には強い光を浴びないようにして体内時計のサーカディアン・リズムを整えたり、眠る1~2時間前に38~40℃程度のお湯で半身浴をしたり、眠る3時間前までに低脂肪で消化の良い食事をすると良い。カフェインやアルコールは、睡眠の質を低下させる。

第四章 科学で判明した脳疲労を改善する食事成分

 栄養ドリンクやエナジードリンクが広く飲まれているが、それらが疲労を回復するというエビデンス(科学的実証)はない。有効成分として謳われるタウリンは体内で必要量を合成でき、多量に摂取しても疲労を回復するわけではないし、カフェインやアルコールなどの成分も本質的な疲労回復にはつながらない。同様に、スタミナ食として捉えられているニンニク料理、ウナギ、焼肉なども、栄養不足は解消できるが自律神経が酷使されることによる脳疲労には効果がない。
 著者らのプロジェクトにより発見された、疲労を軽減する食成分として最も効果的だというエビデンスが得られたのは、イミダペプチドイミダゾールジペプチド)であった。この成分は鶏の胸肉に多く含まれ、マグロやカツオなど大型回遊魚の尾びれ近くの筋肉にも含まれている。動物の疲労しやすい部位に含まれるイミダペプチドは、活性酸素による酸化ストレスを軽減することで疲労改善をもたらす(抗酸化作用)。ビタミンA・C・E、ポリフェノールなどにも抗酸化作用はみられるが、それらが短時間しか作用しないのに対し、イミダペプチドアミノ酸に分解された状態で脳に到達し作用するため脳の疲労にピンポイントで作用できるという利点がある。
 1日に200mgのイミダペプチドを摂取することで、抗疲労効果が得られる。これは鶏の胸肉を100g摂ることで達成できる。サプリメントも販売されているが、粗悪品もあるため「イミダペプチド確証マーク」のあるものを選びたい。
 疲労回復効果のある成分としては、クエン酸も挙げられる。クエン酸は、細胞内のミトコンドリアがエネルギーを生み出す反応(クエン酸回路)を活性化させることで疲労を軽減させる。ただし、これは活性酸素から脳の神経細胞を守っているわけではない。効果的な抗疲労法は、疲れを感じる前に日常的に、イミダペプチドクエン酸を組み合わせて摂取することである。
 運動時の疲労回復に効果があるとされるBCAA(Branched Chain Amino Acids;分岐鎖アミノ酸)だが、エビデンスはない。むしろ摂りすぎると疲労感を強める恐れもある。ただし、筋肉に強いダメージがあるような運動をした時や筋トレなどをした時には筋肉内で消耗したBCAAを補うために摂取することは有効である。アルコールは活性酸素を発生させるが、少量(純アルコールで20g程度)の飲酒であれば利点もある。

第五章 「ゆらぎ」のある生活で脳疲労を軽減する

 森林浴では樹木の香り成分フィトンチッドが、水辺ではマイナスイオンが疲れを癒すとされているが、いずれも根拠はない。それらが疲労を脳軽減させるのは、風や光や温度や湿度といった「不規則な規則性」を持った現象――「ゆらぎ」を有するためである。
 人間の生体活動にも「ゆらぎ」があるため、快適と感じる温度や湿度で仕事をしていても、それが長時間固定されていると疲れやすくなる。著者らは公共施設やオフィスビルを対象に、光・温度・湿度・風といった要素に「ゆらぎ」を加えたシステムを提案している。夕暮れを味わったり、朝日で目覚めるように工夫することで、このシステムと同じようにサーカディアン・リズムを整えることができる。
 デスクワークの途中で立ち歩き、スポーツドリンクを飲むことでも「ゆらぎ」によって疲労を軽減できる。温泉は「ゆらぎ」に満ちてはいるが、遠方に強行軍で赴いたり、熱い湯に長時間全身浴するのは逆効果となる。香り成分として今のところ唯一、抗疲労効果が認められている「緑青の香り」を嗅ぐのも疲労を抑えることに繋がる。
 上記を踏まえた理想的な休日の過ごし方とは、以下のようなものとなる。前日は早寝し、静かな音楽や小鳥の囀り音で目を覚まし、日の光を取り入れ、鳥の胸肉とレモンやオレンジなどを摂り、近所の公園などに散歩に出かけ、家に戻ってソファーに横になってくつろぎ、頭を使わない漫画や雑誌を拾い読みしたり、親しい人と他愛ない会話を楽しんで過ごす。

第六章 脳疲労を軽減するためにワーキングメモリを鍛える 

 疲労に強い脳を作る方法として、「ワーキングメモリ」を鍛えることが挙げられる。「作業記憶」や「作動記憶」とも呼ばれるこの脳の働きは、複数の資料を読んでパソコンで文章を作成したり、自動車を運転したりするような常に入力される情報(短期記憶)を受け入れながら、過去の記憶・学習・理解(長期記憶)を結び付けて複数のことを同時に考えたり行う一連の動きを指す。
 「ワーキングメモリ」が優れているということは、脳全体を活用し、省力化・効率化して複雑な作業を行えるということである。この働きを強化することで、脳疲労を予防する体質になることができる。
 「ワーキングメモリ」は、1つ1つを積み上げて処理しようとする「ボトムアップ処理」ではなく、全体を俯瞰して効率的に処理しようとする「トップダウン処理」を牽引する。また、「ワーキングメモリ」は入力される情報に「タグつけ」をして効率化する。効果的な「タグつけ」をするには、その情報について喜怒哀楽といった感動を伴わせることが重要である。
 「ワーキングメモリ」を鍛えるには3つの方法がある。ものごとを多面的に見て感動を伴った「タグつけ」をすること、多くの人と会って会話すること、世の中の色々な物事に興味を持ち多趣味になること、である。

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おーなり由子『てのひら童話1』の感想


(2004年11月読了)

 休みの日に一気読みその4。
 おーなり由子氏は、もともとは少女漫画雑誌『りぼん』で連載していた漫画家である。さくらももこちびまる子ちゃん』の、割と初期の頃の巻に特別寄稿が載っていたと思うので、連載時期としてはそれくらいの頃だったのだろうと思う。私の知る漫画作品も以下に幾つか挙げておこう。

 本書は、そんな作者によるオムニバス形式の絵本というか物語付きイラスト集というか、そんな本である。単行本で発表され、後に文庫化されているが、私は文庫版の方を読んだ。
 春夏秋冬で分けられた4章に計25の話が収められている。数が多いので、いささか乱暴だが話ごとにごく短い概要を示すことにする。

概要

 早春と春の章
 「北の魚」。冷凍室で凍ったカエリチリメンが考えたのは北の海。生まれ変わってもまた魚になりたいと願う。
 「のはら」。女の子が日記を書いていると、犬の子が来て色鉛筆で黄緑色の野原を描いて帰っていった。
 「だっこ天使」。抱きしめ合ってばかりいる一対の天使。人と人がふと抱擁しあいたくなるのは、この天使の欠片の粒を身体のどこかに受けたから。
 「春一番」。女の子が温水プールに行った帰り道。ごうごうと風が吹いてみんな飛ばされてしまった。女の子も飛ばされてしまった。
 「川の音」。川辺で出会った、小さなお爺さんと犬。時間が流れる速さの違う彼ら。独りになったお爺さんは水面に何を思う。
 「うたいぬ」。住宅地で歌う野良犬。どこかの誰か、そのうちのいつか、のために歌う犬。
 「女の子」。田んぼで見つけた見覚えのある女の子。走った跡にはれんげの花が咲いていく。それはかつての自分自身の姿だった。
 「スカート」。スカートを履いてみたかった蛙の女の子。色々工夫しても皆に笑われ、それでもやっぱり、皆に見せに行く。

 夏の章
 「けむし」。毛虫が大好きな男の子。毛虫と仲良くなって遊ぶが、やがて毛虫は蛹になって夏になる。
 「あこがれ」。女の子の食欲がないのは、夢の中で魚に恋しているせい。近くなのに声が届かない。
 「初夏」。緑の中で生まれた子ども。森の奥で遊んでいると、葉っぱに懐かれ恐くなる。母は笑う。
 「おばあちゃん」。長生きのため、眼を閉じて食事をし、夏なのに厚着で昼寝するおばあちゃん。ぶつくさ言って煙たがられても、子芋の煮つけは美味しく食べる。
 「ひかるもの」。太陽が照りつける午後。ひまわりは太陽の輝きに驚き、それが照らすあらゆるものが光るのに感激する。嫌われ者のシデムシも例外でなく、それを教えられてシデムシは喜んだ。
 「夏の手」。炎天下で友人が来るのを待つ少女。帽子のゴムを噛むと感じる、天上から降る細かなもの。そして風とともに、大きな手が彼女を撫でにくる。飼っていた犬が死んだ時も、それは「イイコ」「イイコ」と撫でに来た。
 「水ねこ」。もともと魚に生まれる筈だったその猫は、だから川底で昼寝する。魚をつまみ食いし、川底から夕焼けを眺めて涙する猫。そんな猫の昼間の過ごし方を、家の者は誰も知らない。

 秋の章
 「手紙」。習っているチェロが上達せず、やめようと思っていた「僕」に手紙がきた。差出人の目が視えないその女の子は、宇宙の向こうで歌を仕事にしようと練習しているという。そして、「僕」のチェロを励みにしているとも。「僕」はチェロを弾き続ける。
 「てんとうむし」。「わたし」が、てんとうむしだった時、花が咲く音が聞こえた。その時の嬉しいような悲しいような香りを憶えている。今度は花に生まれたい。
 「はっぱ」。はっぱの子は春に生まれた。空を見て笑っていたが、大雨で兄や姉が飛んでいって怖くなる。木のかあさんは元気づける。秋の終わり、その子は嬉しそうに空に旅立っていった。
 「夕やけ」。夕焼けに顔を見せて立っていると、いつか「わたし」は透明になって空を飛ぶ。いたずらを幾つかして、想いを寄せながらも届かない人に、してみたかったことが1つ。あの人は行ってしまうけれど、それでも夕焼けは何でも透明にするから、だから大丈夫。
 「ひみつ」。クラスでは目立たない、大人しいつゆ子ちゃん。けれど彼女は空想を羽ばたかせて賑やかな夢をみる。誰にも教えない、ひとりだけの秘密。

 冬の章
 「雪の日」。冬の月夜、凍てついた夜空にスケーターが描くトレース(滑った痕跡)。ギャラリーの雪だるま達は大喜び。
 「冬のお客」。沼底で暮らす婆さん河童。独りで人恋しい彼女の元を訪れたのは、子ども達が取り損ねた蜜柑たち。
 「牛乳虫」。夜、カップに入れた熱い牛乳の中から、不思議な子たちが止めどなく現れる。それらは手をつなぎ、羽を振るわせてミルククラウンを描き、そして明け方の星になった。
 「しょーろり」。お風呂屋さんの裏の土手で、いつも「しょーろり」「しょーろり」とやってきて植物に笑いかけている不思議な女の子。「植物に笑いかけたらよく育つ」。彼女のその言葉に子ども達は打ち解けるが、大人たちは些細なことから子ども達を引き離す。女の子は居なくなり、けれども明くる春には不思議できれいな花が咲いた。
 「泣く星」。宇宙に浮かぶ小さな星。宇宙飛行士の「僕」は、地球の穴をふさぐため、その星の表面を切り取って持ち帰ろうとする。表面を切り裂かれ剥がされて、星は「ぽわぁー」と泣き声をあげる。その悲痛な声に「僕」は胸が痛くなるが、それでも手を離せずにいた。

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