何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

池田満寿夫『エーゲ海に捧ぐ』の感想


(2003年7月読了)

 表題作と「ミルク色のオレンジ」「テーブルの下の婚礼」の3篇を収録。花村萬月よりも湿り気を帯びたエロスを描いた、というところだろうか。
 例によって軽くあらすじを。

あらすじ

 エーゲ海に捧ぐ。妻のトキコと離れてサンフランシスコのスタジオで仕事をしている彫刻家の「私」。愛人のアニタ、その友人のグロリアがいるところへ、新宿の妻から国際電話がかかってくる。
 側に女がいるだろう、いない、の押し問答。会話が長引くほどに、上がっていく電話料金。
 アニタの中にある地中海はグロリアのエーゲ海と溶け合い、「私」は妻から「証拠」を突きつけられるのだった。

 「ミルク色のオレンジ」。妻のエリコと共にニューヨークに滞在している画家の「私」。ふと知り合った16歳の少女ナオミに乞われて情を交わそうとするが、ナオミの女性器に入れられているオレンジという幻想に囚われて事を為すことができない。

 「テーブルの下の婚礼」。友人のNが留守の間だけ、山の手にある彼の下宿に滞在することになった、芸大浪人生で19歳の「オレ」。隣家の住人の愛人を盗み見、金もなく性欲は持て余している。
 家主はサキコという聖書と文学を好む30がらみの女で、一言も喋らない12歳の妹サキ、腎臓を患っている母と共に暮らしている。
 サキに欲望を覚え手を出した夜、「オレ」は食事をするテーブルの下でサキコと交わる。エスカレートしていく情交は、しかし不意に終わる。

 下宿を飛び出した「オレ」だが、Nが帰らぬ理由、姉妹は本当に姉妹なのか、という不吉な疑問を抱きつつ下宿へと戻る。

感想

  「エーゲ海に捧ぐ」は芥川賞受賞作である。作者の本業が視覚芸術だからか、多少普通の小説と描く視点が違うか。視覚と聴覚が分断されている感じ。電話での音声と視えているものという捉え方は面白い。

 内容的には、元も子もない言い方だけど国際電話での痴話げんかと言ってよさそうである。待つ女の悲哀。これらはこれで良いと思うが、携帯電話が登場し、更にはインターネットが登場して視覚的にも遠距離が意味をなさない現代において、この作品が有効かというと、やっぱり難しいだろうという気もする。

 作中に出てきた(妻が「私」の不貞を掴むあたり)映画『石の花』は、本文中の説明によると世界初のオールカラー映画だというが本当だろうか。 あるいは、「旧ソ連最初の」の間違いではないかと思う。本作と同じく彫刻家が主人公のファンタジーらしい。 

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 「ミルク色のオレンジ」は、捻じれた時間軸で描かれており、またナオミの台詞で平仮名であるべき所が全てカタカナなので読みづらい。内容的にも、アメリカで少女に逆ナンパされて、というような感じで共感し難かった。

 逆に「テーブルの下の婚礼」は、舞台も東京だし、性欲ばかり持て余す貧乏浪人生という主人公像にも共感しやすかった。松本零士氏の漫画『男おいどん』なんかに近い感じである。ただし本作の「オレ」はおいどんとは違って女と交情できるのだが。

 そんなとっつき易さがありつつ、障害が示唆される12歳の少女に悪戯するなど、児童ポルノ法の新しい罰則が適用された今日(2015年7月15日)取り上げるのはどうだろうと思われる部分もあって、ミステリ的な後味の悪さの漂う結末も含め一筋縄ではいかない作品である。

 総じて性的なモチーフに覆われた3作ではある。が、そうかといっていわゆるエロ小説なのかというと少し違うようにも思う。
 時にひたすら饒舌になる台詞を読んでいると、性というモチーフはあくまで飾りで、あとがきで述べられている「言葉、言葉、言葉。日本語で何か書かずにおられなくなったのはたぶんこのためだったのだ」という作者の言が、正直なところなのかもしれないと感じる。

エーゲ海に捧ぐ (中公文庫)

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