何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

筒井康隆『脱走と追跡のサンバ』の感想


2019年9月読了

 以前から気になっていた作品である。ふと手に取ったので、そのまま読むこととした。
 題名の「脱走」という言葉からは、村上龍氏の『希望の国エクソダス』(当該記事)を思い出す。が、社会システムとしての日本からの「脱出」を描いた『エクソダス』と、本作の「脱走」はいささか異なる。まずは概要を示そう。

概要

カスタネットによるプロローグ

 以前いた世界から異なる世界に移動してしまったと感じている「おれ」は、以前の世界の自由さを好ましく思っており、今いる世界から抜け出して帰りたいと考えている。

 「おれ」は一体いつから違う世界に迷い込んでしまったのか。心当たりは幾つかある。一つは、正子と一緒に公園でボートに乗り、雨に遭って排水口から下水道に入り込んだ時。一つは、やはり正子に連れられて職業適性所なる施設に行き、SF作家にのための奇妙なテストを受けた時。そしてもう一つは、正子が何者かに誘拐され、身代金の渡し場所に指定された自我町6丁目にあるという井戸時計店に行った時。
 いずれにせよ、この世界の移動について正子が関与しているらしいと考えつつ、「おれ」は今の世界の情報による呪縛、時間による束縛、空間による圧迫から逃れ、元の世界に帰ろうと行動を開始する。

第1章 情報

 氾濫する「にせもの」の情報により、精神が末端肥大症的になっていると考える「おれ」は、情報の供給源であるテレビにかかわる人間に接すれば現状を打破できるのではと考え、テレビ局「本質テレビ」に向かう。住居であるビルを出ると、ほどなく自分を尾行する緑色の背広の男がいることに気付いた。
 多くの人間が働くテレビ局だが、本質的なことを語る人間はいない。「本物の世界」への出口があると予期した「おれ」は強硬手段に出るが、その先もやはり虚構だった。
 幾度繰り返しても同様で、自分が本気だったか否かをめぐって「スポンサー」と問答するうち、問題はテレビよりもその背後で情報を司っているコンピューターだということに思い至る。尾行してきた緑の男を撒きつつ、「おれ」は局の地下にあるコンピューター室を目指す。

 コンピューター室に着いた「おれ」は、立ちはだかった若い女性オペレーターを問答の末に突き飛ばし、核であるCPUに至る。そこにあった無味乾燥なものが情報だとは認められない「おれ」と、それこそが情報であるとする6桁の数字――正子らしき声の言い争いは、やがて「にせもの」か「本物」かの議論となる。
 そこに追い付いてきた緑色の尾行者は、自分は尾行者ではないと語るが、「おれ」は疑う。「おれ」が今の世界に違和感を感じているのに対し、尾行者は違和感を全く感じないと言い、その差異を正子の声があざ笑った。

 緑色の男とともに情報検索室に逃れ出た「おれ」は、今度は情報検索者たちと言い争いになる。そのさなか、「おれ」情報の中に脱出口が無いことを悟ると、時間が狂っているのだと考え、今度はこれを正そうと言い出す。緑色の男は制止しようとするが、「おれ」は諦めようとしない。

マリンバによるインテルメッツォ

 緑色の尾行者は、依頼主に提出する報告書で、自分が如何に真面目に仕事に取り組んでいるかを記して自己弁護する。彼はいま自分がいる「単純明快な世界」に満足しており、以前いた世界を住みにくいところと感じていた。

第2章 時間

 緑色の男の尾行を気にしながら、「おれ」はこの世界の時間を監督していると目される「大部分天文台」へと向かう。拾ったタクシーの運転手と時間をめぐる議論をしながら到着した天文台では、台長が応対してくれるが、結局は「時間なんてものは滅茶苦茶」で、確かなものは何もないのだと吐露する。
 狂乱の中、緑色の男が自分より前に訪ねて来ていたことを「おれ」は知り、次に男が行ったであろう、原子時計を作っているという「捕縛大学」応用物理学教室に向かった。その先で「おれ」は原子時計について説明を受けるが、原子時計もまた滅茶苦茶であり、天体の運行すらも滅茶苦茶だと説明される。

 自然科学的な時間ではなく、主観的な時間に可能性を求めた「おれ」は、今度は自我町6丁目の井戸時計店へと足を向けた。時計店では様々な時間軸の「おれ」が入り乱れており、いつしか映画を撮り始めていた緑色の男に言われて「おれ」は時空を駆け回る。再び「おれ」は井戸時計店に戻るが、そこでは尾行者との立場が逆転していた。
 正子を自宅のおんぼろアパートに帰らせると、「おれ」はふんだくった身代金で酒と賭け事に溺れ、流しのギター弾きをしながら老いていった。
 いつまでも正子を取り戻しに来ない尾行者に業を煮やす「おれ」だったが、尾行者がかつての「おれ」と同じ立場にあることを知り、尾行者を苦しめることに意義を見出す。

 時間が壊れたなかでの追跡と逃亡を繰り返すうち、もはや時間は「おれ」の問題にならなかった。「おれ」が緑色の尾行者を追いかけることすら出来るのだ。

ティンパニによるインテルメッツォ

 尾行者は怯える。無限に存在する世界の中には、逆に自分が尾行される世界も存在することに。時間を飛び回ったために、他の自分が蓄積した記憶が全て自分の中に流れ込み、そればかりか追う相手である「おれ」の記憶すら流れ込んだことで、両者の意識が似通ってきていることに。

 自分が「おれ」を尾行することに意味が見いだせなくなった尾行者は、尾行を続行するか中断するかの判断を依頼主にゆだねた。

第3章 空間・内宇宙

 残された脱出路は空間にしかない。そう考えた「おれ」は、自らに混じり合った尾行者の記憶から、「おれ」の尾行を依頼した者の素性を知り、その人物に会うため、「全然ビル」4階の「告白産業株式会社」へと足を向ける。追いすがる尾行者に「おれ」は、自分はこの世界から逃げ出すのではなく、己の精神力でこの世界を変える、とうそぶき、足を止めようとはしなかった。
 尾行者の追跡を交わしながら「おれ」は「告白産業株式会社」の社長室へと向かうと、そこで再び正子と再会した。

 「おれ」と正子は歓楽街を歩き、下水道を下る。それを尾行する尾行者。「おれ」は公園のボート借しの親父、井戸時計店の店主、職業適性所の所長らを連れ、尾行者以外と回転木馬に乗る。
 怒った尾行者により正子はさらわれるが、既に構図は自分・尾行者・正子の三つ巴であり、自分がこの宇宙の中心であると認識している「おれ」は追跡せず、タクシーを拾ってレストラン「大嘔吐」に向かう。たらふく飲み食いしたが無銭飲食のため捕まった「おれ」は、警察署の取調室で尾行者と正子に再会し、3人が一体となって世界を思い通りにしようとするが、上手くいかず分裂する。

 自らに相反する性質を持つ尾行者と正子は己の自我の一部であり、これを殺すことで、独立できると「おれ」は考える。
 「おれ」は、がらくたの山の上、ロココ調の宮殿の中で正子を殺し、雪山の頂で、豹の姿をした尾行者を殺した。あとには幾らも残らなかった。

ボサ・ノバによるエピローグ

 溜まりに溜まった仕事を片付けていた「おれ」は、その最後である「ドビンチョーレについて」という論文の執筆に手を着ける。いま話題になりつつあるドビンチョーレとは何か、その是非や意義、自分が書くSF作品がドビンチョーレであるか否か、など。論文は報告書となり、書き上げた「私」はその提出先を求め、墓地をさまよう。尾行者と正子の墓は見つからない。墓は「おれ」だった。

 不自由を失ったと感じる「おれ」は、新しい不自由を求める。
 果たして不自由は現れる。ナイトクラブの片隅で、正子ならぬ股子、尾行者ならぬ尾籠者を始め、これからの登場人物たちが入れ代わり立ち代わり自己紹介を続けていく。パロディばかりで腹を立てる「おれ」に、気分を害した尾籠者がパロディと本物の違いを問うと、「おれ」は即座に反論する。無限に続いていく「おれ」の長広舌。

感想

 思えば筒井氏の作品をしっかりと読んだのは、短編集『にぎやかな未来』(当該記事)以来である。『にぎやかな…』でも同じような言葉を使ったような気もするが、本作は「狂騒」という言葉がふさわしいと感じる長編だった。

演劇的で筒井康隆論的で反ニュー・ウェーブ的

 地の文である「おれ」の独白も会話文も、淡々としながらもどこか奇妙にして軽妙で、どんどん読み進められた。現状の十進法に異議を唱え「9」の次に「7」を坂さまにした数字を新たに導入しようとしたり、プログラム文やパンチカードが本文に登場したりと、細部の型破りぶりも愉快である。
 全体的に演劇を観ているかのように感じられるのは、擬音や韻を多用した台詞回しによるものと思われる。学生時代から演劇を始め、作家になってからも俳優をこなしている筒井氏であるから、作品が演劇に接近しているのは不思議ではない。こうした点は、他の筒井作品でも散見される特徴だと思う。

 「おれ」と尾行者や正子、あるいはそれ以外の人物たちの対話が、ほとんど常にけんか腰でなされる点も、演劇的な印象を助長していると思う。加えて、特に2章の後半以降では、対話の最中に場面が次々と転換されていき、読んでいる時点が「いつ」で「どこ」なのか混乱する夢幻的な感覚を抱かされた。これは好みが分かれるかもしれないが、私にとっては興趣を感じられる感覚だった。

 一方、巻末の解説の冒頭に「この作品は作者自身の手になるパロディ版「筒井康隆論」である」という言葉があるが(角川文庫『脱走と追跡のサンバ』[平成8年改版初版]p.331。以下のページ数はすべて同じ本のもの)、どの辺りがそうなのか、はっきりとは分からなかった。

 最も安直な解釈は、SF作家としてデビューすることで、それ以前とは一変した生活を送ることになった、ということだろうか。これは、ある程度は頷ける。
 また、いわゆるニュー・ウェーブSFの書き手と世間から目されていたことへの茶々、ともされているようである。
 ニュー・ウェーブSFについては聞きかじり程度のことしか知らないが、「外なる宇宙」ではなく「内なる宇宙」を描こうとしたSFということならば、確かに本作の、特に3章以降はその範疇にあるだろう。エピローグにある「ドビンチョーレ」についての論文も、「ドビンチョーレ」を「ニュー・ウェーブSF」と読み替えて違和感はない。

 とはいえ、これらは私の解釈である。事情に詳しい人に会う事があれば解説を乞うてみたい。

サンバと精神分析

 題名や人物についても少し触れたい。
 サンバという音楽ジャンルが題名に用いられているが、何となくでしか知らなかった私は、何となくでしかイメージできなかった。私が聴き覚えのあるサンバといえば吹奏楽の「ブラジル」だが、この曲はあまり本作に合うようには思えない。

 サンバの特徴などを調べると、なかなか幅広い音楽ジャンルのようである。本作が発表されたのは1970年代初頭だが、その頃の日本では(というか現在も?)サンバとボサ・ノバの区分けが曖昧なようで、“これぞサンバ”という曲はなかなか発見し辛い(この点も詳しい人に聞いてみたい)。
 いちおう本作によれば、サンバは「原始的な狂騒」で、ボサ・ノバは「退廃的狂騒」(ともにp.315の表現)ということになるだろうか。

 そういえば、『にぎやかな未来』の収録作に「踊る星」という短編があった。当該記事でも少し書いたが、サンバにせよワルツにせよ、生きている限りは“踊る”必要がある、というように執筆時の作者は感じていたのかもしれない。

 「おれ」以外の主要な登場人物として、緑色の服装をした尾行者と正子がいる。「自我町」の「井戸時計店」など、フロイト精神分析学の影響が見られる作品だが、本文の中でも半ば明かされているように、「おれ」と尾行者および正子の三者は人の心の三層構造を意図していると解釈できるだろう。
 あるいは、恋人のようであり姉でも母親でもあるような正子を「アニマ(男性の心中にある女性性の理想形)」と捉えれば、フロイトではなくユングの唱えた無意識論にも通じるかと思う。
 いずれにせよ、そういう意味では「筒井康隆論」である前に「ヒトの意識構造論」とも言えるのではないだろうか。

世界への違和感

 ところで「おれ」が抱いたような世界に対する違和感を、私も感じることがある。というよりも、2011年の地震以来、その時々で度合いは変わるものの、世の中の動きに対してどこか非現実的な印象を受けている、と表現した方が近いだろうか。

 ただ、これは私が歳をとったために起こったものとも考えられる。SF作家になったことで筒井氏が味わった世界への違和感ほどではないとは思うが、自分の意識が変容したことによる外界への違和感というのは有り得るだろう。本作の中でも、正子はこんな風に「おれ」をたしなめている。

「あなた自身が以前のあなたじゃないのよ。だからあなたに対する周囲の反応が以前と同じじゃないことも当然でしょ。それがたとえ、どんな世界にしろね」(p.272)。

 往々にして、歳をとるほどに「情報による呪縛」「時間による束縛」「空間による圧迫」は強くなるのではないだろうか。もし「おれ」の違和感が歳をとったことだけによるものだとすれば、「おれ」は無いものねだりをしているに過ぎないとも言える。
 2章後半では、とある世界で流しのギター弾きとして放埒な暮らしを続けて老いていく「おれ」が描かれるが、精神に老化をきたさず肉体だけが老いていく世界であっても、それは「おれ」の望むものではなかった。

 「おれ」が考えたように、ある世界を脱走して、他の世界に行くことが可能であるという考え方は、とても気が楽になる考え方である。ことに現在のように、実態が明らかでない感染症が流行しているとなれば猶更だろう。

異世界転移の系統

 それはそうと、近年「異世界に転移したら云々」というように展開する物語は枚挙にいとまがない。そうした現在の流れのだいぶ上流に、本作を位置付けることもできるかもしれない。
 もちろん、民俗学などで言及される「山中異界論」という言葉が示すように、“こことは違う世界に行く”という発想は大昔から人類が頭の中で転がし続けてきたところではある。20世紀以降の作品に現れた「異世界転移」は、それらを現代的な形に再構築した、というべきだろうか。

 以下に、異なる世界への転移を描いた作品群から、比較的古いものを幾つか挙げる。
 現在のジャンルで区分すればSFかファンタジーということになるのだが、SFでの異世界転移は「自分の世界と似て非なる世界への転移」であり、ファンタジーのそれは「見掛け上、かけ離れた世界への転移」と言えるかもしれない。ただしファンタジー異世界は、本質的には現実の写し絵であることも多い点は注意が必要かと思う。

発狂した宇宙 (ハヤカワ文庫 SF (222))
 
はてしない物語 (エンデの傑作ファンタジー)
 

  異世界へと行く物語が多く流布しているのに引き換え、少なくとも私は、他の世界へと行く方法を知らない。従って、外的要因によるものにせよ内的要因によるものにせよ、幾分かの違和感や憂鬱さを覚えながらも今の世界で頑張る他ない。頑張りたいと思う。

その他の枝葉末節

 以下は、例によって気になった言葉や表現などを列挙したい。
 まずは、テレビ局の地下で「おれ」が出会った、正子のような声をした女の言葉。以下に引用を示す。

「情報はあるがままにあるのよ。でっちあげられた情報だろうが、操作された情報だろうが、情報となった以上その情報は、でっちあげた人、操作した人の手をはなれ、独立して、あるがままの情報になるのよ」(p.114)。

 その情報が真であるか偽であるかは、大した問題ではないということか。フェイクニュースなどの動向を見ていると全く頷ける。
 本文を読む限り、このとき既に作者はテレビの背後で違和感の元となる情報をまき散らす存在として、コンピューターがあることを了解していた。当時のIT事情をそこまでは知らないが、現代を予見していたと言えるのではないか。

 尾行者が報告書の中で睡魔を形容するのに用いた肉粽(p.125)という言葉。
 「粽」は料理の“ちまき”のことで、音読みでは「ソウ」と読む。「肉粽」となると「ニクソウ」と読みたくなるが、ネットで調べる限りは「にくちまき」か、あるいは中国語読みで「ローツォン」などと読むようである。
 料理の実態としては、餅米に肉を始めとした食材を混ぜ、味付けをして竹の皮で包んで加熱調理したものと捉えて良さそうだ。

 追跡者とタクシー運転手のやりとりで登場する「お手々に十字の旗持って」「背中に担税男の子」という標語のような言葉(p.134)。
 これは少し調べたが意味不明だった。発表当時にポピュラーだった何かのキャッチフレーズのパロディなのだろうか。「担税」というのは、税を負担するという意味で、「担税者」とか「担税力」という言葉がある。

 天文台の台長が時間の決め方などでたらめだと語るくだり(p.158)や、時間を重要視していたことに「おれ」が疑念を抱きはじめる箇所(p.207)なども印象に残った。
 つい時間というものを絶対視してしまうが、少なくとも主観的には時間の進み方が一様でないことは多くの人が感じているところかと思う。
 時間軸がしっちゃかめっちゃかになり、Y1だのX3だのが付けられた複数の「おれ」が登場し出すあたり(p.188)では笑いが止まらなくなった。

 正子を誘拐した「おれ」の居場所を追跡者が示そうと書いた数式「e=-Φm0{2-(vc-1)^-2}-1/2Ρ(x,y,z)y」(p.192)も気になる。少し調べたが、今のところこの数式の意味は不明である。分かる人がおられたら指摘されたい。

 追跡者が千々に乱れる自分の意識を説明しようとして言及した離人症(デパーソナリゼーション)(p.211)は、自分の意識が自分から離れた観察者であるかのように感じたり、現実感の喪失をきたす精神症状である。極度の疲労でも生じ得るらしく、しばしば世界に対する違和感を伴うようでもある。そういえば本作は「おれ」の「疲れている」という一言から始まっている。

 「おれ」がモノローグで展開する、本を100冊書いた作家がいたとして、その100冊すべてを読んだからといってその作家の精神を熟知したとは言えないという説(p.235)。
 記述され出版されたものは多くの人に理解されるよう社会化された思考なので、イコール作者ではない。しかし、特に随筆などを読むと、その著者が内に秘めていることをすっかり分かったような錯覚を感じるのも確かである。ファンが多いだろう筒井氏のこと、熟知したつもりになったファンに困惑した実体験があったのかもしれない。

 ワルツを奏でるという「ジンタ」(p21、276など)。
 調べたところ、明治中期から大正初期に表れたとされる、市民らによる比較的小規模な民間オーケストラのことをこう呼ぶようである。昭和期には既に絶滅していたとされることが多いようだが、昭和45年前後に描かれたと目する作中に登場したのは、やはり時間という概念が壊れていることを暗示しようとしたためだろうか。

 終盤で「おれ」が主要登場人物を連れて訪れる「楽天地」(p.276)。
 かつて東京や大阪に存在した娯楽施設のようである。回転木馬があるようなので、簡易な遊園地のようなものだろうか。東京の方は、現在も錦糸町駅前でシネコンや場外勝馬投票券発売所 (WINS) が経営されているらしい。

 正子が待つ、山の頂に建つ宮殿の、壁や柱に彫られた模様を形容した「簇葉」(p.295)。
 「むらば」「そうよう」などと読む。群がった葉というぐらいの意味だろうか。ともかく山頂に似つかわしくない豪奢な宮殿ということだろう。

 同じく正子の宮殿で流れる「クープラン風」および「ラモー風」の音楽(p.296)。
 いずれもバロック期のフランスの作曲家であるフランソワ・クープランとジャン・フィリップ・ラモーを指すと思われる。いずれの作曲家の曲もYouTube等で触れることができるが、サンバと対比的な曲調と言っていいだろう。

 自分の原点を探ろうとして夾雑物をそぎ落としていくと、その除外物の中にも僅かにある自分を捨てていくことになり、結果として自己が消失する、という説(p.301)。
 みうらじゅん氏が『ない仕事の作り方』(当該記事)で語った「バラけると意味がない。合うとそう見える。」の裏返しのような考え方である。
 色々なありふれた物事の集積こそがその人の独自性であって、それらを分解したら何も残らないというのは納得できる。ありふれた材料を集めて独自性を出すというのは、私の理解している編集という概念にも近い。

 「おれ」が呪文のように呟く「エリ・エリ・ラマ・サバクタニ」(p.329)。
 これは、キリストが処刑され力尽きようとする時に叫んだとされる言葉である。アラム語で「我が神よ、我が神よ、なぜ私をお見捨てになったか」という意味だという。

おわりに

 本作を読んでからしばらくして、漫画家の吾妻ひでお氏の訃報が伝わってきた。
 美少女やナンセンスギャグによって人気を博した氏だったが、一方で筒井作品を愛読し、本領としてはSFを志向していたと思われる。

 氏の失踪生活を描いた実録漫画『失踪日記』では、その辺りも少しばかり触れられているが、その中には編集者から「『脱走と追跡のサンバ』みたいな作品を」と注文を受けているくだりがある。

失踪日記【電子限定特典付き】

失踪日記【電子限定特典付き】

 

 結局、吾妻氏はその注文に満足に応えた作品を描くことは無かったようだ。しかし、読んでみたかったという思いはつのる。ことによると、いま私が暮らしているこの世界ではないどこかの世界では、描かれているのかもしれない。

 吾妻流の『脱走と追跡のサンバ』については、いつか何かのはずみでそういう世界へと移動できた時の楽しみとしておこう。

脱走と追跡のサンバ (角川文庫)

脱走と追跡のサンバ (角川文庫)

  • 作者:筒井 康隆
  • 発売日: 1974/06/10
  • メディア: 文庫
 

 

プライバシーポリシー /問い合わせ