何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

ヘルマン・ヘッセ『デミアン』の感想

 『氷菓』(当該記事)に始まる〈古典部〉シリーズ、『青春と変態』(当該記事)と、図らずもしばらく「青春」な小説を読んできたが、続けてもう1作加える形となった。家族が私の積読から掘り出して読んでいるのを見て、私も読みたくなったのである。
 ヘッセの作品として、もっとも有名なのは『車輪の下』だと思われるが、私は同作について未読である(別の高校に進んだ旧友たちの幾人かが課題で読んでいたが、私の高校ではそれもなかった)。その代わり(というのもおかしいが)、出世作である『郷愁(ペーター・カーメンチント)』は読んでいる。きっとそのうち過去の感想として書くだろう。また授業で短編「少年の日の思い出」は読んだ記憶がある。
 読んだのは高橋健二氏訳による新潮文庫版だが、版が少し古く(昭和63年に改版されたもの)、文字の大きさが変わっている現行版とはページにズレが生じている可能性が高いことをお断りしておく。前置きはこの辺りにして、まずは概要を記す。

概要

 「私」――エーミール・シンクレールは、「自己自身への道」であった自らの青春の物語を、自身が10歳の頃から語り始める。当時、生まれた小さな町でラテン語学校に通っていた彼は、父母や姉たちによる信仰と温情ある光の世界と、世間の多くを占める苦悩や不信心による闇の世界と、その狭間にいる自分を意識していた。
 あるとき、年上の不良少年フランツ・クローマーににらまれまいとしてついた嘘から、彼は苦境に立たされる。その頃、ラテン語学校に転入してきた少年があった。名をマックス・デミアンといった。
 「私」より年上とはいえ、すでに老成した印象を有し、俊才でもあったデミアンは、ある日の帰り道、「私」に話しかける。話題は「私」の家の門の上に付けられた紋章と、その日の授業で扱われたカインとアベルについてだった。勇気と特色を持ったカインとその子たちを、他と区別し復讐するために「しるし」が付けられた――カインのしるしをそう解釈するデミアンの考えに「私」は驚愕する。
 クローマーによって長らく悩まされている「私」を救ったのは、そんなデミアンだった。読心術を使えると語り、どうかしてクローマーを黙らせたデミアンに、「私」は感謝をおぼえつつも不安と反感も抱く。それまでの苦悩やデミアンへの恩も忘れ、「私」は平坦な日常へと還っていった。

 思春期に入り、「私」は再び闇の世界へと踏み入り始めていた。学校の授業に反感を感じはじめた彼は、堅信礼準備の授業で一緒になったのを機に、疎遠になっていたデミアンと再び接近する。
 デミアンは、“思いを遂げるためには、そこに意志を向けさえすればよい”ことや、授業で言及されたゴルゴタの話に対する疑いを口にする。彼によれば、神の礼拝と並んで悪魔の礼拝が必要であり、あるいは悪魔を包含する神の創造が必要だった。「私」が、自らの抱いてきた2つの世界についての考えを打ち明けるとデミアンは受け容れ、自分の考えを雄弁に語った。
 また「私」には、堅信礼が近づいたある日、生気のない様子で座っていたデミアンのことが思い出される。堅信礼は特段の印象もなく終わり、「私」は父母や姉たちの世界から遠ざかった。学校を変わり、旅立ったデミアンとも離ればなれとなった。

 「私」は生家を離れ「聖…市」の少年塾に入った。
 1年以上が過ぎた頃、年長の寄宿生アルフォンス・ベックとブドウ酒を飲んだのをきっかけに、「私」は飲酒に耽るようになる。内心で孤独を感じつつ荒んだ毎日を過ごす「私」だったが、ふと見かけた少女に心惹かれ、ダンテの『神曲』からベアトリーチェと名付ると、生活を正して崇拝し始める。修行の一環として描き上げたベアトリーチェの絵は、彼女であり、デミアンであり、「私」自身でもあった。
 ベアトリーチェと出会うよりも前、数年ぶりに「私」はデミアンと再会し、酒浸りの「私」に対しアウグスティヌスを引き合いに「道楽者と聖者」を語り鷹揚に構える彼に、敵意すらおぼえていたが、いま改めて彼への憧れをつのらせる。追憶まじりの夢の中でみたハイタカの紋章を「私」は絵に描き出し、宛先も分からぬままデミアンに送付した。

 不思議なことに絵はデミアンに届き、やはり不思議な仕方で返事が来た。「鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う」で始まるその返信に記された神「アプラクサス」とは、ヘロドトスを講じる教師によれば、古代ギリシアにおいて“神的なものと悪魔的なものの結合”を象徴する名ということだった。たびたび「私」の夢には、大きく強く、男女・聖俗・善悪が混淆するような者――アプラクサスと重なる――が現れ、「私」を抱擁した。憧れと不安を抱いて「私」は翻弄されていた。
 他人に対しては超然としつつ、将来の希望も決まらず落ち着かなかった「私」は、町外れの教会でオルガンを弾くピストーリウスと出会う。アプラクサスの名を知る彼は、神学を修めたが逸脱し、古代の信仰を広く研究しており、自然の形象や夢の解釈などにも通じていた。
 アプラクサスへの新しい信仰を、宗教として確立したいというピストーリウスが語ることは、デミアンと重なっていた。
 一方、同級生のクナウエルと禁欲をめぐって口論した「私」は、夢にみた女の肖像を描くと、それは「私」に「名状しがたく新たな感情」をもたらした。何かの不安にかられた「私」は町を歩き、それはクナウエルを救うことに繋がった。
 「私」は、過去と知識を重視するピストーリウスに対して次第に反感を抱くようになり、やがてそれは決別をもたらした。「私」は後悔するが、最後には“各人の天職は「自分自身に達する」ということのみ”であることを悟る。「私」のひとときの指導者――ピストーリウスは、自らの弱さを認め、「私」がいつか“運命をのみ欲するもの”になれると語った。私の生徒時代は終わり、大学へと進む時が来ていた。

 休暇中、「私」はデミアンと母親が住んでいた家を訪れる。そこで見せられたデミアンの母親の写真は、「私」が夢に見ていた者だった。私は旅立ち、デミアンの母の姿を追い求めた。
 探し求めた人は見つからず、H大学で学生生活を始めた「私」は、その地でデミアンと再会する。デミアンは、「私」にカインの「しるし」がはっきりと現れたと喜ぶ一方、ヨーロッパの現状に対しては嘆き、「滅びるだろう」と口にする。
 今のデミアンの家を訪ねた「私」は、ついに彼の母親に会う。「私」は暖かく彼女――エヴァ夫人に迎えられ、足繁く通いだす。
 エヴァ夫人とデミアンの周りには、「しるし」を持つ探求者たちが集っていた。彼らの信条は多様だったが、現在のものの崩壊と新生が近づいているという予感では一致していた。デミアンは「運命に対する準備」の重要性を「私」に説くのだった。
 「私」はエヴァ夫人と共にいることを幸福に感じ、夢を通して導かれた。「私」の欲求不満に対し、夫人はおとぎ話を語ることで「私」自身の更なる内奥へのいざないとした。
 ある日、デミアンは生徒時代のいつかのように生気のない様子で座っていた。空に巨大なハイタカを幻視し、雷鳴と雨と雹に見舞われた「私」がデミアンのところへ戻ると、彼はそれを古い世界の崩壊と読み解く。

 夏学期は穏やかに過ぎ、ほどなくエヴァ夫人に会えなくなることを覚悟した「私」は、思いを遂げるために夫人に意識を集中する。やって来たデミアンは、戦争の開始を予告した。それは、確かに新しいものの始まりだった。
 デミアンは少尉として出征し、「私」もまた戦地に赴いた。戦場での人間は立派であり、奥底で新しい人間性のようなものが成長しつつあると「私」は感じる。
 負傷した「私」は、運び込まれた部屋で隣に寝ているデミアンを認めた。2人は親密に語り合い、デミアンエヴァ夫人からのキスを「私」に伝えると、去っていった。いま「私」の心の中には、友によく似た自分自身の姿がある。

感想

…序盤こそ『郷愁』や「少年の日の思い出」を思わせるノスタルジックな成長物語と思われたが、それだけではなかった。謎めいたデミアンに代表される「カインのしるし」を持つ者による、それまでのヨーロッパやキリスト教や、“一般的に成功とされる人生というもの”についての懐疑や再検討がもう1つのテーマだろう。
 デミアンに誘われたシンクレールが、キリスト教的な光の世界から、それを外れた闇の世界へと分け入ったと読む人もあるかもしれないが、シンクレールが辿ったのは闇への接近ではなく、むしろ光と闇の統合と考えるべきだろう。
 そうしたシンクレールの変転は、ある崩壊を伴った。その辺りについて述べるために、この小説の象徴的な一節を引用する。

「鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。鳥は神に向かって飛ぶ。神の名はアプラクサスという」(新潮文庫版『デミアン』昭和63年版 p.121)

 世界を「卵」に例え、内部からそれを壊して飛び立とうとする「鳥」を自己になぞらえる言説は、上記だけでなく作中で幾度か繰り返し示される。
 この言葉に私が既視感を抱いたのは、90年代後半のアニメーション作品『少女革命ウテナ』を観た時に似たような台詞に触れていたためだった。たしか同アニメでは、「世界の果て」なるものの意志を代行する「生徒会」の面々によって、この台詞が繰り返し述べられていたはずである。
 デミアンによれば「神でも悪魔でもある神」(p.123)だというアプラクサスは、調べたところグノーシス主義という古代の宗教思想の神のようだが、そのアプラクサスもまた、同アニメで言及されていたらしい。製作スタッフが『デミアン』を参照していたのは疑いなさそうである(『ウテナ』について更に細かく説明したい欲求にかられるが、とりあえず今は割愛する)。

 『ウテナ』にせよ本作にせよ、上の引用で言われているのは、自らを変革しようとする意志と、その結果としての1つの「世界」の崩壊である。この「世界」という言葉は、自分の外側の「社会」とか「世の中」といった「外的世界」であり、同時に個々の人間が各自の認識によって形作っている「内的世界」でもあるのだろう。
 シンクレールは自らの「内的世界」を、デミアンらによってアベル的(キリスト教や一般的な価値観を手放しに信仰し、光のみを価値とする)な状態からカイン的(アベル的価値観を超え、そこから取り落とされていたものにも価値を認める)な状態に転じるため、苦闘した。とりあえず、物語をそう単純化することは可能だろう。

 キリスト教を横に置いて考えれば、アベル的とは、例えば親の敷いたレールに乗って一面的な世界観だけで生きていく人生が思い浮かぶ。多くの人は物心がつく過程で、そこに異議を唱えて自分の尺度を持つようになるだろう。カイン的とはそういうことなのだと思う。
 それくらいのことなら大多数の人が経験することと思われるが、「しるし」が現れるほどに徹底してカイン的であることは困難だろう。その困難さについて、本作の前書きは以下のように表現している。

「私は、自分の中からひとりで出てこようとしたところのものを生きてみようと欲したにすぎない。なぜそれがそんなに困難だったのか。」

 作中にも、それと殆ど同じ文言が埋め込まれている。

「私は、自分の中からひとりで出て来ようとしたところのものを、生きてみようと欲したにすぎない。なぜそれがそんなに困難であったのか。」(p.127)

 上の「なぜ」という疑問に、最初の比喩を借りて答えるとするならば、卵の殻は多層状で、さらにそれぞれの殻の裏には、きっと綺麗な空色が塗られているから、ではないか。ある程度の層までは殻を容易に破れるが、どこかの段階で“殻を破る苦痛”が“閉じ込められている窮屈さ”を上回る時が来る。そして塗られた空色を空だと信じ込みたい誘惑に駆られるのだろう。
 そうした段階に甘んじ、不安を紛らわすために似たもの同士で寄りあっている多くの人を、デミアンは「衆愚人」(p.178)と呼んで批判的である。シンクレールは、そこからの脱却について以下のように述べている。

 各人にとってのほんとの天職は、自分自身に達するというただ一事あるのみだった。……肝要なのは、任意な運命ではなくて、自己の運命を見いだし、それを完全にくじけずに生きぬくことだった。(p.168)

 私もまた「衆愚人」であることは免れないとは思うが、上の言葉には勇気付けられる。アベルとかカインといった区分けをすることも究極的には些事で、ただ自らの尺度を持って精一杯生きるのみ。そんな励ましに思えるからである。

 ここまでで既に、単純な青年の成長物語の範疇から逸脱した小説ではある。しかし、更に「外的世界」とその破壊――第一次世界大戦――までも作中に登場させた点が本作を、訳者が解説で言うところの「問題作」としての側面をいや増しているのだろう。
 「外的世界」を破壊しようとする「意志」とは何か。デミアンたちの言葉から推察するに、それは“「カインのしるし」を持った者と、それに突き動かされた状況”とでも表現できるだろうか。
 そのような「外的世界」の破壊は、シンクレールの青春と成熟に重なるのではないか。言い方を換えれば、資本主義が大手を振り始めて幕を開けた「近代」という時代は、それ以前の時代がアベル的なのに対してカイン的だったと言えるのではないか。
 あるいは、シンクレールら若者の「内的世界」と、近代化で軋みだした「外的世界」の、どちらが早く崩壊(そして変革)するか、という物語だったのかもしれない。そして本作(すなわちヘッセの人生)においては、第一次世界大戦という「外的世界」の崩壊が先にあった。
 「近代」と「崩壊」という言葉から、私は夏目漱石を思い出す。
 ヘッセに比べ、年齢こそ漱石の方が一回り上だが、両者が作品を発表し始めた年代はほぼ重なる。漱石最後の小説『明暗』は1916年の発表で、これはヘッセが匿名で『デミアン』を発表する3年前である。
 例えば『三四郎』(1908年)で、広田という教師が日露戦争以後の日本を評して「滅びるね」と発言した心境は、デミアンが近代に対して抱いた感覚と同じではなかったか。

 さらに、第一次世界大戦が大いなる崩壊であったならば、これに比して(とりわけヘッセの祖国ドイツには)更なる破壊がもたらされたと思われる第二次世界大戦は、ヘッセにはどれほどの崩壊と捉えられたのか、という点にも興味が湧く。
 1962年まで生きたヘッセではあるものの、残念ながら、少なくとも本格的な小説という形ではそれは語られていない(発表された最後の長編小説は1943年の『ガラス玉演戯』のようである)。それ以降は「晩年の散文」(『幸福論』の書名で邦訳が新潮文庫に収められている)に当たるしかない。いずれ、他の作品を幾つか読んだ上で確認してみたい。

幸福論 (新潮文庫)

幸福論 (新潮文庫)

 

 本作の主題と思われる“カインとアベル”とか“崩壊と変革と近代”といった話題はここまでとして、もう少し他のことにも触れたい。例えば“学生と酒”というキーワードからも、本作は魅力的に思える。
 恐らく現代の高校生くらいの年齢のことだろう、故郷を離れ、デミアンとも別れたシンクレールは少年塾の寄宿生となるが、そこで酒の味を知ってしばし痛飲生活を送る。そのために退学寸前までいってしまうのだが、この碌でもない学生生活に、私は自分自身のあまり誇れない大学時代を重ねて懐かしく思った。まさに、以下のようにシンクレールの言った「老紳士たち」の心境である(さすがに私はまだ「老」がつく年齢ではないが)。

 私の生まれた町の役人をしている尊敬すべき老紳士たちが、飲んですごした大学時代の記憶に、幸福な天国の思い出のように執着し、詩人やほかのロマン主義者が幼年時代に礼拝をささげるように、彼らの学生時代の消えうせた自由を珍重し礼拝していたのを、私は思い出した。いずこも同じだった!(p.180、原文は「自由」に傍点)

 無論、そういう記憶を手放しに讃美するのは違うと思うが、一方で再会したデミアンも、シンクレールの素行不良をアウグスティヌスを持ち出して半ば容認している(p.115)。若い頃の放蕩は、ある意味では成熟のプロセスと言うべきなのかもしれない。
 ちなみに、聖アウグスティヌスが若い頃の放蕩ぶりを省みて書いたのが、かの『告白』である。近づきがたい古典のように思っていたが、少なくとも序盤は取っ付きやすいかもしれない。

告白 I (中公文庫)

告白 I (中公文庫)

 

 酒といえばもう1つ印象深いのが、物語中盤にシンクレールの指導者となるピストーリウスとブドウ酒を飲むシーンである。まだ気心も知れぬ同士で飲む酒は、どんな味だったろうか。つまみとしてピストーリウスは焼き栗を取り出すが、ドイツの栗は日本のものと同じなのだろうか、など興味が尽きない。
 それほど印象が強いのは、このピストーリウスという男に、私が好感を抱いているからに他ならない。最終的に彼はデミアンと別れていくが、自らが思い描いた自分に至れないことを認める彼は、それはそれで立派だったと思う。
 何かを追い求めて、ついに至れないということはあり得る。その時に「くじけずに生きぬく」姿を、彼は示しているように思える。「男性的な強い点はすべて目と額に集まっており、顔の下の部分は柔らかく未完成のまま」(p.131)という顔も、なかなか愛嬌がありそうでもあるし、本人は嫌がりそうが、ワインでも飲みながら音楽や古代の信仰などについて質疑応答でもしてみたくなる。

 以下は例によって、ここまでで言及できなかった作中に登場する書籍や、未知だった事項を列挙したい。
 ヘロドトスの著書の講読において、教師がアプラクサスについて言及し(p.121)、シンクレールは驚く。ここだけでは、ヘロドトスの著書にアプラクサスの言及があるのか、それとも教師が話題にしただけなのかは判断がつかない。ヘロドトスの著書といえば『歴史』だが、未読である。試みに調べてみたい。

歴史 上 (岩波文庫 青 405-1)

歴史 上 (岩波文庫 青 405-1)

 

 物語の終盤、「H大学」に入学したシンクレールは、自室の机上に「数巻のニーチェ」を置いて読んだようである(p.174)。具体的な書名を特定するのは難しそうだが、やはりキリスト教的世界観に対立したニーチェの考え方は、本作と通底しているように思う。シンクレールが「彼とともに悩み」というような読み方をしているので、自伝的な『この人を見よ』などを読んだということかもしれない。

この人を見よ (光文社古典新訳文庫)

この人を見よ (光文社古典新訳文庫)

 

 また、これは本文の内容ではないのだが、巻末の訳者による解説で、シュペングラーの『西洋の没落』についての言及がある(p.217)。大学の最初の授業で、課題図書の選択肢の1つとして挙げられていたのを憶えているが、他の本で課題を済ませてしまったので読んでいない。本作を読んで学生気分を思い出したついでに、手に取るのもよさそうである。

西洋の没落 I (中公クラシックス)

西洋の没落 I (中公クラシックス)

 

 最後に、初読時には分からなかった事項を2つ挙げる。いずれもピストーリウスのオルガン曲に絡んだものである。
 まずは「レーガー」(p.129)。これは当時の音楽家マックス・レーガーを指すようである。1916年に亡くなったそうだが、第一次世界大戦が始まる前である作中では、まだ存命だったことになる。もう1点、「ブックスフーデのパッサカリーヤ」(p.137)。「ブックスフーデ」はディートリヒ・ブックスフーデという17世紀プロイセンの作曲家で、「パッサカリーヤ」は器楽曲の音楽形式の一種のようだ。

 ところで、結末の後のシンクレールの生死については、色々な議論があるようである。物語のテーマとしてはどちらでも大差がなさそうなだけに、結論を出すのは難しいだろう。
 ただ、彼のような人はなるべく長く現世に留まって、同じような「しるし」を持つ若者たちの苦悩に助言を与える存在――彼にとってデミアンがそうだったように――となった、というような“その後”の方が、希望がある気がする。年の瀬、今度の5月には元号が改まるというひとつの“時代の終わり”を前に、そんな風に思う。

デミアン (新潮文庫)

デミアン (新潮文庫)