何か読めば、何がしか生まれる

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ガルシン『ガルシン短編集』の感想


(2004年9月読了)

 処女作の特異性から「鬼才」と呼ばれ、精神を病んで33歳で自殺を試み世を去ったフセーヴォロド・ミハイロヴィチ・ガルシンだが、20程度の作品を遺したと聞く。その全てを日本語で読めるというわけではなさそうだが、「鬼才」というのが気になったので1冊読むことにした。
 手に取ったのは、いまや稀少となった福武文庫のものである。古本屋で初版本が1,000円だった(いまAmazonで買おうとするともっと安いようだが)。収録されているのは処女作「四日間」に加え、「臆病者」「邂逅」「従卒と士官」「がま蛙とばらの花」「赤い花」「信号」の7編。
 当時は(図書館を除けば)そんな選択肢しかなかったのだが、その後、岩波文庫から5編を収録したものが出たり、青空文庫で幾つか読めるようになったり、旺文社文庫版を底本としたKindle版が出て、読みやすくなった感はある。が、それら全てを合わせても全作品を網羅はされていないようである。

紅い花 他四篇 (岩波文庫)

紅い花 他四篇 (岩波文庫)

 

 作家別作品リスト:ガールシン フセヴォロド・ミハイロヴィチ|青空文庫

ガルシン短編集 赤い花

ガルシン短編集 赤い花

 

  岩波文庫版は「紅い花」「四日間」「信号」「夢がたり」「アッタレーア・プリンケプス」の5編を収録しており、青空文庫では今のところ「アッタレーア・プリンケプス」「夢がたり」「四日間」が読める(そのうちの「四日間」は訳者が二葉亭四迷なので、やや文章が古い)。Kindle版の収録作は「赤い花」「四日間」「アッターレア・プリンケプス」「めぐりあい」「信号」「ナジェジュダ・ニコラーエヴナ」である。
 入手難度や訳の新しさなどを考えると、これらのうちのどれかを手に取ることが多いだろう。私の場合、福武文庫版を軸に、青空文庫で「夢がたり」を、kindleで「めぐりあい」「ナジェジュダ・ニコラーエヴナ」を押さえて計10編くらいが手軽なところか。特に「ナジェジュダ…」は彼の妻の名を題名に戴いた一編であることから興味がある。
 さらに古い本であれば「ごく短い小説」「兵卒イワーノフの回想」を収めた角川文庫版や、福武文庫版の底本でもある全集(全3巻)などもあるが、入手は難しいかもしれない。
 書誌情報はそれくらいにして、収録作のあらすじをそれぞれ示そう。

あらすじ

 「四日間」露土戦争のさなか、志願兵の「俺」(イワーノフ)は、トルコ軍に突撃し気を失う。目覚めると、怪我をした「俺」は、自分が殺したと思しきトルコ兵の死体とともに藪の中に横たわっていた。両軍ともに付近には居ないらしく、「俺」は、暑さ、傷の痛み、喉の渇きなどに耐えながら、腐乱していくトルコ兵から水筒を奪い時間をやり過ごす。脳裏に浮かぶのは、戦争というものの不可思議、郷里の母や許嫁のマーシャのこと。死を覚悟した4日目のこと、「俺」は味方に発見され、片足を失うが生還する。そしてこの4日間のことを語るのだった。
 「臆病者」。戦争に反対する「僕」は、よく友人の医学生リヴォフ(ワシーリィ・ペトローヴィチ)と戦争について論じている。現実的なリヴォフは「自分の仕事をやるまで」と容認する立場である。それはリヴォフの妹マーシャ(マーリヤ・ペトローヴナ)も同じで、彼女は看護婦となって戦地に行こうとしていた。しかし、リヴォフたち兄妹の家に間借りしており、マーシャに好意を抱きながらも報われないクジマ・フォミーイチは、苦悩の日々を過ごしていた。
 戦争の趨勢を「僕」は戦慄を覚えながら見守る。クジマが虫歯をこじらせて病床に就くと、彼につれなかったマーシャは献身的に看病するようになる。僕は兵役逃れの方法を知りながら、それも潔くないと葛藤する。
 クジマの病勢はつのり、胸は壊疽に侵される。死に瀕してクジマは絶望するが、同時にマーシャの慈愛を得て慰められる。若くして死に瀕する不運に見舞われながらも、一個の人間として扱われ死にいくクジマと、戦場で物のように死んでいく男たちを、「僕」は対比する。
 医者とリヴォフはクジマの手術を行う。その折のマーシャの、戦争は共通の悲哀・災難であり、それを自分だけが逃れるのが嫌だ、という言葉に「僕」は決心を固める。
 志願兵となった「僕」は教練を受け、兵舎で会った同郷人たちと戦争のこと、敵であるトルコ人について話す。
 いよいよ出征という時、クジマを見舞った「僕」は、リヴォフから戦場で良心の呵責から自殺した若い軍医の話を聞く。軍服姿の「僕」を見てクジマは不愉快に驚き、皮肉を言うが、最後には自分も出征すると言う。自宅での最後の夜を「僕」は、歴史や戦争をしている、自分もその一部を構成するところの「巨大な未知の有機体(オルガニズム)」について考えて過ごす。出征の汽車が出る間際、駆けつけてきたリヴォフ兄妹がクジマの死を告げた。
 その後、雪野原の戦場では、黒髭の「旦那」(=「僕」?)の所属する大隊が敵の射撃を受け、すり潰されていった。
 「邂逅」。中学校の教師として海沿いの街に赴任したワシーリィ・ペトローヴィチ。生徒たちを、世の汚れに染まらぬ立派な人物に育てようと考える彼だが、現在の地位や俸給はつましく、許嫁のリーザを呼び寄せるためには金策が必要だった。
 そんな彼は、偶然にも学校時代の旧友ニコライ・コンスタンチーヌィチ(クドリャーシェフ)と再会する。招かれたニコライの家は豪華なものだったが、県の二等書記官で技師となった彼の俸給はワシーリィとそれほどの差はなかった。彼は建造中の「大部分は海にはなくて、この陸にある」堤防について不正を行い、金を得ているのだった。ワシーリィは糾弾しようとするが、ニコライは笑い飛ばす。
 豪華な食事や酒を味わいながら、気持ちが晴れないワシーリィに、ニコライは堤防の建設計画から如何に自分の懐に「取込む」かを説明する。ワシーリィは激昂するが、ニコライは自分ひとりがやっているのではない、教師という仕事もまた掠奪者だとして反論し、ワシーリィに個人教授の口を紹介すると抱き込みにかかる。
 反感を抱き続けるワシーリィを、ニコライは屋敷の中に作った自分の水族館へと連れて行く。ワシーリィは水族館を激賞しながらも、弱肉強食を体現して良心の呵責のない魚たちに自らをなぞらえるニコライに「勝手にするさ」と溜息まじりに言うのだった。
 「従卒と士官」。イワン・ペトローヴィチの娘婿のニキータは、家で唯一の若い男の働き手だったにもかかわらず兵隊にとられてしまった。しかし、掃除や暖炉焚きなどの作業以外の軍務は全く飲み込まないニキータに、新兵教育係も匙を投げてしまう。しばらく持て余された挙句、ニキータは新たに配属となった下級将校スチェベリコーフ准尉の従卒となった。
 士官となって、これ以上何も望むもののないスチェベリコーフは、ニキータにいばり散らし、こき使うが、食事・雑誌の耽読・同僚との雑談・クラブへの精勤などで過ごし、たまに演習や講義に出る准尉の世話はそれほど激務でもなく、おおむね日々は平穏に過ぎゆく。吹雪の夜、士官と従卒はそれぞれの悪夢をみるが、やはり波乱なく夜は過ぎていった。
 「がま蛙とばらの花」。ある家の花壇に、美しい薔薇と、がま蛙がいた。家の少年は花壇を遊び場にしていたが病を得て今は床に臥せっている。がま蛙は薔薇の美しさに惹かれるが、口から出るのは汚い言葉ばかりで薔薇を怯えさせる。薔薇の棘に血を流しながら、がま蛙はよじ登り、薔薇の花まで手を伸ばす。その時、やせ衰えた少年の頼みで少年の姉が薔薇の花を摘み、がま蛙は蹴とばされてしまう。薔薇の花の香気を吸った少年は、満足して息を引き取った。
 「赤い花」癲狂院(精神病院)に入院してきた男は、誇大妄想を抱き、暴れるために狭窄衣で拘束されていた。治療や入浴が恐ろしい拷問に思われ、男は大暴れし聖人に祈りすら捧げるが、どうにか処置を終える。真夜中、男はふと正気に返るが、あくる朝には再び狂気が支配し、医師を相手に独自の理論を展開した。正気と狂気を行き来しながら活動し続けるために、男の目方は減っていく一方で、このままでは持つまいと医師は考えるのだった。
 季節が温暖になると、患者たちは庭の花壇や菜園で労働することになっていたが、男はそこで赤い罌粟(けし)の花に目を奪われる。この赤い花が世界の悪を凝結したものに映った男は、万難を排してその一輪を摘み、自分の手の内に押しつぶし、一晩中震えて過ごした。さらにもう一輪を摘み、疲労困憊して体重を減らしていく男に対して、医長たちは身体拘束を図る。が、使命感に燃える男は拘束を抜け出し、赤い花の最後の一輪を摘み取り、自分の寝床に戻って満足げに息を引き取った。
 「信号」。軍隊時代の上官の口利きで、鉄道の線路番となった病身のセミョン・イワーノフ。妻のアリーナも呼び寄せると、セミョンは真面目に職務をこなし、両隣の番人たちとも割と良好な関係を築くことに成功する。が、隣の番人の1人であるワシーリィ・ステパーノヴィチは鉄道省の上層部の権威主義的・搾取的な在り方に不満を抱き、セミョンに愚痴をこぼすのだった。
 そんな折、管区課長が路面検査にやって来る。ワシーリィはさっそく直訴を試みるが、失敗し、本省に訴えるためにモスクワへ行くと言い残して姿を消した。
 しばらくしたある日の夕方、セミョンは自分の受持区域内のレールのねじが緩めるワシーリィの姿を認める。ワシーリィは逃亡し、工具を取りに行く時間もないまま旅客列車が近づいてくる。セミョンは自らの血潮で赤い信号旗を作り降ろうとするが、出血が激しくなり巧くいかない。あわやというところで彼と列車を救ったのは、ワシーリィだった。

感想

 秀逸はやはり「赤い花」であろう。狂気と人道主義は両立するものであると感じた。
 これはプラトンの『国家』に出てくる“魂の機能の三区分”(434C~441C)――すなわち理性・欲望・気概の3者――の気概とも関連してくると思うのだが。何というか、狂気であることそれ自体は本質的な問題なのではなく、それが時々によって、その人の振る舞いをプラス・マイナスどちらにも方向づける要因になる、ということが問題なのだと思う。

国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)

 

 言い換えれば、人はみな何かしらの狂気を孕み、それによってそれぞれの正義を果たしていると言えるのではないだろうか。この患者にとってはそれが、赤い罌粟(けし)の花を毟り取り、弱らせることだったのだろう。

 作者が鬼才という評価を冠するに至った処女作「四日間」には、初読時はそれほど衝撃を受けなかった。が、本書全体を読み終えてみれば、軍隊生活に取材した点、個人の人生を支配する大きな機構――国家とか歴史とか戦争とか――についての思索が描かれる点など、作者の創作の原点であることは間違いない。
 「臆病者」は「四日間」を別の視点で描いたと言ってもいいかもしれない。結末の悲劇的な分だけ、「四日間」よりも私の心には響いたように思う。特に看護婦(当時の呼称に倣う)となって戦場に行くというマーシャの言葉には、いつの時代もヒロイズムは若者を掻き立てるものだと思わされる。若者がヒロイズムに憧れるのは当然のことで、それを利用しようとすることが、悪と言えば悪であろう。
 「邂逅」は、昔のロシアでもお役人はそんなものですか、という感じ。主人公が横領する旧友を糾弾し切れない点がリアルである。
 「従卒と士官」は淡々としたものながら、そこはかとないユーモアが良い。しかし、彼らのある意味で優雅な生活の下層には、主人公を軍に取られて困窮しているだろう家族たちのような人々がいることが示されており、ユーモアだけを描いたものでもない。
 「がま蛙…」はメルヘンだが、そこにはやはり“生きる使命”のようなエッセンスが見え隠れ。
 「信号」はヒューマニズム満点の快作と読めた。作中にサモワールというものが出てきて、文脈から何となくヤカンのようなものを想像したが、調べてみると給茶器という訳語が当てられているようである。日本ではあまり使われていないと思うが、現在でも電熱式のものが現役で流通しているのには軽く驚く。 

 戦場や狂気というものを扱いながらも、書き方は透徹しており、総じて真面目な小説が多い印象である。現代日本でこうした空気を持っている作品は少ないと思う。
 敢えていま読もうという人は少ないかもしれないが、私としてはなかなか肌に合う作品集だった。ロシア語は特に人名が複雑で(姓・名・父称・愛称がある)面食らうが、そこそこの人数が登場しながら200ページ足らずという点も、不慣れな私などにはちょうど良い。

ガルシン短篇集 (福武文庫)

ガルシン短篇集 (福武文庫)

 

 

 

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