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米澤穂信『氷菓』の感想


(2017年9月読了)

  アニメ化もされ映画化もされた人気作だが、一応それ以前から米澤穂信氏のデビュー作としては知っていた。ながらく本棚に刺さっているだけだったのだが、それをようやく取り出して読んだ形である。
 ちなみに映像化作品としては、アニメの方が比較的評判がいいようである(私もCSで一挙放送されていたアニメ版は観た)。

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 以下、まずはあらすじから。

あらすじ

 「やらなくてもいいことなら、やらない。やらなければいけないことは手短に」を生活信条とする折木奉太郎(おれき・ほうたろう)は、旧友の福部里志(ふくべ・さとし)とともに「部活の殿堂」神山高校に入学したばかり。溌剌とした“薔薇色の高校生活”に背を向け、『省エネ』な高校生活を実践しようとしていた彼の望みは、しかし1通の手紙によって挫かれた。
 折木供恵(――・ともえ)。奉太郎の姉にして、神山高校のOGでもある彼女からの手紙は、自分が所属していたが、今は部員ゼロで廃部の瀬戸際にある、とある部活動に所属するようにと弟に助言するものだった。実力的に敵わない姉の“アドバイス”に、奉太郎はしぶしぶその部活――古典部の部室である、地学講義室を訪れる。
 しかし部室には先客がいた。奉太郎と同じ1年生で、豪農の家のお嬢様でもある千反田える(ちたんだ・――)である。いつのまにか密室になり、えるを閉じ込めていた部室の謎を難なく解いた奉太郎に、えるは大いに感心し、居合わせた里志も古典部に誘う。かくして3人の新入部員により、古典部は復活した。
 図書室から、毎週決まった時間に借りられる『神山高校五十年の歩み』の謎を解いた奉太郎に、えるは、とある依頼を持ちかける。それは、行方不明となった彼女の伯父の過去を探るということであり、えるが古典部に入部した「一身上の都合」に関わることでもあった。
 里志を追い、漫研と掛け持ちで入部した伊原摩耶花(いばら・まやか)を加えて4人になった古典部は、「カンヤ祭」の異名をもつ神山高文化祭で出品する文集の制作に本腰を入れ始める。参考にするための過去の文集を求め、行き着いたのは、かつての古典部室・生物講義室だった。
 現使用団体である壁新聞部の部長・遠垣内(とおがいと)の頑なな態度の意味を奉太郎があばき、古典部文集『氷菓』のバックナンバーは現部員たちの手に渡る。創刊号を欠きながらも、過去の『氷菓』の内容は、えるの伯父の記憶を呼び覚まし、33年前の神山高校であった“事件”を示唆するものだった。
 部員たちは検討する。当時、えるの伯父に、神山高校に何があったのか。
 回り道をしつつも、やがて奉太郎は1つの確信に至る。『優しい英雄』の真相。『氷菓』という表題の意味。
 伯父の記憶を取り戻し、えるは瞳を濡らしながら微笑む。奉太郎は薔薇色と灰色についての考察を深めた。

感想

 既に書いてきた通り、ミステリは幾つか読んできたのだが、その殆どが殺人事件を扱うものだった。いつのまにかそれが当然のように思えており、いわゆる“日常の謎”を扱う類の作品は敬遠していたのが偽らざるところである。本作もそこに属すため、手が伸び難かったのだが、いざ読み始めてみれば、爽やかでほろ苦い作中の空気に引き込まれた。
 そうした魅力の根源は、もちろん4者4様の古典部員たちである。語り手の奉太郎は『省エネ』を旨とした気怠げな少年であり、彼を謎解きに駆り立てるのが、好奇心の塊のような令嬢えるである。「丁重な涼宮ハルヒ」とは、私より先に本書を読了していた知人が、同じKADOKAWA発の作品であることも踏まえて、えるを形容した言葉だが、分からないでもない(当の『ハルヒ』についても、いずれ順番が来たら書くことになる)。

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 ただ、『ハルヒ』の登場人物に比べると、奉太郎にせよ、えるにせよ、少し影がある気がする(影と言えば、本作全体にも感じられるのだが)。2人が喫茶店で待ち合わせて話し合うシーンがあるのだが、2人だけになるとその陰りのようなものがより顕わになるように思う。えるは伯父のことを背負っているので分かるのだが、奉太郎については作中からだけでは窺い知ることはできない。続編が出ているし、いずれ作者の意図が分かる時が来るのだと思う。
 里志と摩耶花の2人も、適度に明晰で善良で、日常の謎を追う古典部に相応しい人物像であろう。描写からしてかなり奇抜な人物に思われる里志だが、奉太郎に対しては何か揺るぎないものを持っていることが窺える。単純な好意一辺倒とも少し違う、男同士の微妙な関係というところだろうか。

 そのような現在の古典部の姿を描きつつ、物語の後半は、33年前の神山高校で起きた事件に焦点が合っていく。作中でも明らかにされているが、この小説が2000年初頭に書かれたことから、これは1968年前後の学生運動の時代の事件を指している。
 この事件の顛末が作品の核心なので詳らかにはしないが、一言で感想を表すと醜悪である。先述した本作全体の影とは、つまりこの事件の陰惨さによる。
 作者は「あとがき」で、この事件を小説として仕上げるに当たり、「デフレスパイラルの模式図」から重要な着想を得たと書いている。具体的な模式図がどんなもので、そこから氏がどう着想を得たのかは分かりようもないが、「当然の成り行きであるかのように、物事がスポイルされていく」という図式がヒントとなったのではないか、と想像する。同じく着想元として挙げられているもう1点、NHK教育のドラマ『サブリナ』の方は、私は観ていないので全く関連が分からないが。

 話を33年前の事件に戻そう。作中に『優しい英雄』という言葉が登場するので、これに倣って事件の構造を言い直せば、『優しい英雄』と『無情なる民衆』という感じだろうか。作者が本作の底流にあると言っている「新聞の地方版にも載らなかったささやかな事件」だけでなく、かの時代にはそこかしこで似たような『優しい英雄』と『無情なる民衆』は演じられていたのではないかと思う。
 神話や伝説上の存在ならばまだしも、生身で『英雄』という称号を受けた者は、寄り掛かられる人々の重みのためにいずれ滅びていく、というのは、なかなかに的を射た説と思うのだが、どうか。

 かように非情な当時の神高生と、特異な能力を持ちつつも『省エネ』でそれを発揮しようとしない奉太郎を許容する現在の古典部は、一つのコントラストを成す。つまりは、神山高校と古典部を通じた、かつてと今の高校生の精神性の対比こそ、本作の構図と言えないだろうか。
 もちろん、現実的には現在の高校生にも(というか、大人の社会にも)『優しい英雄』と『非情なる民衆』は出現し続けているだろう。だからこそ、古典部の面々が湛えるそれとない優しさが、希有なものに映るのだと思う。
 作中では33年前とされている学生運動の時代も、現実の時間軸では既に半世紀前のこととなった。確かに「歴史的遠近法の彼方」へと、万象は去っていくのだろう。

氷菓 「古典部」シリーズ (角川文庫)

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