何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

米澤穂信『いまさら翼といわれても』の感想


(2017年12月読了)

 

 ついに追いついてしまった、〈古典部〉シリーズの最新作に当たる短編集である。まだ文庫版も出ていないので、単行本(上製本)で読んだ。例により、まずは各編のあらすじを記すことから始めよう。

 「箱の中の欠落」。6月のある夜、折木奉太郎(おれき・ほうたろう)は福部里志(ふくべ・さとし)から呼び出され、夜の散歩をすることとなる。当然、里志は意味もなく呼び出したわけではなかった。生徒会長選挙の開票に際して行われた何らかの不正。総務委員会副委員長となった里志は、選挙の立会人として――否、個人的義侠心から、その不正の解明を試み、奉太郎に助力を願ったのだった。選挙管理委員会による、一見厳格にみえる選挙の行程に穴はあるのか。夜の街を歩き、ラーメン屋に立ち寄り、奉太郎の推論は形を顕わにしていく。
 「鏡には映らない」。伊原摩耶花(いばら・まやか)は、漫画制作用品の買い出しの帰り、中学時代の同級生から声をかけられる。それは、彼女に中学での卒業制作と折木奉太郎にまつわる記憶を思い起こさせた。あまり愉快な記憶ではない。
 その年の鏑矢中学卒業生による制作物は、大きな鏡を縁取る、浮き彫りをあしらった飾り枠だった。分担した一片を、奉太郎が手を抜いて作ったため、デザイン担当の鷹栖亜美(たかす・あみ)が大いに取り乱して泣いたのだ。総叩きに遭った奉太郎を、当時は摩耶花も半ば当然という気持ちで見ていたが、今になって考えてみるといささか腑に落ちない。
 真相を知るため、摩耶花は行動を開始する。やがて浮上する、当時の奉太郎が口にした作業を『手伝ってくれる人』、鳥羽麻美(とば・あさみ)。語ることを頑なに拒む麻美が、捨て台詞のように吐いた「逆立ちでもしないと、あなたにはわからない」という言葉を胸に、摩耶花は母校へと足を向ける。その意味を知り、摩耶花は長らくの密かな軽蔑を、奉太郎に詫びた。
 「連峰は晴れているか」。放課後に飛ぶヘリを見て、奉太郎は中学時代の英語教師・小木(おぎ)のことを思い出す。授業中、ヘリが飛ぶのを窓際に寄って見上げ、「ヘリが好きなんだ」と言った小木だったが、里志によれば特にヘリ好きという記憶はなく、むしろ3度も雷に打たれた男として憶えられていた。
 小木の素性に珍しく興味を惹かれた奉太郎と、奉太郎が珍しく興味を惹かれたことに興味を惹かれた千反田える(ちたんだ・――)は、ともに図書館へと向かう。図書館のレファレンスカウンターで分かったことは、奉太郎の予感に合致していた。もう二度と会うことのない人物だからこそ、適当な理解でこと足れりとしてしまうことの意味を、奉太郎は思った。
 「わたしたちの伝説の一冊」。2月。雑誌に投稿していた漫画が努力賞に選ばれ、摩耶花は驚く。
 奉太郎が中学時代に書いた「走れメロス」の感想文に一同あきれながらも、平穏な古典部の日常。しかし摩耶花が所属するもう1つの部活・漫画研究会はそうはいかない。去年の文化祭以降、漫画を“自分も描いてみたい派”と“読むだけ派”の反目が続き、それは3年生・河内亜也子(こうち・あやこ)の一足早い引退で決定的なものとなっていた。一応“自分も描きたい派”に属しながら双方の対立からは距離を置いていた摩耶花は、“描いてみたい派”の中心になりつつある同級生・浅沼(あさぬま)から相談を受ける。それは、秘密裏に“描いてみたい派”で同人誌を制作・配布し、既成事実を作って“読むだけ派”を一掃しようという“クーデター”に参加して欲しいというものだった。
 とにかく漫画を描きたい一心から話を受けた摩耶花は、自分の教室でノートに構想を書くところから始める。しかし、自分と同じく中立的ではあるものの“読むだけ派”のクラスメイト・羽仁真紀が同室しており、なかなか捗らない。そんな中、“クーデター”は“読むだけ派”に露見し、漫研の分裂は避けられなくなる。
 それでも漫画の準備を進める摩耶花だったが、何者かによってノートが盗まれ、怒りに震える。里志の助力を得ながら、摩耶花は考える。ノートは何のために盗まれたのか。漫研はどうなるべきなのか。
 翌日、摩耶花は意外な人物と面会することとなる。それは彼女にとって、とある区切りに他ならなかった。
 「長い休日」。日曜日。いつになく調子が良い(悪い?)奉太郎は、散歩をしようと荒楠神社に赴く。神社の娘で同級生の十文字かほ(じゅうもんじ・――)と会うと、丁度えるも来ていると告げられ、奉太郎は2人とひと時を過ごす。少しばかり責任を感じた奉太郎は、えるが1人でやるという末社のお稲荷様の掃除を手伝うことにする。
 掃除をしながら、えるは奉太郎に訊ねる。『やらなくてもいいことなら、やらない。やらなければいけないことなら手短に。』を、なぜ信条とすることにしたのか、と。
 奉太郎の答えは、彼が小学6年生だった頃の話という形をとる。世の中には、要領よく立ち回って面倒ごとを他人に押しつける人間と、気持ちよくそれを引き受ける人間がいる。鋭敏な彼は、そのことを身をもって知った。
 そんな当時の彼の決心を、姉は優しく認め、今、えるもまた、彼の心に寄り添うのだった。
 「いまさら翼といわれても」。長い梅雨と一学期の終わり。えるは父親から、とある重要事項を告げられた。
 いつもの古典部の部室で、摩耶花が遭遇した異様に甘いコーヒーの謎の話を聞いても、えるの反応は微妙に悪い。不審に思っていた奉太郎だが、夏休み初日、摩耶花から「えるが行方不明」との電話を受け、捜索に乗り出す。
 神山市が主催する、大正時代の地元出身作曲家・江嶋椙堂(えじま・さんどう)の名前を冠した江嶋合唱祭で、ソロパートを歌うはずだったえる。彼女は、会場である神山市民文化会館に着いた後、どこかへ行ってしまった。えると一緒にバスで来たという老婦人・横手(よこて)はそう語る。
 雨と傘と傘立て、里志が持ってきたバスの路線図と時刻表、椙堂による「放生の月」の、えるが歌うはずだったソロ部分。それらから類推した場所へ、奉太郎は向かう。心から信じていないのに称えるのは、なんだか負担だ。それこそが、今のえるに言うべきことだと考えながら。

…先に作品情報的なことを書くと、ここに収められた諸編は、いずれも奉太郎たちが2年生になってからの日々を描いたものではあるものの、必ずしも作中の時間軸に沿って発表されたものではない。巻末(p.354)にある初出一覧によれば、発表された媒体と時期は以下の通りとなる。

  • 箱の中の欠落(「文芸カドカワ」2016年9月号)
  • 鏡には映らない(「小説 野生時代」2012年8月号)
  • 連峰は晴れているか(「小説 野生時代」2008年7月号)
  • わたしたちの伝説の一冊(「文芸カドカワ」2016年10月号)
  • 長い休日(「小説 野生時代」2013年11月号)
  • いまさら翼といわれても(「小説 野生時代」2016年1月号、2月号)

 このうち、「連峰は晴れているか」だけがゼロ年代に発表され(本書中、この1篇だけがアニメーション化されている)、その後に「鏡には映らない」「長い休日」が、2016年に残り3編が発表されたということになる。
 こうした発表のされ方は、近いジャンルで言えば、例えば谷川流氏の「涼宮ハルヒ」シリーズの短編もそうであるし、有栖川有栖氏の「学生アリス」シリーズも同様なので、それほど驚くことではない。ただ、2016年に入って発表のペースが若干アップしたのは、先だっての実写映画化に併せて企まれたか、それをも含んで、本シリーズを盛り上げようという出版サイドの意向があったのではないかと邪推できる。昨秋出た『米澤穂信古典部』もそうした動きの一環であろう。

 無責任に舞台裏を探るような話はその辺りにしておいて、内容に入る。
 語り手としては奉太郎と摩耶花が主で、他2人の出番はほぼない点が少し寂しくもある。ただ、「箱の中の欠落」では生徒会選挙で巻き起こった謎とその解明とともに、里志の気持ちも垣間みられる。『クドリャフカの順番』では奉太郎に対するライバル心を顕わにした里志は、ここでは割と素直に奉太郎に助力を願っている。2年生になり、少し大人になったということだろうか。奉太郎に敗北したというよりも、自分の持ち味を理解したように思え、彼の正義感を応援したくなる。

 そういう男同士の関係や考え方というのは、異性には分かり難いものかもしれない。「鏡には映らない」は、中学時代の奉太郎と里志による、ある意味「ヒーロー」的な活躍を摩耶花が解明するというエピソードである。この話の、特に奉太郎にはダンディズムを感じる。
 「ダンディズム」という語のニュアンスには結構なブレがありそうだが、ここでは「誰にも知られず、誰かのために命をかけること」(忘れてしまったのだが、誰か漫画家が自著の袖ページでそんなことを書いていた)というほどの意味である。『氷菓』以来、摩耶花が奉太郎を邪険にしていたことの説明であり、同時に真相を知った彼女の奉太郎への謝罪も描いている点は、このシリーズにおける小さからぬ転回点でもあると思う。
 また、内容とはあまり関係しないのだが、この話には心に残る一節があった。少し長いが、引用しておこう。漫画や文章を書くことにも、本を作ることにも、もっと引いた視点から見れば、仕事や生活全般にも言えることであろう。

 特別な事が起きたとき特別に張り切るのは、実は簡単なことだ。……(中略)……一方、文集用の原稿をこつこつと書くのは、そうしたお祭り的な心理とは遠いところにある。
 ……(中略)……
「だからふくちゃん、最初に言ったじゃない。ちゃんと聞いてた? わたしちゃんと、『何か面白いこと書いてやろう』だけじゃ完成しないよって言ったでしょ? 計画性の話じゃないの。もちろんそれもあるけど、それだけじゃないの。こういうのはね、面白くも何ともないところも歯を食いしばって書かないと完成しないっていう話なのよ。……」(『いまさら翼といわれても』p.75)

 先述の通りアニメでも描かれた「連峰は晴れているか」は、とある1日を描いた比較的短い1篇。理屈は分かるし良い話だとは思うのだが、私にはもう一つ乗り切れなかったというのが偽らざるところである。
 小木先生が雷に3度打たれたことから、彼のもう1つの顔が明らかになるのだが、他の可能性も考えられるように感じるのが、その一因だろうか。ただ話の核心部分はともかく、図書館まで一緒に行けるはずなのに別々に向かい、それを奇異とも思わない(思っているのかもしれないが表には出さない)奉太郎とえるの素朴な関係には、そうした重箱の隅を突く自分の厭らしさを浄化するかのような力があった気がする。

 「鏡には…」に続いて摩耶花が語り手となる「わたしたちの伝説の一冊」は、『クドリャフカの順番』からくすぶり続けた漫研の抗争について、ひとまずのピリオドを打つエピソードである。
 自分で漫画を描いている摩耶花が語り手となる際には、やはり作者のクリエイターとしての気持ちを代弁する言葉が出てくるように思える。例えば以下の部分などはその最たるものではないだろうか。

「気を遣って描きたいものも描けないっていう、それをやめようって言ってるの。そりゃ嫌われるし恨まれるよ、でも、だからなんなの? 別に殴られやしないでしょ。……」(p.217)

 私の周囲にも、力があると思うのに、現状に忙殺されてなかなか作品を作り続けられない人はいる。そういう人に、この言葉は効き目がありそうだ。結局、やりたいことをやらなければ、人生は詰まらないものになるだろう。私自身も、改めて心に留めておきたい。
 それにしても、組織内での派閥抗争というのは、外から見れば何ということもないはずだが、当事者たちにとっては一大事という点で奇妙である。もちろん規模や影響力は段違いだが、高校の部活でも企業でも本質的には同じだと考えると、なんだか笑いたくなる。
 もう1点、気になったことを付け加える。「今日は一年生は来ていないようだ」(p.148)という一文があるのだが、これは前作『ふたりの距離の概算』の大日向友子(おおひなた・ともこ)を踏まえたものだろう。細部に気を付けてみれば、ちょうど前作と同じ時間軸の裏側を描いたものと知れ、興味深かった。

 本書中、随一の静かな印象を湛えるのは、「長い休日」であろう。作中で語られる過去を別にすれば、奉太郎、える、かほという最小の登場人物に、主たる舞台が荒楠神社という辺りが、そうした印象を抱かせるのだろうか。
 奉太郎の小学生時のエピソードを通じて、“余は如何にして省エネ者となりし乎”が明かされるという構成だが、小学生の頃ではないにせよ、教師や級友の狡さを知る、ということは、確かに私にもあった気がする。その意味では、静けさの中に、ほろ苦いものを有する一篇だと言えるだろう。

余は如何にして基督信徒となりし乎 (岩波文庫 青 119-2)

余は如何にして基督信徒となりし乎 (岩波文庫 青 119-2)

 

 いま現在、私も奉太郎に倣って省エネを信奉するようになりつつあるが、私のこの長い休日も、いつか誰かが再び終わらせる時が来るのだろうか。既にライフスタイルが固まった年代に属していて、奉太郎に比して可能性は低そうだが、その時が来れば是非もないのだろうし、待つともなく待とうかと思う。

 表題作「いまさら翼といわれても」は、この題を見た瞬間、直感的に何のことか分かってしまった点で、素晴らしいタイトルだと思う。いや、分かってしまうというのは、逆にまずいタイトルとも言えるのかもしれないが。
 ともあれ、えるの家に起因する動揺と失踪を、地元の合唱祭と梅雨明けの雨という舞台設定に織り込んだ語りぶりは、綺麗でもあり、得も言われぬ哀しさもあって、本書のラストに相応しい雰囲気だろう。

ああ 願わくは 我もまた
自由の空に 生きんとて (p.311)

 問題となった、えるのソロパートの歌詞は上に挙げた通りである。彼女の境遇はシリーズを通じて描かれている大きなテーマだと思うが、本エピソードの結末をもってそれが完結したとも思えない。彼女なりの「自由の空」を見出す時が来ると信じる。

 前作から今作の刊行まで6年半という時間がかかった。しかし、ここまで読めば、やはり続きが気になるのが人情というものだろう。良質な日常ミステリという意味でも、えるを始めとした古典部の面々のその後を知りたいという意味でも、新エピソードの発表を待ちたい。
 できれば早いに越したことはないのだが、もっと長いシリーズを色々と待っている身からすれば、どうということもないのである。

いまさら翼といわれても

いまさら翼といわれても