何か読めば、何がしか生まれる

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夏目漱石『二百十日・野分』の感想


(2003年11月読了)

 雅なタイトルの比較的初期の作品2編を収録した本である。かつては岩波文庫でも同様に構成された本があったようだが、そちらは現在は絶版のようで、自分が入手し読んだのは新潮文庫版である。

各編あらすじ

 二百十日。剛健な体格で、華族や金持ちの不正に慷慨する圭さんと、小金持ちで小柄な碌さん。2人の青年は阿蘇を旅して、いよいよ阿蘇山に登ろうとする。
 温泉に浸かりながら、圭さんは華族と金持ちに対する怒りを、小金持ちの碌さんへの微かな軽蔑交じりにぶつけつつ、登りたがらない碌さんを説得し、宿の夜は暮れていく。“ビールでない恵比寿”やら、4個中2個を茹でた“半熟卵”など、宿の接客女が出してくるのは不思議なものばかりである。

 翌日、碌さんを説得する形で2人は阿蘇山へ登り始めるが、道に迷い、二百十日の嵐にも遭って、足を踏み外した圭さんは火溶石の流れた後のくぼみに落ちてしまう。風雨の中、碌さんは冷えて痛む腹に耐えながらも、友を救うため力を振り絞る。

 町の宿に辿り着いた2人は、山へ再挑戦するか熊本へ戻るかで、また揉める。それでも、100年の不平を吐き出し続ける阿蘇山の霊験か、2人は、華族や金持ちを打ち倒すことで同意し、阿蘇山への再挑戦も約すのだった。

 「野分」。文学者の白井道也は、大学を出た当初は地方で教師をしていたが、地元の金持ちや権力者に対して遠慮なくその批判をするので煙たがられ、新潟、九州、中国地方と三度も辞職をし、東京に戻ってきた。
 今度は教師になる心づもりもなく、家計のことで妻に文句を言われながらも「江湖雑誌」なる雑誌の編集者や辞典の編纂をしながら自分の著述である『人格論』の草稿を書いて暮している。

 大学を出たばかりの高柳と中野は、方向性は異なるものの小説を書こうという望みが共通していることもあり仲がよく、時おり会って話をする。
 といってもそれは、実家が裕福な中野が、田舎から出てきて貧乏しており学生時代に輪をかけて孤独を深める高柳をつかまえては食事を奢ったりする格好である。
 糊口をしのぐ辛さを話すうち、高柳は田舎の中学校に通っていた頃、他の教師に唆され辞職させてしまった白井道也のことを語り、済まないことをしたと反省する。

 中野の家に、「江湖雑誌」の取材のために白井が訪れる。中野がそのことを高柳に伝えると、彼は件の雑誌を読み、白井のもとを訪れる。自分の考えを皆に広める道のためには孤独を厭わないという白井の言に、高柳は感動する。
 中野は妻を娶り、たった1人の友と疎遠になった高柳は孤独を深め、体調も崩してしまう。
 一方、『人格論』を出版しようとするものの買い手となる本屋(出版社)がつかず、それでも泰然としている夫に業を煮やした白井の妻は、中野の父の会社で役員をしている白井の兄と共謀して、借金の取り立てを演出して夫を教師勤めに戻そうと画策する。

 兄と妻の妨害にもめげず、演説会の檀上に立った白井は畢生の演説をし、青年たちから悪からぬ評価を得る。
 これを聞いていた高柳は勇気付けられるが、彼の体は結核に侵されていた。心配した中野は妻にも促され、高柳に転地療養のための資金100円を用立てる。養生のついでに原稿を書き、快癒の暁に中野に渡すという条件で、高柳はこれを受け取る。
 が、暇乞いに訪れた白井の家で、借金取りに困らされている白井を目の当たりにすると、高柳は『人格論』の原稿を買い取る代金として白井に100円を渡す。そして、自分がかつて新潟の中学で白井を辞めさせるのに加担した元生徒であると告げた。

感想

 「二百十日」は、ほぼ会話文だけで構成された短編である。旅先で山に登りながら社会について考えるというのは、『草枕』(当該記事)や『虞美人草』(当該記事)を思わせる。旅というのは、初期の漱石にとってモチーフにしやすかったのかもしれない。

 圭さんの華族や金持ちに対する怒りを、どちらかというとそっち側に属していると目される碌さんに語る、という割とシリアスな構造ではあるが、なにか呑気な感じが表れているのは、阿蘇という田舎の温泉宿が主な舞台であるが故だろうか。
 宿の女の「○○で御座りまっす」という訛りや、落語みたいなビールや半熟卵のくだりのせいでもあるだろう。
 それでも、クライマックスの嵐の中で、碌さんが「僕だって一人前の人間だよ」と言うシーンは、分量にすれば短いが胸に迫る。華族や金持ちへの義憤を阿蘇山になぞられているところもいいが、立場が違う上に普段は軽口を叩き合う2人の、それでも危機となれば助けようとする友情こそが、この小説の第一の取り柄じゃないかと私は思う。

 この友情は、「野分」でも高柳と中野の間に認められると思う。片や田舎出身の貧乏で片や東京の社長の息子という、微妙な立場の2人だが、少なくとも中野は高柳を切り捨てようとはしていない。
 ただ、高柳の方には自ら殻にこもるようなところがあって、そこはもう少し考えようがあるのではないかと思った。彼の延長線上にいる白井先生についても同じである。

 白井先生は高柳に対して語る時や演説する時はすこぶる立派で、考えていることも私は理解できるのだが、妻に対する時は、やっぱりどうしても情けなさが出ている。妻や兄を、自分より愚であると決めつけているところが、まずいのではないかと思った。
 「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」という諺があるように、誰からも何かを教わることができるというのは、賢者と呼ばれる人の条件ではないかと思う。

 漱石が何を目指してこの小説の人物たちを描いたのかまでは知らないのだが、最終的に高柳は自分を投げ打って白井先生を助けることになったわけで、かつて恩師を辞めさせたという罪の意識が高柳にあったにせよ、つまり“若き同朋を犠牲にして立つ学者”みたいな構図に読めてしまうところが残念である。
 ただ、白井と高柳の関係はぎこちない師弟という感じで好きである。後の『こころ』での「先生」と「私」の関係を思い出したりもする。

 以下、気になった部分を2つほど引いて結びたい。

 世はわが思うほどに高尚なものではない、鑑識のあるものでもない。

  白井が学校を3度も辞めたあたりの文章。「世の中は意外といい加減」というのは、社会人になって1年もしないうちに私も考えたことである。
 表から見ればしっかりしているように見える会社や組織や製品も、裏に回ると意外と適当なことがあって戦慄した。

「空想的で神秘的で、それで遠い昔しが何だかなつかしいような気持のするものが書きたい。……」

 どんな小説が書きたいかと問われた中野の台詞である。ノスタルジックな作品への希望が既に当時にあったということに驚く。この小説が発表された明治40年から見た時の「遠い昔し」とはいつ頃のことで、彼(≒漱石)のノスタルジーはどの辺りのことを指していたのか、 かなり興味深い。

二百十日・野分 (新潮文庫)

二百十日・野分 (新潮文庫)

 

 

 

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