大岡玲『黄昏のストーム・シーディング』の感想
氏の処女作「緑なす眠りの丘を」と表題作の中編2本を収録している。ちなみに氏は大岡信の子息である。だから何というわけではないが。
以下、それぞれ簡単に触れる。
緑なす眠りの丘を
伏せられていた『妹』の存在や、そのために“落ち”始める母と消える父。ガールフレンドの晃子、従兄で実業家の徹との穏やかだがぎこちない交流や、既にもう亡いネーという少女との思い出などが綴られながら、『妹』との別れ、消えた父との対話と復帰、睡さの軽減で物語は終わる。
文章は分かるのだが、全体としては今ひとつテーマが分かり難い。この小説が書かれた1989年の若者が感じていた閉塞感の一類型とか、戦後の経済成長と資本主義への風刺として、やはり読むべきなんだろうか。
帯にもなっている捨子サウルスという言葉よりも、海辺の温泉宿(熱海だろうか?)で父と再会して、いっしょに温泉に入るシーンの方が印象に残った。
何も解決していない気だるさに満ちながらも、安らぎがあるのは温泉というロケーションのせいばかりではないだろう。
黄昏のストーム・シーディング
そこの主である初老の男――元は気象庁勤めの予報名人――に頼み込み、そこで働くことになる。アルバイト2人と、“天気作り”なる異名をもつ初老の男、そして男の娘で事故の後遺症で身体が少し不自由な加代。無菌豚の世話をしながら、加代と交情したり、“天気作り”から「修行」を課せられたりして「ぼく」の夏は往く。
物理・化学・生物と、理科はだいたい兵器に転用される領域で占められているが、天文とか気象といった領域は今のところ(おおっぴらには)兵器には使われていない。
それは、これらの領域が祈りに通じる部分が今なおあるからじゃないだろうか。そんな風に思わされる作品だった。
“天気作り”が豚を評して言った「彼らの欠点はね、私たちの言葉を学ぼうとしないところにある」というくだりはちょっと納得した。仮に言葉を話せる動物がいたとして、人間はそうした動物をどう扱うだろうか。
人間が地球に対する異物であること、それを誰も認識していないことへの違和感というのが、これら2作の根底にあるのではないかと思った。建築(というか都市)に関わる仕事が付いて回るのも、それらが人間が地球に対して為す最大規模の影響だからなのかと。
なかなかのものだが、伝える力が今ひとつかもしれない。それと、翻訳調の文体や「ぼく」の振る舞いは、村上春樹の影響下にある気がする。