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何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

島田荘司『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』の感想


(2004年7月読了)
 夏目漱石を一通り読んだので、彼をモチーフにした作品を読もうと思って手に取った。1900年代初頭、ロンドンに留学していた夏目漱石が、ホームズやワトスンと知り合い、しかも殺人事件の解決に一役買っていたという物語である。
 もちろん創作なのだが、話の中では夏目漱石著「倫敦覚書」と、ワトスン博士の61番目の手記を著者が編集し、一つの話としてまとめた、という設定となっていて面白い。あらすじから記そう。

 ロンドン留学中の夏目漱石は、毎晩のように下宿で幽霊のような声を聴き、下宿を移ってもまだその声が聞こえ神経をすり減らしていく。ベイカー街で個人指導をして貰っているシェイクスピア研究者のクレイグ先生に相談すると、先生は風変りな探偵ホームズを紹介してくれる。
 エキセントリックなホームズとそれを押さえるワトスンのコンビと知り合った漱石は、当初こそ反感を覚えるものの、自身の悩みについて的確にアドバイスした手腕を評価し、彼らの抱える事件の捜査にも協力するようになる。
 その事件とは、妙齢の未亡人メアリー・リンキイがホームズに持ち込んだ、彼女の弟キングスレイにまつわる奇妙なものだった。生き別れた弟と再会したメアリーだったが、離れ離れのあいだ彼は中国にいたらしく、引き取った部屋は中国のガラクタで埋め尽くされた。そんなガラクタのうちのつづらを姉が覗いたことで弟は憔悴し始め、「中国の呪いで自分は死ぬ」と語る。そして実際、弟は密室の中でミイラ状態となって死んでいるのが発見されたのである。
 捜査を進めるホームズ、時に困惑しながらも彼を補佐するワトスン。勉強の傍ら時おりベイカー街を訪れ彼らに加わる漱石。捜査の進捗は漱石の心境にも複雑な波紋を残していく。留学を終えイギリスを去ろうとする漱石に、ホームズが選別を贈った時、残された最後の謎は明かされるのだった。

 トリックは割と単純で、ある程度ミステリを読みなれた読者がよく考えながら読めば、何となく犯人像の想定はできるかと思う。『十角館の殺人』(当該記事)の衝撃が大きかったので、それを思うと小粒という感想は否めなかった。これ自体をオリジナルであるコナン・ドイルによる作品へのオマージュと見るのであれば、なかなか上手くいっていると言えるだろう。
 トリックの模倣に対して文体の模倣はなかなか難しい。1章ごとに話者が漱石とワトスンと入れ替わっていくという構成なのだが、それらの文体模倣に関しては、ワトスンはともかく漱石の方は微妙な感じである。自分が読んだ集英社文庫版の解説では褒めちぎられてはいるものの、ここは福田和也『作家の値打ち』にある否定的な見方に賛同したい。
 例えば、妙に直接話法を多用し、説明臭い文体は漱石のものではないだろう。特に、最後の船出のシーンなどはそれが甚だしい気がする。また、当時は「鬱病」などと言わずに「神経衰弱」と言ったのではないか、など、そういう言葉遣いについての疑問が幾つか挙がった。それと、文体とは直接関係はないが、ある部分でメタ的な発言(作中では1901年辺りなのに1903年についての記述がある)がされている点も気になった。
 しかし、ラストで語られる漱石的な文明論はいかにもで、なかなかに巧いと思わせる。この部分は文体も漱石のそれに近く、現代人の著者が20世紀初頭の漱石の文体を借りて、その時点から現代を逆遡行するという構図が魅力的に感じられる。
 要するにこの小説は、単純なミステリとしてよりも、漱石の倫敦滞在記異聞として読む方が、私にとっては魅力的に感じられたのである。恐らくそれは私が漱石を多く読んでホームズをほとんど読んでいないからだと思う。もっとホームズの方を読んでから再読したら、また感じ方が変わったりするだろうか。
 また、作者も前書きで少し触れているが、同じシーンを重複して語りながらも、漱石サイドとワトスンサイドでは細部がかなり異なっている点も、もう1つの面白味として挙げていいだろう。基本的に前者では漱石が、後者ではホームズが多少格好良く描かれており、特に漱石の方はホームズを相当変人として描いている。
 歴史上の事件なども、こんな風に筆記者によって適宜脚色されてきたのだと思うと薄ら寒い気もするが、本作では微笑ましいレベルだろう。名探偵と後の文豪が惜別するラストは、最後の謎解きもあいまって、なかなかの名シーンだと思う。

漱石と倫敦ミイラ殺人事件 (光文社文庫)

漱石と倫敦ミイラ殺人事件 (光文社文庫)

 

 

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