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何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

村上春樹『1973年のピンボール』の感想


(2003年9月読了)

 漱石読みを一休みして、現在に近い小説が読みたくなったので。村上春樹の2作目である。前作『風の歌を聴け』の直接の続編といっていい内容だ。

 1973年、秋のことである。
 かつて恋人の直子を亡くした「僕」は、大学を卒業し、友人と始めた会社で翻訳の仕事をしている。目が覚めたら自分の両隣に寝ていた双子の女の子と、「僕」は共同生活をすることになる。順調な仕事、双子との穏やかな日常、それにもかかわらず胸を襲う空虚さ。
 一方、「僕」から700キロ離れた街で暮らす友人の「鼠」は、時間の感覚を喪失し、毎夜ジェイズ・バーに通ってはバーテンのジェイと過ごしていた。中古のタイプライターの売買を機に知り合った女性と関係を持っても、心は孤独を深めた。
 不意に「僕」は、かつて「鼠」が熱中し、その後に自らも情熱を注いだピンボール台のことを思い出す。3フリッパーの「スペースシップ」という台だ。仕事もそこそこに、もう一度「スペースシップ」に逢うため、手を尽くして探し出す。
 思い出の「スペースシップ」に辿り着いた「僕」は「彼女」と対話し、お別れの挨拶をする。
 「鼠」はジェイにだけ別れの挨拶をすると、行く当てもなく街を離れるのだった。
 家に戻った「僕」は、双子が耳掃除をしている時にくしゃみをしたために耳が殆ど聞こえなくなる。耳鼻科に行って耳が治ると、ほどなく双子は「僕」のもとを去っていった。

  「僕」と「鼠」の日々が、何ら関連することなく描かれているといった感じだろうか。比率からいうと、恐らく「僕」の物語の方が多いだろう。
 前作はクールすぎて(というか、シニカルすぎて?)あまり好きになれなかった「僕」だが、この小説では冷笑的な印象は薄れて、どちらかというとハードボイルドな感じを受けた。私にはこちらの「僕」の方が好印象である。
 「僕」は仕事も順調(しかも10~16時というホワイト企業ぶり)で、双子の女の子と同棲しているという、充実した日常を過ごしている。対する「鼠」は起きているのだか寝ているのだかも分からない、ジェイのバーで飲むことだけが存在証明みたいな生活をしている。ふとしたことで知り合った女性とデートをするようになるが、それも彼を心底は癒さなかった。
 こう書くと、「僕」と「鼠」の状況が対照的だと言えそうだが、実はこの2人の心境は、あまり変わらないんじゃないかと私は思った。仕事がうまくいっていて家に帰れば2人の女の子がビールを出したり料理をしてくれても、「僕」の心は何かを求めて憂鬱の念を抱いている。大学を辞めて故郷でくすぶる「鼠」の空虚さは言うまでもないだろう。
 「僕」の憂鬱さは、やはり作品の序盤で示される恋人、直子の死によるものと考えるのが自然だと思う。

 この小説の最後まで、この憂鬱さは晴れることがないが、唯一それが薄らぐように思われるのは、終盤「僕」が再会したピンボール台「スペースシップ」と対話するところである(架空のピンボール会社にピンボール専門家によるピンボール小史はこの小説の見どころ(読みどころ?)の一つだが、随一の名場面は、やはりここだろう)。
 郊外の冷たい建物の中、「僕」が「スペースシップ」を「彼女」と呼び、言葉を交わすシーンは、死んだ直子への心情の吐露とも読めて哀しくも美しい。少しだけ引用しておこう。

ずいぶん捜したよ。
ありがとう、と彼女は言う。何か話して。
いろんなことがすっかり変っちまったよ、と僕は言う。
……(中略)……
なんだか不思議ね、何もかも本当に起ったことじゃないみたい。
いや、本当に起ったことさ。ただ消えてしまったんだ。
辛い?
いや、と僕は首を振った。無から生じたものがもとの場所に戻った、それだけのことさ。(文庫版p.157~158)

  また野暮な蛇足を付け加える。
 『風の歌を聴け』で「僕」が帰省し、この小説でも「鼠」が暮らしているジェイズ・バーのある街は神戸らしい。作者の出身もその辺りだし、納得できるのだが、作中に2人の街が700キロ離れている(同p.25)という記述があり、これが気になる。東京から700キロというと岡山あたりまで行ってしまうと思うのだが、どうなのだろう…。

1973年のピンボール (講談社文庫)

1973年のピンボール (講談社文庫)

 

 

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