何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

会田誠『青春と変態』の感想


(2018年11月読了)

 『氷菓』シリーズで青春の光と影を垣間見てきたが、それらがとても綺麗だった反動で、よりドラスティックな青春というものを読みたくなり、この小説に思い当たった。

 著者の会田誠氏の本業は「現代美術家」だが、その修飾語として「取扱注意の」と付されることがままある。本作文庫版の「あとがき」によれば、「露悪趣味アーティスト」という表現を、著者も自認していることになる。
 「あぜ道」という作品は美術の教科書にも載っているほどだが、上に挙げた表紙画「考えない人」や「犬」、「ジューサーミキサー」など、観る者によってはショックを受けるだろう作品が、特に氏の若い頃には多い。媒体は異なるものの、20代後半の頃に書かれたという本作もまた、それに連なるものと言えるだろう。まずはその概要を示す。

概要

 「僕」は、バスの中で『青春と変態』と題したノートを書き始めた。2年生から3年生への春休み、「僕」が所属する県立北高校スキー部は、県内で同じ程度の実力の県立清和女子高校スキー部と合同で、3泊4日の合宿に入ろうとしていた。バスとは、その合宿先である三ツ村温泉スキー場へと向かうバスである。
 ノートに向かう「僕」を、清和女子の湯山美江が興味深く覗き込む。周囲に「文学カップル」と揶揄されつつも、「僕」はミステリアスな湯山にほのかな好意を抱いていることを認めていた。
 この合宿を終えれば、受験勉強の日々が待つばかり。最後の機会とテンションが上がる2年生たちの中、「僕」は誰にも明かさずにいる自らの「変態」性――常習の「女子トイレ覗き」犯であることをノートに告白し、これまでの経緯を綴る。1年すこし前、たまたま拾った写真投稿雑誌に載っていた女子トイレ盗撮写真に、ある種の精神性すら覚えた僕は、覗きの実践を繰り返してノウハウを蓄積し、“理想的な環境”を備えた合宿先のロッジのトイレで覗きをするべく、期待に胸を膨らませているのだ。

 初日の覗きを成功させ満足した「僕」は、その魅力の一端が「現実の人間関係の中に現れてしまった「悪」」ではない「純粋に観念的な「悪」」にあると表現する。彼が覗きを成功させた対象には、見知らぬ女性たちだけでなく、「オールマイティーへの情熱」を有する性格として「僕」が一目置いている同級生・藤田の交際相手で、部内随一の美人である久保も含まれていた。無機的だったり野性的だったりと、覗き見た女性たちの部分に、「僕」は様々な印象を抱く。
 そんな「僕」に湯山は接近し、「文学カップル」もまんざらでない様子を見せる。それを喜びながらも「僕」は、覗き見た映像と久保を重ね合わせたりし、反芻される「悪」の快楽に震えていた。
 風呂で藤田の性器を見ると、そこから湧いてきた種々の疑問に「僕」は困惑する。一方、お調子者の浅野が女子の脱衣所を覗き、男子は清和女子から厳重注意を受けることになった。

 翌朝の朝食後、「僕」は湯山のトイレを覗くのに成功する。それは「僕」の湯山への恋情が本物であることを自覚させ、覗きを止めることを決意させた。
 成立しつつあるもう1組のカップルと「僕」と湯山の4人は、ゲレンデで輝かしいひと時を過ごす。「僕」は、何も知らない周囲にすれば、無害で公正な「相談役」だった。
 夜、「僕」は「健全な男になるためのお勉強」と称し、カップルの覗きを試みる。対象が誰であってもある種の快楽をもたらす覗きは、「僕」に「完全優位な視点」と「完全劣位な視点」が同時に存在して分化していくという、「覗き哲学」を意識させた。
 その直後に接した出来事により、「僕」は合宿中に湯山に告白することを決意する。
 翌日、競技スキーの練習が、己の内の「変態」を溶かしていくかのように、「僕」は感じていた。

 そして、湯山と「僕」は、ゲレンデの上にある山頂に向かう。夕闇の迫る2人きりの頂で、思いは告げられた。

 幾つもの困難を超え、「僕」はやり遂げた。そしてその成果としての「詩」を、最愛の1人に捧げる。

感想

…覗きのシーンの克明な描写に、まずは圧倒される。ただ、あけすけに性器を描写していながらも、エロティックというよりも、湿度の低い無機的な印象を受けるのは、『文学理論講座』(当該記事)で見たような、即物的(ザハリッヒ)に描写する形の異化作用(同書p.51参照)が働いているからだろうか。裏表紙の紹介文に「執拗なまでの観察力と巧みな描写技法」とあるのは、一つにはこのあたりのことを指していると思われる。覗き以外にも、クライマックスで「僕」と湯山が2人で山頂に登った時の風景描写なども、その範疇に含まれるのだろう。

 覗きを描いた特異な犯罪小説ではあるが、一方で、若者たちの好いた惚れたを描いたイージーな青春小説でもある。そして、その両方の側面を持つが故に、それらを対比させた思想を語る小説でもあるだろう。
 特に、覗きという行為についての「純粋な「悪」」(文庫版『青春と変態』[以下、断りがない限り同じ本]p.57)についての考察、それを深化させ、覗きには“神が虫ケラを見る視線”と“虫ケラが神を見る視線”が同時に存在するとする哲学(p.161)は、それ自体が本作のテーマと言える。また、徹底した客観視とドス黒い好奇心の混濁具合が覗きと「まるっきり同じ」だとする新聞記者やコメンテーターの変態性についての考察(p.139)もふるっている。
 作中で一番のモテ男である藤田の有する「オールマイティーへの情熱」(p.62)や、「長すぎる性のモラトリアム」の矛盾(p.155)についての指摘もまた、印象的だった。急な坂では投身自殺に近い前傾姿勢を取ることこそが安全に繋がるという、スキーの「ちょっとラリパッパな」側面(p.185)には、新潟出身の作者の実体験が反映されているのだろう。学生の頃に3度ばかりゲレンデに立っただけの私には、目から鱗の考え方だった。

 ただし、確かに作中の「僕」の名前は「会田」ではあるものの、以上の描写や考察が、全て作者の体験に基づいていたり作者の意見そのままである、という考えは恐らく間違っているだろう。
 そのことは、「あとがき」の「だからと言ってこれが、私小説や告白小説と呼ばれることにはかなりの抵抗を感じます」(p.243~244)という辺りを引くまでもなく、作中一の美人である久保の命名が、当時作者が住んでいたらしい文京区の下宿「久保荘」からなされたであろうことを傍証として挙げるでもなく、作品の結末を見れば何より明らかである。
 結局「僕」が覗きについて抱いていた、一つの美学は崩壊した。「僕」も湯山さんも、ただの少年と少女だった。
 そういう崩壊をもって青春の終わりというのはなされるのだ、と言うために、本作は周到に企まれた虚構である。そのように私には感じられた。

 最後に、毎度のようでもあるが、本作中で言及された作品などについても書き留めておきたい。
 まずは、『青春と変態』というタイトルの由縁として「僕」自身が挙げているものに太宰治の「正義と微笑」がある(p.9)。しかし、巻末に付された、現代美術家松蔭浩之氏による「回想『青春と変態』」によれば、漫画『愛と誠』の影響だとされている。付け加えるなら、松蔭氏は会田氏に太宰治を重ね、自身を太宰の処女出版『晩年』(当該記事)刊行のために奔走した檀一雄を重ねていたようで、本作の成立には太宰が小さからぬ役割を担ったように思う。
 その他、「僕」が覗きをやり過ぎて飽いた気持ちを芥川龍之介の『芋粥』になぞらえてみたり(p.77)、物語最後の清涼感についてトマス・マンの『トニオ・クレエゲル』との類似を言ってみたり(p.237)と、純文学的なものへの言及が、本作に奇妙な厳粛さを与えているようにも思う。覗きという「低俗な変態」行為を、そうした伝統的な教養に接続するという「露悪趣味アーティスト」ならではの手法なのかもしれないが。
 また、脱衣所で浅野が女子を覗くシーンでは、映画『グローイング・アップ』への言及がある(p.106)。1978年・イスラエル製のお色気青春映画だという同作は、本作とは似て非なる、つまり“浅野的メンタリティ”が現れた作品なのだと推察する。機会があれば観てみたい。

 書き連ねたが、一言にまとめれば、冒頭の「よりドラスティックな青春を描いた小説を読みたい」という私の希望は、充分に叶えられたと言えるだろう。
 本作の後も会田氏は幾つかの本を書いているが、小説は無いようである。画業においては、初期のような作風から移り変わってきているものの、近年のインタビューなどを読めば、氏が形を変えた野心を持っているのが分かる。いま小説を書いたらどんなものができるのか、気になるところではある。

青春と変態 (ちくま文庫)

青春と変態 (ちくま文庫)