何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

亀井秀雄 監修/蓼沼正美 著『超入門!現代文学理論講座』の感想


(2018年11月読了)

 書棚にあったものを、掃除の片手間にふと手に取り、読んだ。本書が属する「ちくまプリマー新書」は、主に高校生程度の読者を想定したものだが、入門書として大人が読んでも差し支えないものが殆どであろう。
 内容としては、4つの現代文学理論を解説し、ひいては「主人公の気持ちにピタッと寄り添」うことが規範とされている(本書p.8)らしい、学校における国語教育に一石を投じたもの、と要約できそうである。ここでいう「現代文学理論」とは、20世紀になって登場してきたものという理解でよさそうだ。
 大学は文学系の学部だったくせに、こうした理論を概説するような授業はあまり受けなかった。そのため、ここに収められた理論が、今日の文学研究においてどれほどの評価を得ているか、それら以外の理論がどれだけ存在するのか、という問いには今のところ私は答えられない。
 ただ、このブログ(『何か読めば何がしか生まれる』)が、物語や読書というものに関わったものである以上、その辺りに完全に没交渉というのも不甲斐ない。3年以上も続けておいて今更ではあるものの、何か得られるものはあるだろうと思い、読み進めた。まずは以下に概要を示したい。

概要

第一講 当たり前が当たり前でなくなる瞬間――〈ロシア・フォルマリズム
 谷川俊太郎の詩「わたし」には、都々逸(例えば「月は十五で/円くはなれど/主の心は/まだ四角」)のような、言葉の物質的な構造を追求した面白さがある。そのような、言葉の構造のみに目を向け、それ以外(作者の来歴や社会的背景など)は無視する研究態度を、旧ソ連の提唱者たちにちなんでロシア・フォルマリズム形式主義)と呼ぶ。

 小学校の教材にもなっている谷川俊太郎の別の詩「いるか」もまた、純粋に「言葉だけで」試みられた詩である。しかし国語教育の現場では、定型的な(父権主義的な?)読みばかりが薦められている。
 ロシア・フォルマリストが関心を寄せたのは、対象を日常から切り離した時に生じる――「泉」で有名なマルセル・デュシャンの言った「レディ・メイド」のような――「異化作用」だった。小説の領域では、伊藤整の『機構の絶対性』にも同種の試みがみられる。

 「異化作用」の目的とは何か。フォルマリズムの提唱者の1人である旧ソ連の文芸評論家ヴィクトル・ボリソヴィッチ・シクロフスキーによれば、それは、当然のものとして見過ごしてきたもの(日常/認識)を再検討し、知覚や意識を覚醒・活性化させる(非日常/見ること)ことである。

 どのように「異化作用」を引き起こすか。一つには、知覚への衝撃を与えること(対象の極端な拡大・縮小、即物的(ザハリッヒ)な描写、なぞなぞ、など)がある。野間宏の『暗い絵』のような執拗な描写を塗り重ねる文体や、白岩玄の『野ブタ。をプロデュース』のタイトルの「。」なども「異化作用」をもたらす手法と言える。
 〈テクスト〉を読む際に「当たり前」に「認識」するのではなく、立ち止まり再検討する「異化作用」的な読み方は、新たな可能性を拓く可能性を持っている。

 現代では「異化作用」が一般化され、奇を衒うような作品が量産されている。この在り方自体を「異化」する必要がある。ロシア・フォルマリストは、芸術の刷新は、前時代の手法の再発見という形をとると考える。流行が繰り返すように、「異化作用」の新奇さも繰り返すということになる。

第二講 辞書にも文法書にも載っていないことばのルール――言語行為論
 イギリスの哲学者ジョン・ラングショー・オースティンは、著書『言語と行為』で〈言語行為論〉を提唱した。これは、従来の言語哲学から取り落とされていた、「真」や「偽」に分類されるのが適当でない、日常の中での言葉に着目したものである。例えば「この船は『エリザベス号』と言います。」という発言(〈事実確認的発言〉)は、その真偽を問題にするが、「私は、この船を『エリザベス号』と命名する。」という発言(〈行為遂行的発言〉)は、それが社会的に妥当であるかという適切さを問題とする。
 アメリカの言語哲学者ジョン・ロジャース・サールは、オースティンの考えを継承し、日常的な言葉(例えば「塩を取れますか?」のような)の「場面」と「意図」について研究した。

 オースティンは発話による行為を3つに分類した。発話行為(発話する行為そのもの)、発話内行為(発話することで行われる発話以外の行為)、発話媒介行為(発話の結果、相手に対して間接的に作用する行為)である。このうち、発話媒介行為のみが、相手によってその内容が異なる(同様に「明日行きます」と言っても、喜んだり困ったりする)ことになる。

 サールは、「試合に勝った」や「結婚した」など規則や法律など人為的なものによる事実を「制度的事実」と呼び、「満月だった」「鳥が鳴いていた」など制度を前提としない事実を「生の事実」と呼んだ。このうち「制度的事実」は、その場に相応しい「話題」や「用語」などを規定する「言説規則」により、知らず統制されている。

 サールはまた『言語行為』の中で、規則を2つに分類している。1つは行為に対して一定の秩序を与える「統制的規則」、もう1つはスポーツやチェスのルールのように競技を統制すると同時にそれを行う可能性を創造する「構成的規則」である。先述の「制度的事実」とは、この「構成的規則」を前提とした事実だと言える。

 以上のような考え方に基づけば、芥川龍之介の「羅生門」は、「統制的規則」が失われた世界で、下人が老婆にその事実を突き付けられる物語ということになる。
 痩せ衰えた老婆が、自身の行為を詰問した下人に期待したのは、「弁明/免罪」という「言語規則」だった。が、老婆の言葉を受けた下人の「発話媒介行為」は、彼女にとって好ましくなかった。
 「統制的規則」が失われたと悟った下人の行動は、日常的な会話というものを規定する「構成的規則」の喪失すら示しており、その日常言語の全面的な崩壊が読者にショックを与えるのである。
 このように、言語行為の視点からテクストを読むことで、登場人物の心理を考えるだけでは至らない読みを開拓することができる。

 オースティンの言語行為論は日常会話を対象として考えられたものであり、小説など虚構の会話を想定されてはいない。しかし、虚構に応用することで、テクストの有効性と、言語行為論の有用性を確認できる可能性がある。
 言語学者時枝誠記は、言語的表現行為が「場面」によって制御されていると主張した。それによれば、下人は相手が老婆という「場面」に接したからこそ、ああした発話を行ったと言える。劇的である分、日常会話よりも虚構の方が理論の表れを捉えやすいことがある。

第三講 読むことのダイナミズム――〈読書行為論〉
 宮澤賢治の「茨海(ばらうみ)小学校」は、“読者は作品という情報の受け手”という読者イメージを改めるのに格好の作品である。
 同作は、農学校の教師である「私」が火山弾の標本や野生の浜茄子を見つけるために出かけた、茨海の高原で遭遇した出来事を描いた作品。高原で「私」は、茨海狐小学校という狐の学校に迷い込む。狐の校長先生に会ったり、午後の課業を見学したり、せっかく見つけた火山弾を強引に寄付させられたりし、混乱して帰ってきたところで物語は終わりを迎える。

 物語が語られるためには、「語り手」が不可欠であり、「作者」と「語り手」はイコールではない。また「語り手」による物語には、「始まり―中間―終わり」という基本構造がある。
 「語り手」と同時に、物語には読者とイコールではない「聞き手」も存在する。「茨海小学校」の「私」も夏目漱石の『坊っちゃん』の「おれ」も、読者ではない「聞き手」を内包して物語っている。
 そうした物語の対話的(dialogic)な有り様に対し、国語教育における〈読書行為〉とは語られた内容の理解が第一であり、「読者」は一元的なものとされてきた。が、「茨海小学校」が示すように、読者は「語り手」「読み手」「狐」といった立場を行き来して作品を理解する、創造的な読み手であることが可能なのだ。そうした〈読書行為論〉を提唱したのがドイツの文学研究者ヴォルフガング・イーザーである。
 「茨海小学校」の「私」が不思議な音や声に引き摺られて狐の学校に迷い込んだ様は、読者が物語に没入していく様に重なる。「いつかどこかで聞いた」種々の物語の経験によって、読者は物語を予期しているとも言える。

 〈テクスト〉を読むことで、読者はその世界に対する「期待」を生み出していく。ドイツの文学者ハンス・ロベルト・ヤウスはそれを〈期待の地平〉と表現した。
 「期待」を生み出す要素としては、作者・作品の情報、本のタイトルや装丁、広告や書評、書店のどの棚に置かれているか、などがある。「期待」は、物語が進むごとに絶えず変容していく。そのような一般読者としての読みが第一で、研究者のために〈テクスト〉があるわけではない、とヤウスは主張している。

 ポーランドの哲学者ローマン・ヴィトルド・インガルデンは、作品に“書かれていないこと”を〈不確定事項〉と名付けた。これに対しイーザーは“書いてあること”の繋ぎ目に生じる、納得し難かったり疑問に思われるところを〈空所〉と名付け、これを自分の経験や想像力で埋めようとする読者を〈内包された読者〉と呼んだ。読者の自然な「期待」を裏切り続け、「わな」や「正直」という言葉の意味を揺らがせ、物語の終点の複数性も示す「茨海小学校」は、読む者に物語に対する積極的な関わりを誘発する。〈内包された読者〉を意識させるテクストである。

 〈読書行為論〉は「読者」による自由な読みを認めるが、無秩序な誤読までを認めているわけではない。その点では理想論的ではあるが、これまでの社会の中でどのように「読者」が形成されてきたかを探る切っ掛けとして今日的な意義がある。
 ロラン・バルトは「作者の死」と言ったが、それでも今日も作品を作者に還元する読み方は廃れていない。本当に意味で「作者は死んだ」のか、それはまだ確かめられていない。

第四講 物語の構造(カラクリ)を知る――〈昔話形態学〉
 旧ソ連の昔話研究家・民俗学者であるウラジミール・ヤコブレヴィチ・プロップは、『昔話集』(アレクサンドル・ニコライェヴィチ・アファナーシェフ編纂)に収められた「魔法昔話」100篇あまりを分析し、共通した31のパーツ――〈機能〉から成り立っているとして著書『昔話の形態学』にまとめた。31の〈機能〉とは、以下のものである。

1.家族の成員のひとりが家を留守にする/2.主人公に禁を課す/3.禁が破られる/4.敵対者が探り出そうとする/5.犠牲者に関する情報が敵対者に伝わる/6.敵対者は、犠牲となる者なりその持ち物なりを手に入れようとして、犠牲となる者をだまそうとする/7.犠牲となる者は欺かれ、そのことによって心ならずも敵対者を助ける/8.敵対者が、家族の成員のひとりに害を加えるなり損傷を与えるなりする/8-a.家族の成員のひとりに、何かが欠けている。その者が何かを手に入れたいと思う/9.被害なり欠如なりが(主人公に)知らされ、主人公に頼むなり命令するなりして主人公を派遣したり出立を許したりする/10.探索者型の主人公が、対抗する行動に出ることに同意するか、対抗する行動に出ることを決意する/11.主人公が家を後にする/12.主人公が(贈与者によって)試され、訊ねられ、攻撃されたりする。そのことによって、主人公が呪具なり助手なりを手に入れる下準備がなされる/13.主人公が、贈与者となるはずの者の働きかけに反応する/14.呪具(あるいは助手)が主人公の手に入る/15.主人公は、探し求める対象のある場所へ、連れて行かれる・送りとどけられる・案内される/16.主人公と敵対者とが、直接闘う/17.主人公に、標がつけられる/18.敵対者が敗北する/19.発端の不幸・災いか発端の欠如が解消される/20.主人公が帰路につく/21.主人公が追跡される/22.主人公は追跡から救われる/23.主人公がそれと気付かずに、家郷か、他国かに、到着する/24.ニセ主人公が不当な要求をする/25.主人公に難題が課される/26.難題を解決する/27.主人公が発見・認知される/28.ニセ主人公あるいは敵対者(加害者)の正体が露見する/29.主人公に新たな姿形が与えられる/31.敵対者が罰せられる/31.主人公は結婚し、即位する

 上記のように、物語の構造と機能について分析したプロップの研究は、登場する動物の民俗学的研究に終始してきた、当時の昔話研究に対し画期的だった。第三講の〈期待の地平〉についても考える手掛かりとなる。

 アニメーション映画『シュレック』にも日本の『古事記』にも、プロップの言う昔話の機能を見ることができる。後者の「因幡のウサギ」のエピソードでは「29.主人公に新たな姿形が与えられる」機能が登場するが、鈴木三重吉福永武彦による2つの現代語版『古事記物語』では、原文での意図が汲み取られておらず残念である。

 プロップの理論と同様の見方に至った例として、児童文学者の瀬田貞二が挙げられる。瀬田は物語を「「行って帰る」ということにつきる」とした。確かに、『竹取物語』も『羅生門』も森鴎外の『舞姫』も、これに該当する。漫画原作者・批評家の大塚英志も瀬田の考えに関心を抱き、「行って帰る」と「欠如」と「回復」が、物語の最も基本的な文法である、とした。
 これらを総合すれば、物語とは「行って帰る」こと――「移動」によって、何らかの「変化」が起こるもの、と言える。映画で言えば、『シェーン』『ローマの休日』『男はつらいよ』にも見られる。ただし、『男はつらいよ』の寅次郎においては、フーテン生活が彼の日常であり、浅草に帰る方が非日常である点に注意したい。
 このような、物語を構造と機能で捉える考え方は、創作の理論としても有効である。どんな物語も「基本は同じ」という発想に、主に文学の立場からは抵抗もあるが、ゲーム・アニメーション・映画などの領域では注目されている。
 「移動」と「変化」に着目して中島敦の『山月記』を読めば、李徴の旧友である袁傪の物語として読むことも可能となる。

 文学理論は、読者の感性を相対化し、作品の多様な魅力について自由に考えることを可能にする。また文学以外――歴史や社会学、法学――の領域に拡張される可能性も示されており、言葉が創り出す種々の世界を読み解くツールとしても期待される。

感想

 理解するのに割と骨が折れそうな理論でも、分かりやすく書かれていると感じた。「煙たい」「読みにくい」「面白くない」という、文学や理論に対して起こるだろう拒否反応を、当然のものとして受け容れたところから始める執筆態度のためだろう。
 とりわけ、各章の導入として置かれた黒衣(くろご)による「講座のためのウォーミングアップ」は、理解を助けてくれる。本の記述は、この黒衣氏(≒著者の蓼沼氏)がアシスト役、カメイ先生(≒監修の亀井氏)が講師という役回りで進行していくのだが、両者の関係を「からくり」だとする説(p.13~14)が最初に提示されており、この本自体が1つの手の込んだ物語であるかのような楽しさを演出している。

 先に全体的な感想を一言でいうと、「そういうことも言えるかもしれないね」ということになる。否定的な意味ではなく、それくらいの距離感が好ましいと思うからである(もしも、ここで提示された読み方が強制されるのなら、“主人公の気持ちに寄り添う”式の読み方を至上主義とするのと大差がない)。個別の理論ごとに雑感を記したい。

 第一講はロシア・フォルマリズムについて。形式主義というと“組織の形骸化”を語るような文脈で否定的に用いられれがちだが、ここではポジティブな意味で用いられている。谷川俊太郎氏の詩や都々逸などが例として提示されており、特に詩にはこうした傾向の作品が相応にあるのではないか、と思われる。
 フォルマリズムとは少し違うのかもしれないが、入沢康夫氏の「キラキラヒカル」という詩を思い出した。江國香織氏の小説『きらきらひかる』のタイトルの元となった詩である(同書の感想でも少し触れている)。

 後半は、ロシア・フォルマリズムから離れ、フォルマリストたちが意識したという「異化作用」の話になっていく。
 私の家にいる猫は、普段何の頓着もなく日当たりに出した座布団に寝ているが、ときおりその座布団に対して恐る恐る前足を伸ばして触れているのを見かける。日常で見過ごしている事物に対し、急に不安を抱いて再確認しているのだとすれば、その際の座布団は、猫にとって「異化」されているということになるのだろう。
 ただ、現在もフォルマリズムが「異化作用」をもたらしているのか、という点については疑問が残った。章末尾にある「エクストラ・イニング」でも関連するQ&Aが展開されているが、つまりフォルマリズムにおける「異化作用」とは、その新奇さによるところが大きかったのだと思う。だとすれば、「フォルマリズム」が論として広く流布されれば、その「異化作用」は減じていくということに繋がるだろう。
 「フォルマリズム」だけでなく、「異化作用」をもたらす全ての方法についても、それは言えそうである。芸術の目的の1つが「異化作用」による日常の再検討であるのなら、「異化」をもたらす新手法の模索には、相応の労力が注がれるだろう。著者らは「祖父の世代の手法の復活」(p.62)に希望を見出しているようだが、それが妥当であるかは判断がつかない。さらに、そうまでして「異化作用」が突き詰められなければいけないのか、という点も要検討であるように感じた。

 4つの文学理論の中で、他と毛色が違うと感じたのは、第二講の言語行為論である。文学ではなく、恐らくはむしろ言語哲学に近いということもあるし、この理論だけが“作品”ではなく“言語”を対象としているためだろう。
 とはいえ、それはそれで興味深く感じた。「制度的事実」と「生の事実」、「統制的規則」と「構成的規則」といった用語は、漠然と感じていたことを明確化された思いである。
 後半はそうした要素を用いて『羅生門』を解釈していくのだが、これはいささか苦しいのではないだろうか。この章の「エクストラ・イニング」でもその点に言及があり、論の補強がされているが(p.107~110)、日常生活上での言語行為論を、虚構である小説にそのまま適用してよいか、という議論はあるべきかと思う。

 言語行為論と名前は似ているが、第三講の読書行為論は逆に虚構――書物と読者の関係に特化した理論である。宮澤賢治の「茨海小学校」を教材に、読者が物語を読みながらリアルタイムに「読書」という行為を作っていくことを示している、と要約されようか。
 ちなみに「茨海小学校」は青空文庫でも読むことができる(宮沢賢治 茨海小学校)。本書の中で概要は充分に説明されているが、やはり一度通読しておくと理解が深まるだろう。

 読者は、物語を読み進めながらその先を「こうなるのでは」と「期待」し、その結果が分かると、次の「期待」を構築していくという説からは、運転免許を取る時に教則本で見た「認知→判断→操作→認知……」という模式図を連想する。実際、物語に巻き込まれ分け入っていくというのは、乗り物の運転のようなものなのかもしれない。
 読者にこうした「期待」を促す「期待の地平」は、本の中に限らず書店や広告の類によっても広がるために、全く何の前情報も得ずに本を読み進めることは不可能だ、とされる。
 少し昔、ハードカバーの小説などには、帯もあおり文もなく、どういう話なのか、あるいは本当に小説なのかも分からずに手に取る本というものが幾らかはあった。しかし帯が標準装備のようになった感のある昨今では、「新しいもの」として本を手に取ることは、ますます難しくなったと言えるだろう(このブログもそうだが、ネット上には本の感想が夥しく蓄積されているだろうし)。

 それが悪いと本書は言っていないし、私も同意だが、少しも「新しいもの」として新刊を手に取ることができないのは、やはり少し寂しい気もする。せめて不可避的に目に触れることになる、帯や裏表紙やポップなどには多少の配慮が欲しいところである。
 話がずれたが、積極的に内容に関わっていくとする「内包された読者」というスタイルは、読書において有用だろうと思う。常に、というわけにもいかないだろうけれども、そういう読書を重ねていきたい。

 最後の昔話形態学は、本書に収められた文学理論の中で、私にはもっとも興味深く感じられた。物語を機能(要素)レベルに分解し、その普遍性を探るというのは、編集という作業とも地続きな気がする。ロシアの昔話に限定せずとも、例えばオルフェウスの冥界下りとイザナギノミコトの常世下りに相当数の共通点があることなどは、少し神話に興味のある人には頷けることだろう。
 この考え方を押し進めれば、近代文学や90年代トレンディドラマ、あるいは『週刊少年ジャンプ』の連載漫画などから要素を抽出し、また新しい物語を作り出す手掛かりにできるのかもしれない。少なくとも私の試みた限り、それらの物語にもプロップによる31の機能は確かに垣間見られる。
 恐らくは、既にそういった試みはなされているのだろう。プロップの論を承けたものか、あるいは全く別個に発明されたものかは分からないが、本屋の一角に置かれた、いわゆる「漫画の描き方」的な手引き書の類には、物語を要素レベルに分解して解説しているものもある。キャラクターについても同様の切り口で考えるところに、プロップから更なる進化を見られるだろうか。

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 第四講の後半では、プロップと同じように物語のパターンを見出した例として瀬田貞二氏の「行きて帰りし物語」論が紹介されている。が、こちらにはプロップのものほどの普遍性はないように思われた。
 なるほど、種々の神話やファンタジー、「舞姫」や「羅生門」、映画『ローマの休日』などは「行きて帰りし物語」と言えるだろう。しかし、『男はつらいよ』をそこに結びつけるのは少し牽強付会ではないだろうか。
 そこは譲るとしても、『吾輩は猫である』などはどうか。あるいはもっと時代を下って、いわゆる「日常系」のような漫画などはどうだろうか。そこには必ずしも「行って帰る」が伴わない物語があるように思う。
 その意味で、瀬田氏の論そのままではなく、「欠如」と「回復」が物語の基本形とする大塚英二氏の説(p.208)を私は支持したい。

 以上4つの文学理論、細かい疑問は色々とあるが、それも含めて刺激のある読書となった。私が応用できそうなのは、特に読者行為論と物語形態学あたりかと今は感じているが、有形にせよ無形にせよ、好影響があればよいと思う。

 本書の根底には、学校教育における“主人公の気持ちに寄り添う”式の読み方へのアンチテーゼがあるわけだが、そうした読み方も全否定されるべきではないだろうし、本書でもそれが目指されているわけでもない。要するに、学校教育においてそれが唯一の読み方であるかのように指導されるのがまずい、というのが著者および監修者の思いだろう。その思いには、ある程度は頷ける。
 ただし、学校教育は評価をして成績表を出さなければならないことになっている。“色々な読み方”が許容されるとして、ではその読み方の妥当性は誰が判断するのか、ということを考えると、残念ながら現状では“主人公の気持ちに寄り添う”式一本となってしまうのも、やむなしとも思う。学校ではなく他の場で、本書のような読み方を教えられればベストなのだが。

 以下は、例によって枝葉末節である。本書を読みながら気になった書籍、言葉や表現などを拾いたい。

 内容の性質上、文学作品が多く登場する。そこから今後の読書に加えるものを1点だけ挙げるとすれば、伊藤整の『機構の絶対性』としたい。本書中で紹介されている「異化作用」もさることながら、ここからどういう物語が展開されていくか、気になる。現在は全集で読む他なさそうで、手軽でないのが残念ではあるが。

伊藤整全集〈1〉 (1972年)

伊藤整全集〈1〉 (1972年)

 

 言葉についてはまず、「テクスト」と「テキスト」という言葉の使い方に明確な違いがあることが示されており(本書p.17)、長年の不明が晴れることになったことを挙げる。「テクスト」は、恐らくロラン・バルトが創始した用語なのだろう。
 私が通った大学の文学系の教師は確かに「テクスト」と言ったりしていたが、それを聞く度、なんだか無理に原語的な発音をしているようで、気恥ずかしく感じていた。しかし本書によれば、「テクスト」という言葉にはそう呼ばれる経緯(織物[texture])があり、単純な「テキスト」とは明確に違うということのようである。それが分かったことで、以後しかるべきTPOには、照れずに使える気がする。

 気になった表現としては、「ひとり○○」というものがある。例えば以下のような感じで用いられている。

そしてそれはひとり〈文学テクスト〉の読みにとどまらず、私たちのものの見方や考え方をも、やがて豊かなものに変えていってくれるに違いありません。(p.102~103)

まさにプロップの研究は、ひとりロシアの昔話にとどまらない、広く適用可能な文学理論だったわけですが、……(後略)……(p.203)

 こうした表現に出会うのは本書が初めてというわけではないが、漠然と「人間以外の事柄を対象に使うのは何かの誤用ではないか」と考えていた。しかし本書では国語教育に近い著者たちが用いているため、本当のところ表現として妥当なのか、確認しておくことにした。
 結論を言うと、正しい表現のようである。辞書を引くと、「ひとり」の副詞的用法として「(打ち消しの語を伴う形で)ある物事だけに限らないことを示す」とある。「ひとり……にとどまらない」で1セットのような表現ということになりそうだ。

 最後に、単純な誤植を1つ見つけたので、蛇足ながら記しておく。p.66、ジョン・ラングショー・オースティンの生年「一九九一」は「一九一一」の誤りだろう。手元にあるのは2015年10月の初版第1刷なので、その後修正されていることと思う。

超入門!現代文学理論講座 (ちくまプリマー新書)

超入門!現代文学理論講座 (ちくまプリマー新書)