何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

夢野久作『ドグラ・マグラ 下』の感想


(2004年12月読了)

 

 危惧したとおり、上巻からだいぶ間があいてしまったが、角川文庫版『ドグラ・マグラ』下巻である。上巻と変わらず(上巻にも増して?)、米倉斉加年氏による表紙絵はインパクトがある。
 それにしても、この表紙絵の女性が誰なのかという疑問がある。本作の一応のヒロインであるモヨ子とは思えないし、呉一郎の母である千世子からイメージを膨らませたものかもしれない。もっとも、内容とは特に関係が無い可能性も高そうである。
 ともあれ、まずは概要を記す。

概要

 空前絶後の遺言書(上巻から継続)
 呉一郎が殺した許嫁、呉モヨ子を検分していた若林は、彼女が仮死状態にあることを確認、別の少女の遺体と入れ替えてしまう。戸籍から抹殺された呉モヨ子は、若林の手に落ちた。
 その1週間後の大正15年5月2日。若林は正木の研究室を訪れ、実母と従姉妹を殺した一郎の精神鑑定を依頼する。心理遺伝を利用した一郎の殺人の引き金となった絵巻物を、彼に見せたのが誰なのか、それを探る切っ掛けになるというのだ。
 資料として若林から手渡された幾つもの書類からの抜粋を、自らの論文「心理遺伝論」の附録にしようと考えていたと語る正木は、その要約を記していく。

 心理遺伝論附録
 大正13年4月。呉一郎が母・千世子を殺したとされる、第1回の発作について。呉一郎自身による、母子の来歴と事件の顛末についての話。千世子の姉で一郎の伯母にあたる八代子の話。千世子の通った女塾主の話。それらについての若林の見解。
 これらを総合し、正木はこの事件を第三者による犯罪であるとする説を退け、一郎の「心理遺伝の発作」によるものと判定する。その推察は、事件当夜、呉一郎は性的衝動にかかわる夢遊状態となり実母を絞殺、死体を翻弄し、さらには変態心理の窮極である自己虐殺・自己の死体幻視の夢遊に至って被害者の死体を吊り下ろしたのだとする。また、資料の談話中から正木は、呉家がその血統に何がしかの悪評または忌むべき遺伝的形質を伝えており、それを八代子・千世子姉妹は充分に認識していたことを疑う。
 大正15年4月。呉一郎が、その従姉妹に当たる許嫁モヨ子を殺したとされる第2回の発作について。呉八代子の家の雇われ農夫が語る事件の顛末。一郎の発作の原因となったと目される巻物を秘蔵していた、呉家の菩提寺である如月寺の縁起。その現住職の話。娘を失い半狂乱に陥った八代子の話。
 その記憶から事件の真相を引き出すとして呉一郎を引き取った正木は、解放治療場でひたすらに鍬を振るい、その理由として「女の屍体が埋まっている」と語る一郎を満足げに観察する。一郎には、件の巻物のモデルとなったらしき古代の婦人に関わる心理遺伝が発現していた。


 資料に目を通し終わった「私」は、声をかけられて我に返る。と、声をかけたのは、死んだはずの正木だった。
 諧謔混じりに正木は語る。今日は大正15年10月20日であり、自分が自殺したというのは若林の嘘だと。昨日に当たる10月19日正午に、解放治療場で一大事変が勃発したと。若林は、正木の研究を自らの名声を高めるための踏み台にし、自分を悪役に仕立て上げようとしており、自分はそれを阻止して逆に若林に一杯食わせようとしていると。そして、今度は自分が「私」の記憶を取り戻す実験をする、と。
 「私」は自分が呉一郎本人か、あるいはその双子ではないかと疑いだす。正木もそうと思われるようなそぶりを見せるが、確定的なことは口にしない。ただ六号室の少女と「私」を娶せようとする考えは、正木・若林ともに共通している様子をみせる。

 正木は、呉一郎に事件を起こさせる引き金となった絵巻物を取り出すと、それを「私」に見せながら説明する。およそ1100年前、唐の玄宗皇帝に仕えた才気煥発たる青年絵師・呉青秀と、その新妻・芳黛の鬼気迫る顛末。黛の双子の妹である芬の辿った数奇な運命。それらから生じた一巻の絵巻物――モヨ子と瓜二つの芳黛が描き出された――は、呉家の由来を明らかにするとともに、同家の男子にのみ現れる異様な「心理遺伝」の性質を示すものだった。
 正木は、心理遺伝にかられた呉一郎の治療について自信があると言い、また「私」自身が真犯人ではないかという疑いに対してはこれを一笑に付すが、真実を教えて欲しいという「私」の願いは言下に拒絶すると、理屈と脅しで「私」の行動を押さえつけにかかる。
 押し問答の最中、正木は犯人は自分だと言い出し、自分と若林との、一郎の母・千世子を始めとした呉一族を巻き込んでの20年来の因縁について語る。学術に取り憑かれた男ふたりの、それは鬼畜の所業と「私」には思われた。
 真相を覆い隠そうとしたと言ったり、全てを投げだそうとしたり、刻々と態度を変える正木は、今度は自分に代わって「私」に、真実を世に発表して欲しいと願う。が、これに「私」が強く拒否感を示すと、正木は何処かへとふらりと姿を消してしまった。

 2つの殺人事件と1つの発狂事件は、若林が、正木が、あるいは全く別の誰かが描いた筋書きに沿ったものなのか。それとも、全てが無関係に偶発的に起こったことなのか。
 正木の去った部屋で、「私」は最後の考えを強引に推し進めようとする。しかし、例の絵巻物の「魔力」については疑問を払拭できない。
 「私」は今一度、例の絵巻物を検分する。懐かしいような匂いを嗅ぎ取りながら繰り広げていった絵巻物の末尾には、衝撃的な一文がしたためられてあった。
 取り乱した「私」は、九大医学部を飛び出して街を彷徨する。事件の黒幕は分かった。しかし、「私」が誰であるかという問いは残っている。夢も現も混濁した状態で、絵巻物を元に戻すために「私」は九大に引き返そうとする。

 気がつくと元どおり、「私」は九大医学部の正木の教授室に戻ってきていた。しかし部屋の様子や、例の絵巻物が包まれていた風呂敷包みは、どう考えても「私」が経験してきた今日1日のことが全て幻想であったことを示している。
 風呂敷包みから出て来た新聞の号外は、大正15年10月20日に解放治療場で起きた呉一郎による5人の男女殺傷事件、その直後の一郎の自殺と正木教授の自殺、呉家菩提寺・如月寺の炎上と放火者とみられる呉八代子の焼死を報じている。さらに包みには、正木の手による遺書も収められていた。
 「私」は混乱し、ようやく思い当たった本当の黒幕の行いに恐怖する。
 いまはいつなのか。「私」は本当に〓〓なのか。
 憔悴し切った「私」は、隣室に呉モヨ子らしき娘の居る、冒頭で目が覚めたのと同じ部屋へと帰る。「これは胎児の夢なのだ」と思いながら、寝台に横たわった「私」の眼前に幾人もの幻が現れては消える。ボンボン時計の音が長々と鳴る――。

感想

 非常に多くの要素、多くの文体(一人称・三人称・シナリオ風・古文・漢文・論文・新聞記事など)を含んでいて、それはそれだけ多くの解釈を許容するということを意味する。これは確かに巷で囁かれるとおり、再読するごとに違った読後感を得られるのかもしれない。初読時の私のメモによれば、以下のように書いている。

九州の方言でいう「ドグラ・マグラ」が「堂々巡り」を意味するように、“時間軸は巡り、しかし目はくらんでいない”、といったところか。

 ただ一方で、「正直のところ、そこまで奇書という感は受けなかった」としてもいる。これくらいの突拍子の無さは、すでにライトノベルなどを含む現代文学からしてみれば、普通の範疇に収まるのではないか、と感じたようである。
 しかし、このたび再読(ざっと読むつもりだったのだが、結局はじっくりと読んでしまった)してみて、やはりそれは若かった初読時の私の虚勢ではなかったかと思った。

 何といっても、セオリーを外れた“堂々巡りの大伽藍”を作り上げたということに驚く。情報量と展開の変転ぶりにくらくらする。当時にしても破格の作品だったに違いないが、教本に沿って書かれるような小説が流布する現代で、このような小説は可能だろうか(より厳密に表現すれば、すでに成った『ドグラ・マグラ』を前提とした「このような」という語すら適当でないだろう)。
 文庫判で総計700ページという分量は多いには違いないが、この内容に比して言えば凝縮されているとも言えないだろうか。仮に現在、出版社が『ドグラ・マグラ』を初めて世に出すならば、「私」、正木、千世子、呉青秀、呉一郎、そして「私」と、それぞれを語り手にして全6巻くらいのシリーズに水増ししてもおかしくないだろう。

 全体を読み終えた上で下巻の内容について考えると、上巻に引き続き、やはり九大の精神病科教室教授である正木が物語の中心にいる。上巻では「脳髄はものを考えるところではない」などの怪説を開陳してくれたが、下巻でも「私」に、その素性や事件のことなどを語る片手間に色々な学説を持ち出してくれる。
 例えば、人が死体をいじり回す「死体翻弄」が起こる理由を、虫や人類の「野蛮蒙昧時代」からの心理遺伝とする説(p.67)や、切腹や義死というものの奥底に自己陶酔があるとする説(p.71)、ろくろ首も夢中遊行とする説(p.75)などには妙な説得力を感じた。
 また、祖先からの心理遺伝による意識が覚醒中に現れるのが二重人格で、無意識状態で現れるのが夢中遊行だ(p.78)とし、その場合の犯罪の責は先祖とそれを生み出した当時の社会にあるとしているのにも、それなりの一貫性があるように思えた。
 しかし中盤に入ると、正木はそれらの説を簡単に放り出してしまう。本作のなんとも捉えどころの無い味わいの根源は、こうした正木の支離滅裂さにあるのかもしれない。
 思えば、本作のほとんどは「私」と正木(と若林)の対話で構成されている(上巻と下巻にまたがるほどの長い長い資料を「私」が読む間はその限りではないようにも思えるが、これもやはり資料の語り手である正木との対話と言えなくもない)。言い換えれば、『ドグラ・マグラ』とは惑う青年と中年の学者の問答ということになろう。そう考えると、近年のベストセラーである『嫌われる勇気』のようにも読めてくる。

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

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 しかし『嫌われる勇気』と異なるのは、恐らく正木にせよ若林にせよ「私」に対して誠実ではないということである。正木の言動の端々に、様々な言葉や手管を連ねて「私」を自らの思うようにしよう、という年配者の厭らしさのようなものが臭い、私には随分と醜悪に感じられた。
 「呉青秀のスバラシイ忠君愛国精神の正体は、やはりスバラシク下等深刻な、変態性欲の固まりに過ぎなかった」と正木は言っているが(p.234)、そういう正木や若林の実相も、似たようなものではなかっただろうか。上巻の時にも書いた「仮に科学が進展しているとしても、それに反して一向に成熟しない精神の有り様」とは、彼らのこうした態度に現れていると思う。

 それにしても、結末まで読んでその悲壮さが際立つのが千世子である。「私」も可哀相ではあるが、彼については判断がつきかねるところがあり、私はそれほど憐憫の情が湧かなかった。
 知恵を働かせて博士たちと渡り合う一面も見せる千世子だが、例えば大学に入るとか実業家になるなどという展開はない。当時の女性が自立するとなれば、各種の学問や技術に通じて女塾を開くくらいしかなかったのだろうか、などと思った。大正時代の男性であった作者に、そんな発想が無かったのかもしれないが。

 これほど有名な作品なので、上巻で紹介した映画以外にも、漫画化やアニメ化がなされている。しかし私のみる限り、出色はやはり映画版だろう。
 制作されたのはだいぶ昔だし、いつでも観たい類の映画ではないにせよ、夏の暑い夜などに再び観たくなることもあるかもしれない。

ドグラ・マグラ [DVD]

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 一方で、本作が特にサブカルチャー方面に与えた影響は大きいだろう。初読時の私が「正直のところ、そこまで奇書という感は受けなかった」と書いたのは、本作の有形無形の影響下にある諸作品によるところが大きいのかもしれない。
 それをいちいち挙げることはしないが、例えば、現在テレビアニメも放映中の藤田和日郎氏の漫画『からくりサーカス』にも、『ドグラ・マグラ』に通じるところがあるように思う。

からくりサーカス (1) (少年サンデーコミックス)

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 同作の扉絵には「ゆめのきゅーさく」による『どりるもぐら』なる本が描かれているものがあったと記憶するし、澁澤龍彦を好むという藤田氏のこと、近い匂いを感じさせる本作を踏まえているのは間違いないだろう。
 本作の「学術実験用の子供」(p.319)を思わせる、“おぞましい1つの目的を果たす道具として造られた少年”というモチーフも、氏の漫画には散見される。

 また、『ドグラ・マグラ』の物語の主要素の一つとして、呉家という家系における狂気の遺伝があるわけだが、そうした“狂気や不吉を宿した血族”とでも表現すべき物語の要素は、例えばノベルゲームのシナリオ担当として世に知られた奈須きのこ氏が描く『空の境界』や『Fate/Stey night』のような物語にまで続いていると思う(小説である前者については、いずれ感想を書く予定である)。

空の境界(上) (講談社文庫)

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 それほどまでに日本の家制度が日本人にもたらした影響は大きい、などと言うのは一足飛びな気もするが、では海外の物語に同じようなものがあるのかという問いが立つ。
 もちろん海外の物語にも家系や一族を描き出すものは色々と見られるが、その呪わしさをそれほど執拗なものがあるだろうか、と思う(『嵐が丘』などは、少しそういうところがある気もするが)。

 作品と同様、感想も何やら散漫なものになってしまったが、概ね感じたことは語り終えることができたように思う。以下は例によって、本文に登場する言葉や書籍について、未知だったものや気になったものを調べたメモである。調子に乗ってかなりの分量となってしまったが、この作品にはいっそ似つかわしいと思うので、そのまま公開する。

 書道の大家として言及される小野鵞堂(p.53ほか)は、明治・大正期の書家。特にかな書道で有名なようで、本文でも書かれている通り「鵞堂流」は多くの人に普及したとされる。
 人間の祖先として言及される「Stegocephalia」(p.76)。日本語訳としては「堅頭類」であり、古生代から中生代の両生類の一群を指すようだ。
 論文調の記述部分に幾度か出てくる「這般」(p.63、78ほか)。「今般」とほぼ同じで「このたび」という意味である。
 伝説と並記される「口碑」(p.68)という言葉。これは単純に「言い伝え」を意味するようである。
 非常に興奮している状態のことを指すと思われる「逆上喪神」(p.93)。ネットで調べる限りでは、これを明らかに説明した記述がない。「Yahoo!知恵袋」の回答として、「逆上のあまり、意識を失う、気絶する」というものがある(“逆上喪神”上記の言葉の読み方及び意味をご存知の方... - Yahoo!知恵袋)。概ねそのようなものだとは思う。
 姪の浜にある呉家の裏に生えているという「朱欒の樹」(p.97)。朱欒は「じゃがたら」とルビが振ってある。諸説あるようだが、「ざぼん」「ぶんたん」とも読むようなので、そのような柑橘系の樹木かと思われる。
 呉家の菩提寺である、如月寺の縁起についての記述にみえる「電光朝露」(p.104)。世の中の非常に短いことの例えをいう。
 同じく如月寺縁起にある「長汀曲浦」(p.109)。長い汀と、曲がりくねる浦ということで、転じて景色がいい海辺のことを指すようだ。
 呉一郎が起こした事件現場にあったという「百匁蝋燭」(p.123)。匁は重さの単位で、100匁は375gほど。サイズとしては長さ30cmに近い、大きな蝋燭ということになるだろう。ちなみに読みは「ひゃくもんめ」ではなく「ひゃくめろうそく」と読むらしい。
 正木の吐き出す紫煙の色を形容した、「ウルトラマリン」と「ガムボージ色」(p.142)。ウルトラマリンはラピスラズリを主成分とした青色だと分かるが、後者は未知だった。「ガンボージ」「雌黄(しおう)」「藤黄(とうおう)」ともいう植物性樹脂由来の黄色の一種で、日本画などに用いられるようだ。
 正木がしばしば口にする、「面黒い」(p.147)という形容詞。正木独自の表現かと思いきや、意外と人口に膾炙したものだったらしい。江戸の通人などは「面白い」の洒落として用い、俳句や川柳の界隈では「つまらない」の意として流布したとされている。ここで正木がどちらの意味で使っているかは不明であるが、恐らくはそこまで意図して使っているのだろう。
 「近頃アメリカでやかましい」という「第三等の訊問法」(p.154)。何のことか不明だったので調べたところ、夢野久作と同時代の推理作家/医師であった小酒井不木が自作「呪われの家」で言及しているのが見つかった。曰く「犯人をだんだん問い詰めて行って一種の精神的の拷問を行い、遂に実を吐かせる方法」(小酒井不木『探偵小説1』収録「呪われの家」より)だという。実在したか否かについては、確認できなかった。
 呉青秀の伝説のさわりが載っている小説として『牡丹亭秘史』が挙げられている(p.199)が、この本そのものは実在しないようである。ただ、明代の戯曲『牡丹亭』は、中国では割と知られた物語のようで、現在でも書籍として幾つか出版されている(みた限りでは、日本語訳はない)。
 『牡丹亭』のあらすじを読むに、美女の死、残された画像、墓をあばく青年と、呉青秀と芳黛を思わせるキーワードが浮かぶ。この『牡丹亭』を知った夢野久作が、そのエッセンスを『ドグラ・マグラ』に組み込んだと考えても不自然ではないだろう。
 玄宗皇帝の昼行灯ぶりの正木流の表現として出てくる「古今のデレリック大帝」(p.200)は、実在の皇帝などの名ではなさそうである。恐らくは、楊貴妃にデレデレしていたことを揶揄したものだろう。
 呉青秀の出世欲の表明としての表現「名を丹青、竹帛に垂れる」(p.235)。「名を竹帛に垂る」で、竹帛(書物)に名が残るような偉業を成すことを意味するらしい。「丹青」は赤と青、転じて絵の具や絵を描くことを指すので、その方面で有名になろう、というほどの意味と思われる。
 同じく呉青秀の心情を表現した「この上の感激は求められられられられないといった程度にまで高潮した欲求」(p.235)。4度続く「られ」のうち3つは誤植ではないかと思われたが、青空文庫版でも同様になっている。角川文庫版の前に読もうとした現代教養文庫版はいま手元にないが、見る機会があれば確認しておきたい。もしも作者の原稿からこの通りであるならば、「求められない」を強調する意味を込めたものなのかもしれない。
 法廷に立つ際に役立つものとして、文殊の知恵と並べて正木が挙げている「富楼那の弁」(p.273)。富楼那こと富楼那弥多羅尼子は釈尊十大弟子の1人だという。説法が上手だったということから挙げられているのだろう。
 解放治療場に収容されていた患者の1人に、草木を植え続ける浅田シノ(p.358)という少女がいる。舞踏狂の少女ら他の患者の多くが氏名不明なのに対し、名前が明示されているので目を引かれた。だけでなく、最近どこかで見聞きしたような名前の気がするが、思い出せない。
 また、本文ではないが、なだいなだ氏が「解説」で挙げている、海野十三、大下宇蛇児、鶴見俊輔水沢周といった人々のドグラ・マグラも気になるところである。具体的な書名が挙げられていないが、調べがつけば、どんな物か一瞥くらいはしたい。

 最後に、ふと思ったことを書いて終わりにしたい。
 以下に記す本作の巻頭歌は、割に有名なものだろう。

胎児よ
胎児よ
何故躍る
母親の心がわかって
おそろしいのか

 本作の全体を覆っているのは、この胎児が抱くような“怯え”だと思う。
 何に怯えているのか。
 生物進化の過程で繰り返されてきた、他者を踏みつける凄惨な行為にか。学術のために人倫にもとる行為を容認してきた歴史にか。あるいは、文明や技術が発展し、理性的な判断が重視される世界になっても、一皮むいた深層には、相も変わらず黒々とした情念が渦巻いていることにか。
 私は、いちばん最後のような気がしている。もう数時間で元号が改まるが、この“怯え”はそう簡単に拭えそうもない。

ドグラ・マグラ (下) (角川文庫)

ドグラ・マグラ (下) (角川文庫)

 

 

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