何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

山田彩人『眼鏡屋は消えた』の感想


(2019年2月読了)

何となく手に取り、1本の長編ミステリだということで読む。読んだのは、文庫版の方である。
 近年、数を増やしてきた感のあるミステリの形式に、短編を積み上げて1つの物語(≒長編)とするものがある。本職の探偵や警察官が登場せず、日常の謎を描いた、いわゆる「コージーミステリ」に多いようだ。例えば初期の『ビブリア古書堂の事件手帖』(シリーズ後半は長編へと変わった)や『珈琲店タレーランの事件簿』などがそうだろう。古典部シリーズ第1作である『氷菓』(当該記事)にも、その性格があったように思う。こうした流れの“はしり”は、若竹七海『ぼくのミステリな日常』あたりだろうか。

珈琲店タレーランの事件簿 また会えたなら、あなたの淹れた珈琲を (宝島社文庫 『このミス』大賞シリーズ)

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ぼくのミステリな日常 (創元推理文庫)

ぼくのミステリな日常 (創元推理文庫)

 

 が、そうなってくると、シンプルな単発の長編が逆に意欲作に見えてくる。本書を手に取った遠因はそんなところだろうと思う。
 それはともかく、まずは以下に概要を示そう。

概要

 藤野千絵(ふじの・ちえ)は森野学園高校演劇部の部室で目を覚ました。左手には薄い紙切れを握っている。
 自らが高校2年生だという彼女の認識は、現れた少女――千絵の親友である竹下実綺(たけした・みき)に瓜二つの姿をした山口美貴によって打ち砕かれた。美貴によれば、千絵はこの高校の英語教師であり、演劇部の顧問としてここに居るのだという。
 高校2年のある時期から自分が倒れる直前まで、実に8年分の記憶が欠落している。愕然とする千絵に追い打ちをかけるように判明したのは、いま演劇部が上演しようとしている演目『眼鏡屋は消えた』の作者でもあった実綺が、とっくの昔に死んだという事実だった。

 11年前に学園で実際にあった男子の死亡事件に、インスピレーションを受けた実綺が書いた『眼鏡屋は消えた』。8年前には学園側の圧力で上演が叶わず、今また同じ道を辿ろうとしているこの演目の成功は、実綺の遺志でもあるはずだ。そう考えた千絵は、『眼鏡屋は消えた』上演を後押しし、発表の場である学園祭が終わるまで記憶障害を隠し通すことを決意する。
 自宅にあった日記に実綺は「殺された」と記されていたが、演劇部時代の友人・玲子は「自殺だった」と言う。実綺の死の真相はどこにあるのか。
 もしかしたら自分が倒れていたことも、そのことと関係があるのかもしれない。そう考えた千絵は、当時の演劇部部長・滑川健太(なめりかわ・けんた)に話を聞くが、それは幻滅しかもたらさなかった。それ以外の部員からも有力な情報は得られない。

 しぶしぶながら、千絵は幽霊部員だった戸川涼介に連絡を試みる。シニカルな涼介の性格を嫌いながらも、そのルックスには心惹かれていたことから二の足を踏んでいたのだ。
 いまは探偵事務所の手伝いをしているという涼介は、相変わらず人を食った態度をとりながらも、仕事として千絵の相談に乗る。いまいち信用できない涼介だが、言っていることは理屈が通っており、千絵は信用することにした。
 8年前、『眼鏡屋は消えた』のゲリラ上映の舞台として千絵たちが考えていた、学園の裏庭にある時計台。その下で実綺の遺体は発見され、自殺として処理された。
 疑わしい点が残る実綺の死の真相を明らかにすべく、涼介は調査を開始する。その真相こそは、千絵が記憶を失う原因となった殴打事件に関係する可能性も高く、11年前に転落死をやはり自殺として処理されたという、橋本ワタルの事件にも連なっていると思われた。涼介は、千絵が握っていた紙切れを吟味し、何者かが今回も『眼鏡屋は消えた』の上演を阻止しようとする理由を考察する。
 実綺の奔放な作家性が表れた『眼鏡屋は消えた』は、荒唐無稽なバイオレンスアクションである一方で、社会の身勝手な正義を批判するものでもあった。『眼鏡屋』のモデルとなった出来事は、母と妹を殺された橋本ワタルの、学校でいじめを受けた後の転落死という出来事である。

 失った記憶のことを隠しながら、どうにか英語教師を演じる千絵。同僚の久松映子(ひさまつ・えいこ)や、千絵の頃の演劇部顧問でもあった社会科教師の筑紫俊一(ちくし・しゅんいち)らに聞き込みをし、ワタルの事件の情報を仕入れていく。
 涼介によれば、生前ワタルはいじめを受けており、転落したのは社会科準備室からだったという。ワタルの母と妹を殺した富山常夫(とみやま・つねお)は、連続殺人を犯した快楽殺人者でありながら、冤罪を主張する市民団体や人権派弁護士の活動で釈放され、その後にワタルの母と妹を殺したという経緯があった。

 橋本ワタルと親しく、死の直前の様子を知る元同級生の塩川史朗(しおかわ・しろう)、実綺の死体の近くに落ちていたキャラクターもののストラップの持ち主で、元美術部員の岡島和之(おかじま・かずゆき)、岡島とつきあっていた小泉麻里(こいずみ・まり)、当時準備が進められていた学園祭のパネル製作係だった今井修(いまい・おさむ)。11年前と8年前の事件について知る者に2人は接触していくが、決定的なことは分からない。明確になったのは、2か月前、2人と同じように11年前の事件を探っていた少女が存在することと、8年前の事件当時、転落死した実綺の死体は移動された可能性が高いということだった。
 『眼鏡屋は消えた』上演をめぐる現演劇部の分裂騒ぎが起こり、終息しつつあるものの、この演目を上演することの意義について、千絵は思い惑う。

 筑紫が「先輩」と呼ぶ元教師の池田賢治と、2人はようやく会うことに成功する。ワタルと11年前の事件について語る池田は、やはり2か月前、2人と同じような話を聞きに来た女性のことを口にした。
 池田から得た情報で、2人はワタルが知るに至ったであろう事実に突き当たる。更に調査を進める過程で、実綺が死んだ当日に時計台に出入りした1人である鳥居里香(とりい・りか)の態度、山口美貴に関するある事実は、千絵を混乱させる。まだまだ五里霧中と感じる千絵をよそに、涼介は2つの事件の真相を示すパズルのピースが揃ったと言う。何も知らされないまま涼介の指示に従った千絵は、犯人の動きを待つ。
 そして、時計台に集められた関係者たちを前に、涼介は真相を語る。
 千絵が意識を取り戻した時に握っていた紙の切れ端。脚のキャップが1つだけ外れていた三脚と折れた桜の枝。岡島と小泉が聞いた大きな音。涼介が屋上で見つけたもの。それらの情報と各人の証言から積み重ねられた推論は、ついに元凶を指摘し得た。

 それは、それぞれの誤解と、己を省みぬ正義感によって偶発した、罪に問われぬ罪と言うべきものだった。犯人は言う。自分の“正しさ”には一点の曇りもない、と。
 1か月後、『眼鏡屋は消えた』は無事に上演を終えた。実綺の遺志を継いで目的を達した千絵だったが、件の“正しさ”に対する怒りに燃える。彼女は誓う。学園全体を渦中に叩き落とすことになろうとも、すべてを明るみに引きずり出してやる、と。

感想

 端的に言ってしまうと、作品としては「可も不可もない」という印象だった。ミステリとしては作者が「論理的推理に基づく捜査を行うことで、むしろ新しい謎が生まれてきたり、謎が深まっていってしまう感じのミステリ」(文庫版p.396、以下の頁数も全て文庫版のもの)を目指したと書いている通り、地道な捜査の先に新たな謎が出現し、その一進一退という感覚に引き込まれる部分は確かにあった。いわゆる人権派と呼ばれる動きを端緒とする“正義とは”という問いかけも、そうした事項について改めて考える機会を与えてくれる。
 加えて、自分にも危険が及ぶかも知れない不穏な事件を面白がる主人公(p.124など)の軽さも心地良い。捻くれた価値観を、シニカルに堕すことなく大まじめに披露していく探偵役の涼介も、なかなかに興味を引かれる存在だった。

 にも関わらず、全体として「魅力たっぷり」とまでは、私には思えなかった。
 一つには、人物造形の薄味さゆえだろう。語り手の千絵はともかく、特に探偵役の涼介にこれは顕著である。
 ミステリの探偵役となると、たびたび比較対象に江神二郎と折木奉太郎を持ち出してしまい恐縮だが、彼らに比べると、涼介にはどうも魅力が足りないように思えた。高校時代は演劇部の幽霊部員で、斜に構えた態度ばかりとっており、今は探偵事務所の手伝いをしている、と、一揃いの材料は示されているものの、それが活かし切れていないという印象を抱いた。例えば、普段の生活ぶりとか、住んでいる場所とか、そういった辺りの描写がもっとあれば違ったのかもしれない。
 もっとも、純粋にトリックを楽しもうとすると、この辺りは蛇足と言われかねない部分でもある。しかし、ホームズやポアロなどの歴代の名探偵を考えると、そうした部分が描かれなければ、彼らもそこまで愛されなかったのでは、とも思う。

 もう一つは、作者の書きぶりである。繰り返し同じような表現が出てくることがあり、何というか味わい深く読むことは叶わなかった。「文体」と言ってしまうと、この言葉には色々な議論があるので持ち出すのにためらうが、何にせよ、その著者独特の呼吸が出ている文章は、読みやすいということではなく、味わい深い気がする。本作の文章には、そうした味が薄いように感じられた。
 また、ミステリと言えば、博覧強記な衒学趣味もその特徴に数えてよいと思う。その点でもいささか飽き足りなさを拭えない。
 作中で言及される書物などを、私はミステリを読む際の一つの楽しみにしている部分があるが、本作でそれらしく思えたのは、山口美貴が千絵の記憶障害を説明する際に話に出したオリヴァー・サックスの医学エッセイ『妻を帽子とまちがえた男』(p.17)のみだった。

妻を帽子とまちがえた男 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

妻を帽子とまちがえた男 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 とはいえ、以上の2点はいずれも好みの問題という域を出ないだろう。地道な捜査と論理的な推理のみを楽しみたいという場合、却ってその期待には沿っているとも言える。

 かように私の好みに沿わない部分はあったが、興味を惹かれる部分もあった。それは、主人公の千絵が記憶を喪失していることによって、高校生の頃と二十代半ばの現在とを、自分の意識としては昨日と今日ぐらい地続きに感じていることに起因する。作者の意図通りか否か分からないながら、この点は本作に独特な面白さを与えていると思う。
 当たり前だが、8年前に実綺が死んだ時に高校生だった誰もが、20代半ばの大人になっている。演劇を志していた者も、写真部だった者も、会社員になっている。イラストレーターになる夢を追ってフリーターの者も、当時の趣味嗜好のまま、ファッショナブルで軽薄な女性になっている者もいたりする。
 普通は、自身も同じだけの歳月を経ているのだから、その歳月の隔たりを受け入れるともなく受け入れるものだろう。しかし、千絵の意識は高校生のままなのだ。演劇部部長の変わりぶりに落胆を隠せないし、自分自身に対してすら、「八年たつとこんなきれいなお姉さんになるのか」(p.12)などと他人に感じるような感想を抱いている。明記はされていないが、捜査の過程で話を聞いた元同級生たちに対しても、それぞれ思うところはあったはずである。
 亜流のタイムトリップストーリーとも捉えられるこの構図は、読む者にも自らの高校時代と、幾星霜を隔てた現在を思わせずにはいられないだろう。少なくとも私は、馴染みの数人以外もはや滅多に会うこともなくなった同窓生たちを思った。この1点のみでも、本作を読んで良かったと思える。語り手と同じ年頃である20代の読者、あるいは現役の高校生の読者は、どのような印象を抱くのだろうか。

 さて、あとは本書で気になった言葉や表現を挙げる。書籍としては前述の『妻を帽子とまちがえた男』ぐらいだが、列挙してみると、それ以外では割と引っかかる箇所もあったことに気付く。

 探偵事務所を手伝っているという涼介が、猫探しの奥義めかして口にした「スタニスラフスキー・システム」(p.50)。演劇用語のようだが、私には未知の言葉だった。調べたところによると、コンスタンチン・スタニスラフスキーは19世紀から20世紀にかけてのロシア(ソ連)の俳優・演出家で、スタニスラフスキー・システムは彼が考案した俳優術らしい。一言で表せば、“役を演じる”のではなく“役を生きる”ことを目指した方法論ということになりそうである。涼介としては、猫を探すために猫になり切るという点を指して言ったのだろう。

 実綺の事件に対する情報を満足に提供しなかった涼介に対し、千絵が突っ込んだ「カネを出さなきゃ真相も隠すのか!」(p.92)という台詞。しかし、それに答えた涼介の意見には割と同意できる。何か欲しいなら明確に要求しなければならないし、その代価は支払わなければならないだろう。特に“代価”については、私のような仕事でも、ないがしろにされることが多い気がする。何をするにも手数が掛かっている以上、相応の費用がかかることは理解されたい。

「警察も裁判所もそう信用できたもんじゃない」(p.94)

「人間は信じられるものを信じるんじゃなくて、自分が信じたいものを信じるもんだ」(p.95)

 上2つはいずれも、実綺が死亡した事件当時の断定的な捜査を評した涼介の言葉である。「人は己の望むところを信じる」というような言葉は、紀元前のころ既にカエサルが言っている(詳細な出典はいま調べがつかないが)。
 今の私は同意できるが、そう実感するようになったのは割と最近で、少なくとも涼介ほどの歳ではない。涼介にしても、カエサルの言葉を見聞きして出た言葉で、実感したわけではなかったのかもしれない。身も蓋もないことを述べてしまえば、著者が本作を書いたのは40代の頃のようなので、その頃の著者の実感を、涼介の口を借りて表したものではないかと思う。

 既に教職を辞した池田が、自分の教師時代を振り返っての「そう言って池田は過去を温めるような表情で視線を床に落とした。」(p.248)という表現。「温める」という以上、過去は冷え切っていることになるのだが、どういう気持ちで彼はそうしたのだろう。ワタルの痛ましい出来事を知る彼の胸中は、後悔なのか、懐かしさが先に立っているのか微妙で、そこが味わい深く思った。

「小説にはトリックをいくつも使って次々に人間を殺す犯人が登場しますが、あれは小説だからです」(p.367)

 上記は、犯人を喝破しつつある涼介の言葉。ミステリというもの自体について批評的な、メタ視点の言葉だが、近年のミステリにはこういった表現が特に多いように思う。ただ、色々なトリックを駆使して次々に事件が起きるミステリは、それはそれで魅力的だと思う。そうしたミステリをこの先も読みたいものである。

「僕らは思い出を作るために生きてるんじゃないし、……(後略)……」(p.382)

こちらも涼介の言葉である。思い出を作るというのは、概ね肯定的に言われることが多いだろう。が、確かに物事の当初から、思い出を作ることだけを目的にするというのも、なかなか不純に思える。思い出とは、それと意識せずに行ったその道程を、後になって懐かしく振り返るというのが本質ではないだろうか。そういう意味で、なかなか“目から鱗”な言葉だった。

「自分の正義を確信し強調する人間というのは、心に疚しいところがある人間だ」(p.391)

 最後は語り手である千絵の言葉である。同じような言葉をよく見聞きするが、本当かなとも思う。一点の曇りもなく正義を確信する場合だって、あると思う。ただしその機会というのは、心に疚しいところがある場合に比べたら圧倒的に少ないだろう、とも思うのだが。

 最後の最後にもう1点、これは本の作りとして気になったことも記しておこう。単行本は未確認なので何とも言えないのだが、少なくとも文庫版には登場人物の一覧がなかった。
 それほど登場人物が多いわけでもないが、これはやはり欲しかった。こうした人物一覧は、ほぼ必ず登場人物の中から犯人が指摘されるミステリという形式の一部だと私には思われる。千絵、実綺、麻里、里香など、2文字の名前の女性が多く登場するのも、人物一覧が欲しくなる一因ではある。

 気になることは幾つもあったが、長編ミステリを読むという当初の目的は達せられ、その点は満足できた。気が向けばまた、こうした単発長編ミステリを読んでみたい。

眼鏡屋は消えた (創元推理文庫)

眼鏡屋は消えた (創元推理文庫)

 

 

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