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何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

村上春樹 文/稲越功一 写真『使いみちのない風景』の感想


(2004年11月読了)

 当時、休みの日の深夜のモスバーガーで一気読みした本その3。写真つきの随筆である。というよりは、稲越氏の写真集に少しずつ挿入されている村上氏の随筆、と表現すべきだろうか。1ページ当たり長くても8行程度の文章が、概ね2ページにつき1ページの割合で挟まれている。
 そうした形式による100ページほどの表題作と、私が読んだ文庫版では、「ギリシャの島の達人カフェ」「猫との旅」という2つのごく短いものも収録されている。まずはそれぞれの概要を示そう。

 「使いみちのない風景」。「僕」(村上春樹)の趣味は旅行ということになっているが、実のところ旅行はあまり好きではなく、実感には乏しい。なぜならば、自分がやっているのは旅行ではなく、定着するところを求めての「住み移り」――定期的な引っ越しだからである。旅行においては出会った風景に対して単に「素敵なところ」で済ませておけるが、「住み移り」においては、そこに住むことで生じる現実的な面倒を引き受けなければならない。
 そうした「住み移り」ごとに見てきた風景は、「僕」にとって、貴重な財産のようなもの。引っ越すたびに1つずつ長編小説を書いてきたので、ひとつの長編は独自の場所と風景を持っている。
 そうしたクロノロジカルな風景の記憶の他に、唐突に、身勝手に浮かんでくる風景の記憶もある。それは例えば、フランクフルトで見たアリクイの夫婦だったり、ギリシャのフェリーボートで見た水兵の目だったりする。それらはただの風景の断片で、何処にも結び付かず、何も語りかけない。アントニオ・カルロス・ジョビンの“Useless Landscape”という曲に倣って、僕はそうした風景を「使いみちのない風景」と名付けている。
 「使いみちのない風景」の使いみちを探ろうと、そこから物語を始めてみようと「僕」は試みるが、それは失敗した。しかし、それが引き金となって別の風景を描きたいと思うようになった。『世界の終わりとハード・ボイルド・ワンダーランド』は、そうして書かれた。それ自体に使いみちがなくとも、意識を別の何か大切な風景に繋がらせるというのが、「使いみちのない風景」の意味なのだろう。
 「僕」は旅行があまり好きではない。しかし僕らが旅に出るのは、そうした「使いみちのない風景」が、僕らには必要だからなのである。
 「ギリシャの島の達人カフェ」。昔、閑散期に仕事をしようと、ギリシャの小さな島に住んだことがある。そこでの唯一の娯楽は、港のカフェだった。大したカフェでもなかったが、そこでインスタントのコーヒーを飲み、船から降りてくる人たちを眺めた。カフェの客の半分は退職した老人たち、もう半分は「金はないけど暇はある」タイプの人々だった。そうした客に混じり、我々もぼんやりと過ごした。
 そうしたことを毎日繰り返すうち、空っぽな生活に馴染んだ「僕」は、東京でのあくせくした暮らしよりも今の暮らしの方がまっとうだと感じ、小説を書くことにすら疑問を抱くようになった。
 しかし、小説を書くことを放棄したはずもなく、別の島へ、次いでローマへと移り、書き続けた小説『ノルウェイの森』は完成した。
 『ノルウェイの森』の表紙を見るたび、「僕」はあのとき選ばなかった選択肢、あの港の「達人カフェ」でぼおっとしている自分を夢想する。
 「猫との旅」。「僕」の夢のひとつに、旅行好きの猫を飼う、というものがある。そんな猫なら、どこへでも連れていけるからだ。しかし、これまで多くの猫を飼ったが、そんな猫はいなかった。「僕」はそういう猫たちの興味の限定性を愛するが、それでもやはり、1匹くらいは旅行好きの猫を飼ってみたい。一度でいいから、そういう猫を連れて旅してみたい。

 全体的に、腑に落ちる内容だった。ただ、表題作においては、最後に「僕」から「僕ら」へと主語が変わるのに少し疑問を持った。果たして「使いみちのない風景」は、誰もが心の引き出しに持ち得るものだろうか。
 自問してみて、「ああいうやつか」と思い当たる風景は確かにある。例えば、私が出た高校は夏に臨海学校で遠泳をするのだが、そのとき浴びた屋外シャワーの様子がふと心に浮かぶことがある。あるいは、幼い頃に自室で見た、ディズニーランドの風船が浮かんでいるのを仰ぎ見た眺めもそうかもしれない。ただ、前者は単に辛かった遠泳に関連付けられた思い出のような気もするし、後者は自分の家でのことなので、旅行や「住み移り」とは関係が薄いようにも思われる。
 つまり、「使いみちのない風景」を明晰に記憶していること、そしてそこから物語へと飛躍できることは村上氏固有の資質である可能性もあるのではないか、と考えるのである。しかし、そういう結論は私にとっても嬉しいものではないので、いずれは「これぞ「使いみちのない風景」だ」と思えるものが浮かんでくることを楽しみに待ちたい。

 「ギリシャの島の達人カフェ」は20ページほど、「猫との旅」は10ページほどの作品である。
 前者は、「使いみちのない風景」の実践編のように思われた。とはいえ、この随筆が書かれたのは概ね1992年ごろ(不確定なのは、初出の情報が「「ドゥマゴ通信」No.13」としか記載されていないため。「ドゥマゴ通信」の詳細な刊行情報が不明なため、1990~1994年でNo.25まで出ているという情報をもとに類推した)で、94年に書かれた「使いみちのない風景」よりも恐らくは先に発表されていることになる。
 むしろ、ギリシャの小島の風景が間接的に『ノルウェイの森』に結びついた経験をもとに「達人カフェ」が書かれ、それを包括するように「使いみちのない風景」が書かれた、ということなのかもしれない。長編の発表順で言えば、『ノルウェイの森』よりも『世界の終わりとハード・ボイルド・ワンダーランド』の方が先ではあるが、回想として書かれているので矛盾はないと思う。

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻 (新潮文庫 む 5-4)

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻 (新潮文庫 む 5-4)

 
ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

 

 それにしても、この達人カフェのあるギリシャの小島は、いずれ訪れたいものである。いや、別にこの達人カフェでなくても構わない。ただ、なにか緩やかな風景を眺めながら「ぼおおっと」できる場所ならどこでも良いのだと思う。

 「猫との旅」は、初読時は「そういうものか」と思っただけだったが、実際に猫を飼っている2016年現在になって再読すると、切実に同意できた。私はうちの猫が大好きで、それによる不自由は我慢できるが、病院に連れていけば恐慌をきたすし、家を空ければ寂しがるので、遠出はできない状態にあることは事実である。
 猫が抵抗なく一緒に温泉にでも行けるものなら、連れていきたい。もちろん、それは夢だということは分かっている。作者も重々分かった上で書いたのだろう。その気持ちもまた、よく分かるのである。

 ちなみに、「使いみちのない風景」の命名の元となったアントニオ・カルロス・ジョビンの“Useless Landscape”の動画がYouTubeにあったので、掲載しておこう。「ぼおおっと」するのに相応しい曲のように思う。

使いみちのない風景 (中公文庫)

使いみちのない風景 (中公文庫)

 

 

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