何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

過ぎた年(2023年)におくる31冊

 昨年も記事更新0という残念な結果となってしまったが、相変わらず私はゲラやPDFや参考図書のはざまで汲汲とする日々を過ごしている。
 すっかり年次報告となってしまい慙愧の念に堪えないところではあるが、このたびも懲りずに過ぎていった2023年に捧げる本たちを挙げてみたい。

 いつものごとく、話題になった本やベストセラーなどにはあまり拘らず、折々の出来事に触れ、個人的に気になった、人に薦められた、実際に触れて印象的だった本などをおおむね時系列で挙げる。では、2023年1月から。

1月(1冊)

 19日、第168回芥川賞直木賞の選考が行われ、芥川賞は井戸川射子氏「この世の喜びよ」、佐藤厚志氏「荒地の家族」、直木賞には小川哲氏「地図と拳」、千早茜氏「しろがねの葉」と決まった。

 「しろがねの葉」と迷ったが、上には佐藤氏の「荒地の家族」を挙げた。仙台在住の書店員だった著者による、震災後の生活は苦い。
 何というべきか、この記事を公開するのが昨年12/31の予定だったのだが、それが遅れたために「令和6年能登半島地震」という現象が上掲書をチョイスする遠因になったことは否定しがたい。傷痕は残り続けるということを再認識するために、やはり挙げておく。

2月(1冊)

 13日、漫画家の松本零士氏が85歳で死去された。大御所といっていいだろう漫画家である。氏の大ファンというわけではないが、父の書棚で『銀河鉄道999』を見つけて以来、いくつかの作品を拝読した。

 美形も多く登場する作風でありながら、星野鉄郎や大山昇太といった、いわゆる醜男を多くの作品で主人公に置き、「男とは」という氏独自の哲学によって貫かれた物語は、多くの人に愛読された。こちらも小細工せず、氏の代表作として挙げる。

 『999』は、当初の目的であるアンドロメダ銀河への到着までは描かれ、そこで一応の区切りはあるものの、結局は未完ということになったかと思う。が、作品の空気として、それはそれでよいようにも思う。

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ゆく年(2022年)におくる44冊

 「激動」という言葉もだいぶ月並みになってきた感があるが、それでも「激動」と形容したくなる2022年も終わりに近づいた。多忙で、ブログに投稿するのも1年ぶりという不良ブロガーの“年間記録”めいたものとなるが、はてなブログの運営からちょうど特別お題「わたしの2022年・2023年にやりたいこと」も出ていることだし、このたびも過ぎ去っていく年に捧げる本たちについて書くことにする。

 例によって、話題や売れ行きにはあまり拘らず、個人的に気になった、人に薦められた、実際に触れて印象的だった本などをおおむね時系列で挙げる。
 それでは、1月から挙げていこう。

1月(2冊)

 15日、ポリネシアの群島国家であるトンガ王国のフンガ・トンガ=フンガ・ハアパイ火山で大規模な噴火が発生した。VEI(火山爆発指数)は5であり、相当な巨大噴火であるとされる。
 発生からしばらくは現地との通信が途絶し、日本でも津波警報などが出された。現地の安否と、その後の地球規模の影響が危惧されたが、不幸中の幸いというべきか、気候変動などへの影響は今のところ無いようである。

 上掲書は、そんなトンガの社会で見られる贈与と「ふるまい」についてフィールドワークを元に書かれた本である。トンガの人々が今後も無事であることを祈りつつ紐解きたくなる。

 19日、第166回となる芥川龍之介賞直木三十五賞の選考委員会が開催され、芥川賞を砂川文次氏の『ブラックボックス』が、直木賞を今村翔吾氏の『塞王の楯』と米澤穂信氏の『黒牢城』が受賞した。

 近年、私としてはあまり文学賞の受賞作に食指を動かされることがないのだが、《古典部シリーズ》に親しんできた身としては、米澤氏の受賞は素直に喜ぶ気になった。上掲の受賞作は、本能寺の変から4年前を舞台とした歴史ミステリ小説。著者の歴史に対する興味は《古典部シリーズ》でも垣間見えたところだが、本作はどのように企まれたか、いつか読む時を楽しみにしたい。

2月(4冊)

 1日、石原慎太郎氏が死去された。東京都知事だった氏が、芥川賞作家であり、往年の名優・石原裕次郎の実兄でもあることは、かつては有名であったが、今の世の中ではどうだろうか。

 上掲書は、とある批評家が相当な高評価を付けた1冊。著者の人生の中で味わった凄絶な瞬間の印象を40の掌編として結実されたものである。政治家としての発言はたびたび考えものだったが、今となっては作家としての氏を味わいたい。

 5日、石原慎太郎氏とも親交があったと思われる芥川賞作家の西村賢太氏が死去された。21世紀に突如として蘇った、酒と暴力となぜか漂う軽妙さが持ち味の私小説家だった。

 明治を生きた無頼の小説家・藤澤清造の“没後弟子”を自称する氏の小説を、東日本大震災の後の一時、私は立て続けに読んだ。そこに表れた生き汚さのようなものが、その時の自分には必要に思えたのである。上掲書は、その初期の1冊。捨て鉢めいた書名が、氏の冥福を祈るに相応しいと思い挙げる。

 19日は、あさま山荘事件発生から50年となった。同事件は、極左テロ組織である連合赤軍が起こした人質を取っての立てこもり事件であり、それに先立つ仲間内での凄惨なリンチ殺人事件とともに知られている。

 上掲書は、連合赤軍幹部だった吉野雅邦(現・無期刑受刑者)と親交のあった著者による、一連の事件を追ったドキュメントである。50年という時間は、忘れるには充分なものに思えるが、しかし簡単に忘却してはならないこともあると思う。

 24日、ロシアがウクライナへの侵攻を開始、今日まで及ぶ長い戦争が始まった。21世紀を生きる多くの人が幾度も驚いたであろう戦争である。その凄惨さは繰り返すまでもない。

 多くのことがあり過ぎ、本の選出にも迷ったが、やはりロシアの文人による作品を挙げることにする。過去に感想を書いた本だが(当該記事)、本書の収録作「臆病者」の主人公が辿る物語は、現在のロシアでも変奏され続けているのではと思う。ガルシンの生きた19世紀と現在のロシアとが相似形を成していることに愕然とせざるを得ない。

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ゆく年(2021年)におくる30冊

 昨年に「おくる本」を書き終えて(当該記事)まだ半年くらいであるが、時期が巡ってきたので2021年におくる本たちについて書くことにする。例に漏れず、てんやわんやのうちに過ぎゆく1年に捧げたい本のリストである。
 話題や売れ行きにはそれほど拘らず、折に触れ気になった本、人に薦められた本、実際に触れて印象的だった本などを時系列で挙げる。

 体感的には訃報が多く、また報道はコロナ禍や皇室関連の動静についてのものが優先されがちで、どうにも晴れ晴れとはいかない年だったが、そこからでも未来に向かうものは見出せるのではないかという気持ちでセレクトした。それでは、1月から挙げていこう。

1月(1冊)

 12日、ノンフィクション作家の半藤一利氏が90歳で死去された。昭和史の研究が主たる仕事であり、『日本のいちばん長い日』が最も知られた著書ではないだろうか。
 同作は過去に2度映画化されており、2015年版の方は私も視聴した。終戦の8月15日も遠くなった感はあるものの、やはり押さえておきたい原作だろう。

2月(3冊)

 17日、新型コロナワクチンの国内接種が始まった。その後、9月13日時点でワクチンの2回目接種を終えた人が全人口の50%を超えている。一方、この新型ワクチンは人類が初めて経験する原理に基づいたものであり、安全性に疑問符を付ける人もある。実際、接種後に心筋炎等を発症する例も少なからず報告されているようである。
 ワクチンへの危惧、あるいはその安全性を訴える本は幾つも出ているが、上掲の1冊は、血管疾患や循環器を主に研究してきた医師によるワクチン懐疑論である。
 いずれにせよ、ワクチンの安全性(危険性)は時間が経つことでしか確かめることができない。経過した年月ごとに適切に報告されるとよいのだが。

 27日、「ポケットモンスター」シリーズが誕生から25周年を迎えた。私としてはポケモンと縁遠く、数年前にリリースされたスマートフォン向けゲーム『ポケモンGO』を少しばかり(トレーナーレベル35くらいまで)遊んだに過ぎないが、本シリーズの知名度が抜群なのは肌感覚として知っている。
 このシリーズへの考察を中沢新一氏が試みたのが、上掲書である。もともとはシリーズが始まった直後といえる1997年に書かれたものの再版らしいが、タイトルになかなか惹かれるものがある。

 28日、みずほ銀行のシステムトラブルが発生、4,318台のATMが一時停止し、通帳やキャッシュカードを取り込むという事態となった。その後もシステムトラブルが繰り返され、12月30日にも起こったものを含めると、全9回となった。
 根本的な原因としては、システムに対する経営陣の理解不足(と、それに端を発した予算削減)が囁かれているが、真相は明らかでない。上に挙げたのは、そのトラブルにかなり突っ込んだと言われる『東洋経済』誌の特集号である。メインではないものの、私もみずほ銀行に口座を持っている。世間への影響が大きいメガバンクには違いないので、来年こそは円滑なシステム運営を実現していただきたい。

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森下典子『日日是好日』の感想

日日是好日―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ (新潮文庫)
(2019年10月読了)

 以前から読みたいと思っていたのだが、たまたま出入りしている取引先の人から文庫版を譲ってもらえた。著者の実体験に取材したと思われる「お茶」――茶道と人生についての随想録である。記事のタイトルからは省いたが、副題として「「お茶」が教えてくれた15のしあわせ」とある通り、著者が茶道を始めてからの日々が、おおむね時系列に沿うかたちで綴られている。

 あらかじめ書くと、私は茶道にほとんど縁がない。「ほとんど」としたのは、幼少期、通っていた保育園でなぜか「お茶の時間」があったためである。恐らく園でいちばんの古株だった保母さん(当時は保育士という言葉もなかった)の企てによるものだったのだろう。
 ともあれ、その「お茶の時間」で、器の鑑賞や作法や茶菓子の味わい方などに触れたことはあるといえる。しかし、もちろんそれは5~6歳児なりのものに違いなく、それ以来、お茶といえば湯飲みで煎茶か番茶という生活だったので、やはり茶道には「ほとんど縁がない」というのが妥当であろう。

 くだくだしく書いてしまったが、そういう人間の読んだ感想とご理解いただければと思う。以下、いつものように概要から記そう。

概要

 25年前、当時大学3年生だった「私」(典子)は、突然の母の勧めによって茶道を習う事になる。先生は、「私」の家の近所で茶道教室を開いている「武田のおばさん」。同い年の従姉妹ミチコと同時の入門だった。

 ただお茶を淹れて飲むだけという中の、驚くほどの決まりごとの数に「私」は驚き、知らず侮りの心を持っていた己の無知を悟った。作法を懸命に頭で憶えようとする「私」だが、先生はそれをたしなめ、慣れるよう指導する。
 少し慣れ始めても、季節の移り変わりによって茶の道具も作法も次々と変化し、そのたびに憶えなおしになる。「今」に集中せよと語る先生の、おじぎやお点前を見て「私」はその自然な美しさに心打たれた。
 先生に連れられて行ったお茶会では、まるでバーゲンのようだという印象を抱きつつ、多くの「本物」を見て、自分たちよりはるかに年上の茶人たちが口にする「勉強」ということの意味を改めて考えた。
 四季折々の移り変わりをみせる和菓子や茶道具、茶花に掛け軸を、「私」は五感で味わうようになっていく。それは「私」に新たな感覚を開かせることにつながった。

 大学を卒業し、お茶の稽古の年数も積み重なって難しいお点前を習うようになった「私」だったが、いまだ出版社のアルバイトでしかないことに焦りがつのる。そんな私を、先生は時に「心を入れる」ようたしなめ、時に無言の気遣いで励ましてくれた。「私」が大きな失恋に遭った時には、先生と教室の仲間たちは変わらぬ関係をもって支えてくれた。

 稽古の年数は重ねたが、「私」の上達は鈍いようだった。才能ある新人たちを見て焦り、思い詰めて教室を辞めることも考える「私」だったが、初めての「茶事」の稽古で「亭主」役を任され、断片的だった個々のお点前を一体のものとして理解する。体の内から聞こえてきた「このままでいい」という声を、「私」は肯定した。最愛の者の死に「一期一会」を思い、煩わしい日常から離れた茶釜の「松風」の音には、「無」を思った。

 稽古を始めて15年目の6月、驟雨の中の稽古の最中に、「私」は自由で満ち足りた心地を味わう。これまで幾度も目にした「日日是好日」という言葉の意味を、理解した瞬間だった。先生が作法にだけ口を出し、そうした気付きについて何も言わないのは、それが言語で伝わるものではなく、自らが学ぶしかないものだからなのだ。

 お茶を始めて24年が過ぎたが、変わらず週1回の稽古は続く。12年に1度しか使わない干支の茶碗を見て年月の悠久とひとりの人間の生の短さを思いつつ、「私」の茶道はまた新たな一歩を踏み出した。

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新潮文庫『Mystery Seller』の感想


(2019年10月読了)

 8人の作家による短~中編ミステリ8本を集めたアンソロジーである。本書が出たのは2012年のことで、確か刊行後ほどなく入手した。収録されている、有栖川有栖氏の〈学生アリス〉シリーズの1篇「四分間では短すぎる」が目当てだったと記憶する。その頃まで、この短編は読むことが難しく(『小説新潮』 に掲載されたのみで、これを収めた短編集『江神二郎の洞察』の刊行も半年以上先のことだった)、本書で読めると知って手に入れたのだった。その後、「四分間……」だけ読了し、ずっとそのままになっていたのを掘り出して読み終えた。
 『Mystery Seller』というタイトルだが、姉妹企画として『Story Seller』『Fantasy Seller』なども存在する。シリーズ展開を睨んで編まれたものと思われるが、複数刊行されたのは『Story Seller』のみのようである。

 以下、例によって各作品の概要を示すのだが、本書に収められた短編が、その後それぞれの著者の本に再収録された例もかなりあるようである。「四分間……」もそうだが、本書収録の作品がシリーズものの一部である場合があり、その追跡に便利だと思うので、そうした本が存在する場合は併せて示すこととする(複数ある場合は、なるべく入手が容易なものを優先)。

概要

進々堂世界一周 戻り橋と悲願花(島田荘司

 9月の日曜日、勉強に疲れた受験生の「ぼく」(サトル)は、勉強を教えてもらっている京大の医学生・御手洗を誘って、一条戻り橋まで散歩した。サトルは御手洗に橋の逸話を語り、欄干のたもとに挿されていた彼岸花を見つけた御手洗は、この花に関する諸々を語る。やがて御手洗の話は、ロスアンゼルスで出会った韓国人男性チャン・ビョンホンの辿った半生に及ぶ。それは、彼岸花と太平洋戦争にまつわる数奇な物語だった。

 戦争中、日本統治下にある朝鮮のクァンジュで暮らしていたビョンホンは、姉ソニョンに同行することを許され日本に渡る。優秀な姉は、日本で女学校に通え家計の助けにもなると女子挺身隊の募集に応じたのだった。
 しかし日本で姉弟を待っていたのは劣悪な環境下での労働だった。ササゲら日本軍人の指導官から厳しい叱責が飛ぶ中、挺身隊は気球作りに追われる。富号作戦――風船爆弾によるアメリカ攻撃のためのものだった。
 失意と暴力に苛まれ、姉弟のササゲへの怨恨がつのる。そんな折、ビョンホンは、母の従姉妹である張村仁美ら夫婦が暮らす高麗川村での養生を許される。ビョンホンを出迎えた仁美は、高句麗人が植えたという朝鮮由来の花・曼殊沙華を誇らしげに紹介した。
 高麗での暮らしは楽しく、権という友人もできたが、ほどなくビョンホンが労働に戻る日が来た。帰還直後、決定的な場面を目撃したビョンホンは、曼殊沙華の球根を使ってササゲに復讐しようと決意するが、それは不可解な失敗に終わった。

 突然、労働は終わりをつげ、姉弟は祖国に帰ったが、日本の協力者とみなされた一家にあったのは困窮と孤立の日々だった。姉のお荷物になりたくないビョンホンは単身で高麗川村に移るが、運命は定住を許さなかった。アメリカ西海岸に渡った権に招かれ、今度はビョンホンはロスアンゼルスを訪れる。
 ロスに場違いさを感じて去ろうとするビョンホンを、権はある場所に案内する。そこには、目を疑うものがあった。積もった怨恨と陰鬱な作戦に幾つもの偶然が加わり、悲願の花を天から降らせた。仏典にあるように。
(再集録:『進々堂世界一周 追憶のカシュガル』/『御手洗潔進々堂珈琲』〔文庫化時改題〕)

四分間では短すぎる(有栖川有栖

 10月になっても、夏に味わった矢吹山での経験を引き摺っている有栖川有栖。後輩を元気づけようと、英都大学推理小説研究会(EMC)の先輩らは「無為に過ごすため」の会を企画する。開催場所は、EMCの長老こと江神二郎の下宿である。
 開催当日、家庭教師の約束があったことを思い出し、京都駅の公衆電話から急遽キャンセルの連絡を入れたアリスは、隣で話す男の会話に興味を惹かれる。
 「四分間しかないので急いで。靴も忘れずに。……いや……Aから先です」――いったい何のことなのか。

 その夜、“無為の会”の最中に話題提供を求められたアリスは、京都駅の電話での一件を語り、その意味を問う。一同は乗り気となり、かくして『九マイルは遠すぎる』ゲームが始まった。
 松本清張『点と線』の問題点に触れ、4分間と靴の意味を考察し、チョコレート煎餅をつまみ、時刻表を当たって、推論は徐々に形を成していく。それは根拠の乏しいものには違いなかったが、瓢箪から駒という言葉もある。アリスは、改めて先輩たちに感服し、感謝した。ゆっくりと秋の夜は更けていく。
(再集録:『江神二郎の洞察』)

夏に消えた少女(我孫子武丸

 「私」は、後方支援担当の警察官。女子小学生が誘拐された事件のために、関係者の家族の家を訪れた。付近の公園で小学生の女子児童が中年男性に連れ去られる姿が目撃された。目撃者によるとお宅の夏紀さんのようだ。母親は錯乱状態となり、仕事中の父親を呼び戻す。件の中年男性には、この近辺で相次いで起きている女子児童の誘拐、悪戯、殺害の容疑がかかっている。被害者の身に危険が迫っていた。
 数時間前、38歳の誘拐犯は、公園で1人の少女に声をかけ、言葉巧み車へと乗せた。車は、人気のない山奥へと向かう。
 父親が慌てて帰宅し、事情を知ると大いに狼狽した。が、ほどなく「私」にあることを語り出し始めた。

 山中で、誘拐犯は本性をあらわし少女を苛む。しかし、間一髪で警察が間に合い、犯人は確保。少女は無事に保護された。
 父親の証言通りだった。我が子についての心当たりから、この山の場所を教えたのだった。
 「私」は考える。我が子のことを思うと、夏紀の母親には同情を禁じ得ない。表面上は良い子ではある。しかし、今度の事件のようなことを起こさないとも限らない。そう考えると「私」は眠れない。

柘榴(米澤穂信

 親に似ず美しく育った皆川さおりは、大学のゼミで出会った佐原成海と婚約する。不思議な魅力で異性を惹きつける鳴海との結婚に、母は賛成し父は反対するが、さおりの妊娠により否応なく話はまとまった。

 さおりは2人の娘――夕子と月子の姉妹を産んだ。自分に似て美しい2人を、さおりは愛した。一方、成海は家庭に居つかなかった。夕子の高校受験を控え、さおりは離婚を決意する。成海は同意したが、親権は主張し裁判となった。娘たちと暮らしてきたさおりは、裁判の勝利を疑わなかった。もつれた審判の結果が言い渡される。

 鬼子母神の言い伝えにある柘榴を、夕子は父とともに密かに食べていた。母の情念と多産を象徴し、ペルセポネが冥界にさらわれることとなった柘榴の実を。そしてまた、その冥界の女王さながらに、彼女の嫉妬は深かった。
(再集録:『満願』)

恐い映像(竹本健治

 ある日「僕」は、テレビを観ていて突然とてつもない恐怖感に襲われる。どうやらそれは、あるCMの赤い花が咲き乱れる映像によるものらしかった。たまらず医者にかかると、精神科医の天野は恐怖の根本的な原因を取り除くべきと助言する。

 映像の撮影場所を突き止めた「僕」は、その撮影場所――静岡県二見市にある天宝神社の脇の山道を登った先の廃墟――に赴く。現地に着き、廃墟へ向かう途中、「僕」は地元民らしい女性ナオと打ち解け、2人で廃墟に向かうこととなる。そこで彼らは、「僕」と同じように廃墟にやって来たらしい女の姿を目撃するのだった。
 帰り道、かつて数か月ほどこの町の小学校に通ったことを思い出した「僕」に、ナオは、そのころ例の廃墟で起きた殺人事件のことを語る。殺されたのは、「僕」の友人だった少女、秋元由紀。犯人として逮捕されたのは奥田惣一という壮年の男だったという。
 泊まった宿で「僕」は廃墟で見かけた女、坂口沙羅と再会する。近隣出身の彼女は、例のCMで秋元由紀の事件を思い出し、やって来たのだと語る。逮捕後ほどなく病死した奥田は冤罪であり、真犯人を探しているという彼女の話が、事件現場にあったという奥田の持ち物――花の種の入った小瓶――に及んだ時、ふたたび「僕」を恐怖が襲った。不確かな記憶に「僕」は苛まれる。

 自宅に戻った「僕」は憔悴する。再び受診した「僕」を天野は巧みに回復させ、「僕」の二見での経験を解きほぐした。「僕」の得た情報を元に、天野は真相を指摘する。それは、事件に所縁ある者らの協働と分岐と言えた。
 重いものを背負ったものの、恐怖の正体を知った「僕」の心は安らぐ。同時に、16年前に失われた者を思い、涙がこぼれた。
(再集録:『かくも水深き不在』)

確かなつながり(北川歩実

 専門学校生の安川美空が誘拐された。作家になりたいという夢を利用されたものらしい。美空の友人・瀬戸葵を介して依頼を受けた中島英香は、彼女の捜索を開始する。
 犯人として浮かび上がったのは原山保。美空の実父である産婦人科医・井波敏夫の古い友人だという。同級生だった井波と原山、そして高村春奈。3人をめぐって起きた出来事を井波は語る。
 原山の父が雇った調査員・南雲は、原山が実家の金を持ち逃げし姿をくらましていると告げ、井波に接触してきた原山の協力者・平良は原山の目的を“失ったものを取り戻す”ことだと言う。

 英香と井波は、美空が監禁されている場所に潜入を試み、原山と対峙する。真相が明かされるが、つながりを求めた者の愛は報われず、今また一つのつながりが断ち切られた。打ちひしがれる被害者の背中を押し、英香はその場を後にした。

杜の囚人(永江俊和)

 美知瑠は、兄だと紹介しながら孝雄をビデオカメラに収める。2人の別荘暮らしは穏やかに始まったものの、庭で見つけた石や裏山の古井戸、別荘をめぐる新興宗教結社の噂話が不穏な影を落とす。未知瑠の思惑と孝雄の思惑が絡み合う。誰が「越智修平」なのか。その様を、ビデオカメラはとらえ続けていた。

 結末が訪れると、彼は安堵した。全ては“人類の再生と未来の代償”であった。
(再集録:『掲載禁止』)

失くした御守(麻耶雄嵩

 文字通り霧の多い霧ヶ町で幼馴染の美雲真紀と日常をやり過ごす、寺の息子の「俺」――優斗。ある日「俺」は、うさぎ神社に初詣に行った時に買った兎のマスコット御守を失くしたことに気付く。真紀とペアで買ったもので、紛失したことを真紀に知られるのはまずい。
 そこに、悪友の武嶋陽介が事件の報をもたらす。町の旧家である鴻嘉家の令嬢、恭子が駆け落ちしたのだという。しかし、駆け落ちの相手である国語教師の與五康介とともに、恭子は遺体となって見つかった。

 2人が“心中”した現場である山城公園を陽介とともに訪れたり、真紀の追及をかわしたりしつつ、「俺」の御守探しは続く。並行して、恭子たちの心中について続報がもたらされていく。積雪に囲まれた現場の四阿(あずまや)、軟禁同然だった鴻嘉の家の自室から煙のように消えた恭子。異なる2人の死因――。寺の離れで“なんでも屋”みたいなことを営んでいる「俺」の叔父は、仕事として恭子の見張りについていたと語る。

 恭子の葬儀が営まれた日、御守を探し回って万策尽きた「俺」は、最後の望みをかけて叔父の離れを訪れた。ふとしたことを切っ掛けに、叔父の口は“心中”の真相を紡ぎ出す。全てが解決し、「俺」は晴れやかな気持ちで離れを後にした。
(再集録:『あぶない叔父さん』)

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