尾中香尚里『安倍晋三と菅直人 非常事態のリーダーシップ』の感想
久しぶりに大きな選挙があることから、関連する本の一つも読んでみようと思い立って入手し読んだ。他にも政治や選挙を見越した新刊は多く出ているわけだが、特に本書を選んだのは、菅直人政権――民主党政権を再考する視点を備えたものだからである。
素朴な感覚として、2009年から2012年の民主党政権が“悪夢”であったかは議論の余地があると思っている。無論、まずい点も多々あったのは確かなのだが、社会の活気という意味では、当時の方がまだ勢いがあった気がしている。
こうした話をする際、多くの場合に基準になるであろう「仕事が順調であるか」は、残念ながら私にとっては適用し難い。というのも、民主党政権時代の私は会社勤めの編集者であり、その後の自民党政権ではフリーランスと、大きく仕事環境が変わったためである。単純に収入という意味では、賞与も貰っていた民主党時代の方が明らかに多いし、肉体的・精神的には現在の方が楽である。
そのようなわけで、自分以外の様子から当時と現在を比較せざるを得ないのだが、その点からすれば、前述のように現在の世の中は元気がないと感じられる。私の仕事はあまり世の中の景気などに変動しない分野が主なのだが、それでも「お金がないので(ついでに時間もないので)安く上げたい」という話をよく聞くようになった。友人の多くは「昔より生活が厳しい」と言うし、好きだった飲食店のうち結構な数が閉店した。
新型コロナウイルス感染症の影響が大きいのは確かである。感染者の抑制という意味では、海外に比して日本の状況は良いようにも思われるが、それにしてももう少し、人々の生活をバックアップすることはできなかったのかと思う。
上記のような「もう少しコロナ対策が上手くできなかったのか」という疑問に、本書はある程度まで応えてくれたように感じた。以下、例によってまずは概要を示したい。コロナ禍が発生して以降の概略として読めるように書かれているようにも思えるので、その点が損なわれぬように心掛けたつもりである。
概要
はじめに
2020年8月28日、安倍晋三首相(当時。以後すべて役職は当時のもの)は突然辞任を表明した。7年8か月に及んだ政権にあっけなく幕が下ろされた瞬間だった。悲運の宰相を自演するその姿に、筆者は違和感を覚えた。毀誉褒貶がある安倍政権の、結果的には命取りとなった新型コロナへの対応と、事実さえ歪めて(安倍氏がメルマガで言及した、「菅首相が原発への海水注入を中断させた」という言説は誤報であった)批判・断罪された菅直人政権の東日本大震災および福島第一原子力発電所事故への対応。当時、震災・原発事故への対応を間近で取材してきた身として、筆者は両者の比較を試みたい。
第1章 危機をどう認識したか
2019年末から2020年初頭にかけて、東京五輪と中国の習近平主席の来日を前に、第2次安倍政権は「桜を見る会」の私物化疑惑で1強体制に陰りをみせた。
そんななか発生した武漢での新型コロナウイルス感染症の流行に対し、チャーター機を派遣するなど政権の対応には手早いものもあったが、水際対策にこだわり、国内に入り込んだ市中感染に対しては後手を踏んだ。クルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号での感染拡大についても、対応は二転三転した。
2011年3月11日に発災した東日本大震災を、菅直人政権は政権危機の状況で経験した。震災に引き続いた福島第一原発の事故の状況が官邸に上がってこないことから、菅首相は批判覚悟で現地視察を行い、同所長の吉田昌郎と面談し情報を得た。自衛隊に10万人動員という「無茶ぶり」は、辛くも実現された。
危機について、安倍政権は「小さくみた」、菅政権は「大きくみた」という違いがあると思われる。
第2章 国民の権利と義務をどう扱ったか
新型コロナウイルスへの対応に際し、安倍首相は憲法の改正に触れた。しかし、国民への「強権発動」は、現行法制下(2012年に成立した「新型インフルエンザ等対策特別措置法」)でも可能であったことが示唆された。野党は同特措法の適用を求めたが、政府はこれに反し感染症法と検疫法を適用する。これは「新型コロナの市中感染が起きていない」という前提に立ったものだった。
その後、市中感染は拡大、政府は一度示した「適用外」という認識を翻すために特措法の改正を行い、新型コロナに適用するに至った。野党が適用を求めてから、1か月半近くの時間が経過していた。
安倍政権は、特措法適用以前の時点で、大規模イベント自粛呼び掛けや小中高校・特別支援学校の臨時休校など私権を制限する措置を、法的根拠のない「要請」という形で求めていた。一方、特措法が適用され法的根拠が備わった後には、同法に基づく緊急事態宣言の発令(=補償を含む様々な対応が必要になる)を、安倍首相は3週間躊躇。しびれを切らした自治体には、独自の緊急事態宣言(法的根拠はない)の発出に踏み切るところも出てきた。
緊急事態宣言の発令にあたり、安倍首相は「直接の補償は行わない」(4月7日)と発言、国民に求めた行動変容に対し十分な対応だったとは言い難い。
宣言の延長に際し、安倍首相は政権よりも国民に、その責任を求めたように思われる。さらに、罰則を伴う仕組みや、改憲にも話が及んだ。コロナ禍に対する充分な補償もせず、失敗を国民の責任とし、私権を制限する改憲にすら繋げようという姿勢がほの見える。
福島第一原発の事故による私権制限も、厳しいものだった。極めて深刻な同原発の状況を受け、菅政権は原子力災害対策特別措置法(原災法)に基づいた原子力緊急事態宣言を、史上初めて発令した。この宣言は、現在(2021.10.30)も解除されていない。
緊急事態宣言発令に際し、首相官邸ではスタッフ総出で「六法全書」と首っ引きとなった。これは、同宣言下で首相にどれだけの権限が与えられるかを確認するものだった。結果、相当に強い権限があることが確認され、「避難指示」という「強権発動」がなされることとなる。
事態が悪化し、東京電力が第一原発から「撤退」する意向を匂わせた際、菅首相はこれを一蹴し、政府・東電が一体となった「対策統合本部」の発足を提案した。
文科省の「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)」を活用できなかったという点は課題としてあるが、第一原発への対応をめぐる多くの「強権発動」は原災法に照らしたものだった。「強権発動」に際して法的根拠を確認し、その発動に対する補償を十分に行ったか否か。その点で安倍政権と菅政権は対照的である。
第3章 国民に何を語ったか
2020年2月29日、安倍首相はコロナ禍で初の記者会見を行った。長い冒頭発言の最初に来たのは、まず自らの決断のアピールだった。次に突然の一斉休校に振り回される自治体・学校関係者への感謝があり、「緊急対応策第2弾」の説明、そしてようやく亡くなった人や遺族へのお悔やみの言葉が出た。医療関係者への労いは、さらにその後も続いた発言の最後だった。同会見で「責任から逃れるつもりは毛頭ない」とした安倍首相だが、質疑応答の際、フリージャーナリストの江川紹子氏の挙手に答えず会見を終了した。
緊急事態宣言を発令した4月7日の会見では、政策が失敗し感染が拡大した場合の責任の取り方についての質問に「責任をとればいいものではありません」と回答。同じ会見で「最低7割、極力8割」とした接触機会の削減目安については、あくまで「8割」とした専門家の見解を安易に歪めたものとも考えられる。宣言の延長を発表した5月4日の会見では、延長よりも早期解除の可能性の方が強調されることとなり、国民には「解除近し」の空気が生まれることともなった。
「37.5℃以上が4日間」という受診の目安を「誤解」とした加藤厚労相の発言からも感じられるが、安倍政権における情報発信とは、第一に成果の誇示であり、責任ははぐらかし、もし責任を問われれば「国民の誤解」にすり替えて転嫁する、という特徴がうかがえる。
東日本大震災と福島第一原発事故に際し、情報が集らない中で菅首相や枝野官房長官は会見を小まめに実施し、国民への呼びかけを重ねた。第一原発1号機の爆発に当たっては、東電や原子力安全・保安院からの情報が共有されないまま会見に臨んだことで「爆発的事象」という造語が生まれることもあった。
「首相官邸が保安院の会見を止めようとした」という言説は、独自に記者会見を開こうとした保安院に対し、官邸が「事前に情報共有せよ」と伝えたことによるものであり、枝野官房長官の「直ちに影響はない」は、切り取らずに発言全体をみれば「直ちに」だけでなく将来的な影響についても否定的なものであった。同時に出荷制限等に対する適切な補償にも言及している。
避難所を訪れ、豪首相と会談の予定があるため立ち去ろうとした菅首相に被災者の夫婦が投げかけた「もう帰るんですか」という発言が有名になったが、直後に首相は取って返すと夫婦の話を聞き、豪首相との会談は30分以上遅れることとなった。2度目の避難所視察では、避難所の約1,200人ほとんどと菅首相は言葉を交わし、可能な限り一問一答に応じた。視察時間は5時間に及んだ。震災と原発事故という危機において、批判にさらされ、仮に不当なものがあったとしても、受け止めるのが首相の役割であったと筆者は考える。
新型コロナ禍において、ドイツ、ニュージーランド、台湾の各首脳は、厳しい私権制限を行いながらも適切な情報発信と人々に寄りそう言葉を投げかけ、おおむね支持された。翻って安倍首相はTwitterに投稿した「うちで踊ろう」に合わせた動画で多くの国民の顰蹙を買った。自身がくつろぐ様を見せる動画は他国の首脳も投稿しているが、その前にあるだろう「国民のために真剣に汗を流している」さまが国民に伝わらなかった点で異なるといえよう。
第4章 国民をどう支えたか
新型コロナ禍におけるPCR検査について、安倍政権は当初、検査能力の拡充ではなく、検査を受ける人数の抑制で対応しようとした。安倍首相は「検査能力を増やす」としたものの、検査の実施件数はさほど増えなかった。首相と厚労省との温度差も考えられるし、この30年で保健所が半減したという長期的な政治の流れによるものとも言える。
マスク不足に対応して行われた「アベノマスク」も、世帯の人数にかかわらず一律2枚という不適切さで世を呆れさせた。向けられた批判に対して、安倍首相は苛立つばかりだった。マスクには瑕疵も発覚し、ために配布が遅れ、さして重宝もされなかったアベノマスク配布には、466億円の予算が費やされた。
安倍政権の国民への補償としては、緊急対応策の第2弾で本格化された。しかし、フリーランスへの保障が会社員の半額であろうという根拠不明瞭な差があった(とはいえ、「働き方改革」を言いながら、自営業者やフリーランスに対応した法整備が進んでいないのは、ここで初めて起こったわけではない)。
特別定額給付金をめぐっては、まず野党統一会派が緊急対策に「ひとり一律10万円以上給付」を盛り込んで政府に申し入れたが、政府与党はこれを拒否し、「世帯限定30万円給付」とした。しかし「条件が分かりにくい」と反発が生じ、「一律10万円給付」となった。麻生太郎財務相は高所得者層に対し、暗に給付の辞退を求める発言をした。政府が積極的な利用を呼び掛けたオンライン申請の煩雑さや、自治体に生じた事務作業の膨大さもあって給付は遅れ、さらに経産省の委託先をめぐって中抜き疑惑も取り沙汰された。種々の助成や給付についても、手続きの煩雑さや対応の遅れがみられている。
緊急事態宣言の解除に際し、安倍首相は「新しい生活様式」と言ったが、それは「コロナに感染しない生活を国民に自発的に守らせ、感染すればそれは自己責任にする(政府は責任をとらない)」という、責任転嫁された緊急事態宣言ではなかったか。
福島第一原発の事故をめぐっても、原発周囲の住民に対する避難指示と、これに応じた賠償が生じた。対応した仙谷由人官房副長官は、賠償に関する東電の免責を「責任は第一義的に東電にあり」として拒んだ。東電にどれだけ負担させるかで政権内でも議論が交わされたが、賠償の責任主体は東電にあるとした上で支援機構を設立し、賠償資金を政府が支援するスキームを作った。「東電救済」との批判があったが、責任の主体である東電が破綻し賠償ができなくなることを回避しつつ、これまで国が行なってきた原発推進政策の責任も蔑ろにしない形にせざるを得なかった。
総じて、安倍政権は「補償」を嫌い、「経済対策による支援」を重視し、その経済対策も可能な限り対象を絞り込もうとしたといえる。また、「新しい生活様式」を提唱して国民の自助努力のみに期待し、奏功しなければ国民の責任とした。菅政権の賠償スキームが正しかったとも言い切れないが、被害を過少に見積もらず補償し、全責任を東電に押し付けることもなかった。
第5章 政治の責任をどう取ったのか
2020年6月18日、通常国会の閉会に際し、安倍首相はコロナ禍が終わったかのような口ぶりで語り、「次なるパンデミック」の備えとして改憲を口にした。しかし、川井克行前法相・案里参院議員の公選法違反容疑による逮捕、黒川弘務東京高検検事長の定年延長をめぐる人事介入疑惑、「イージス・アショア」の配備中止など、政権の失点は重なった。
そんな中、コロナ禍への対応を念頭に野党は国会の会期延長を求めたが、与党が応じることはなかった。その代わりに与党は10兆円の予備費を2020年度の第二次補正予算に計上したが、これは国会のチェックを経ずに巨額の金を使えることになるとして、問題視された。
会期延長に応じなかった与党に対し、野党は週1回の閉会中審査(予算や法案を成立させることはできない)を要望、これは了承されたが、安倍首相は出席しなかった。憲法53条に基づき、野党は臨時国会の召集を要求するものの、同条に時間的な規定がないことから安倍首相は無視を続けた。国会閉会中、「Go Toキャンペーン」が前倒しで実施開始されたが、感染者が増加傾向にある東京都について問題視され、都民の旅行と東京都内への旅行は対象外とされた。
通常国会閉会以降、記者会見から遠ざかった安倍首相の体調不良が、官邸から聞こえ始めると、8月28日、記者会見を開いた安倍首相は、今後のコロナ対策などについて述べ、それから自身の辞任を表明した。その理由は持病である潰瘍性大腸炎の悪化だったが、1か月後には細田派の政治資金パーティーに出席するなど、辞任には疑問が残る。首相への再登板すら言及されるようになった安部氏だったが、「桜を見る会」事件をめぐる不起訴処分について、東京第一検察審議会が「不起訴不当」と議決している。本書執筆時点で、安部氏は検察の捜査を受けるべき立場にある。
菅首相もまた、東日本大震災・福島第一原発事故から5か月半を経た8月26日に辞任している。それ以前、5月6日には浜岡原発の運転停止を行政指導という形で要請した。法的根拠が伴わず、「浜岡以外の再稼働を容認する」との解釈を許さないため、海江田経産相に任せず、自ら会見に臨んだ。浜岡の件とほぼ時を同じくして菅首相は、原発を推し進める「エネルギー基本計画」を白紙に戻すことを決めた。
自身に対する辞任要求の動きが高まる中、菅首相は第二次補正予算、再生可能エネルギー促進法、特例公債法の成立の3点を辞職の目処とする。通常国会は8月31日まで70日間延長され、その間には九州電力の玄海原発再稼働をめぐる議論と、最悪の事態を想定した安全調査(ストレステスト)の導入といった動きもあった。前述の3つの目処が立ったことを受け、菅首相は辞任を表明した。
危機に続く期間、安倍首相は国会を閉じ、菅首相は延長して対応した。また退陣後の政治の方向性について言えば、安倍首相は新たなコロナ対策(「パッケージ」とは言えない刹那的にとどまるもの)を発表するのみだったが、菅首相は脱原発依存への布石を打ち、それは一定の実効性を持ち得た。
終章 歴史の検証に耐えられるか
菅政権は震災に関する15会議中、10の会議で議事録を作成しなかった。このことは岡田克也副総理が就任した際に把握することとなり、出席者の個人的メモや録音などから議事録の復元に努めることとなった。自民党はこのことを口を極めて批判した。
しかし、新型コロナ禍をめぐる会議では、自民党も同様に議事録の作成を怠った。全体的な「対策会議」の前に、安倍首相や菅官房長官など少人数による「連絡会議」が持たれており、その議事録が存在しなかった。前述の民主党による議事録不作成を受け、国の公文書管理ガイドラインが定められたが、これに基づく「歴史的緊急事態」にコロナ禍が位置付けられ「適切な文書の作成・保存」が求められた19の会議のうち、実際に議事録が作成されたのは対策本部などの4会議にとどまった。「連絡会議」だけでなく、ウイルス対策などの専門家会議の議事録も作成不要とされており、それが出席者の要望であるかのような答弁もあったが、逆に出席者から議事録作成の要望があったことも明らかにされている。
「記録」についても不備があるが、当事者たちの「記憶」についても懸念される。菅政権を担った政治家たちは、震災と原発事故について、その対応について、鮮明な記憶を保持していた。一方で、既に何ら具体性のない安倍元首相のインタビューからはコロナ禍に対し「自分ごと」として対応した経験をしたとは感じ取れない。他者への批判と自画自賛だけのあるその言葉には不安しか感じられない。
おわりに
本書の脱稿直前、菅義偉首相も約1年で辞任することとなった。「経済を回す」ことに固執した同政権は、安倍内閣をより悪い形で繰り返した。5人以上の会食を自ら行い、関係者を特別扱いして五輪を開催し、飲食店を狙い撃ちし国民を分断した政策は、人の流れを抑えられず、8月5日には東京の新規感染者は5,000人を超え、コロナ禍による死者数は東日本大震災における死者数を超えた。統治者の「権力の使い方」を注視しなければならない。
過ぎ去った年(2020年)におくる34冊
「今さら何を」 という感が強いが、 せっかく書き上げたので公開することとする。未曾有の状況の中、あわただしく過ぎ去っていった去年に捧げたい本のリストである。例年通り、世間で話題の本にはそれほど拘らず、個人的に気になった・心に残った本、人に薦められた本、触れて心に残った本などを時系列で挙げる。
ここまで書くのが遅れた主な理由としては、例によって主に私の怠惰がある。ただ一方では、新型コロナの流行によって仕事が大きく様変わりした(平たく言うと多忙になった)ということも無視できない。
もう2021年も中盤にさしかかった今、むしろ急ぐ必要もあるまいと半ば開き直った気持ちで、今回は月毎に、当時の世の中と私をめぐる簡単な記載も書き留めてみよう。では、2020年1月から。
1月(3冊)
2020年の年明けの頃は、まだ新型コロナも「外国の話」という雰囲気が漂っていた。私もまた、仕事の準備やら何やらで忙しく、コロナについては頭の片隅にある程度だったと記憶している。しかし、ほどなくヒト‐ヒト感染が確認され、国内でも感染者が出始めると、社会は次第に切迫の度合いを強めていった。
15~16日にかけて、日本国内での新型コロナウイルスの感染者が初めて確認された。以降、対応の拙さが目立ち(もっと巧くやれたはずだ、と今も私は思っている)、日本も他国と同様に新型コロナウイルスへの対応に苦慮していくこととなる。
上掲の1冊は、2020年12月30日に、菅義偉首相が年末年始に“勉強”するために購入したと報じられた新書である。本書の刊行は同年9月なので望むべくもなかったが、安倍氏ともども、せめて類書をこの年頭の頃に手に取ってくれていれば、少しは何かが違ったのかもしれない。
17日、 阪神・淡路大震災の発災から25年という節目を迎えた。当時はまだ実家暮らしで神戸に行ったこともなかった私だが、それから神戸を訪れもしたし、東日本大震災や熊本地震ではその被害を実感することともなった。
上掲の電子書籍は、報道カメラマンの著者が当時の体験を綴ったものである。実は2021年になってから刊行されたものだが、本記事を書くのが遅れたおかげでここに収めることができる。
31日、黒川弘務東京高等検察庁検事長の定年延長が閣議決定された。しかしその後、世間の反発と黒川氏の辞任を受け、6月に本件は廃案、これをもって「かろうじて政権の横暴が挫かれた」という見方が広がった。
本件について、私はメディアで語られた情報以上のことは知らない。 それらを(なるべく手広く)読む限りでは、やはり横暴であろうと思う。上掲の本は、検察取材のベテラン記者が官邸と検察庁の間での4年間の人事抗争を描いたノンフィクションである。いま改めて手に取ろうとまでは思わないが、やはり2020年を記録した1冊として挙げておきたい。
2月(1冊)
乗客の感染が確認されたクルーズ船、ダイヤモンド・プリンセス号が横浜港に入港したのは2月の3日だった。その対応をめぐって議論が戦わされている頃、世界を戦慄させたこの新型コロナウイルスを、WHOがCOVID-19と命名した(11日)。このウイルスによると思われる国内で初めての死者が出たのもこの頃である。
私はといえば、人が多い場所に出かけるような仕事上の用事を、なるべくリモートで行えるように調整し始めていた。それで無くなった仕事もあったが、新たに頼まれる仕事もあった。どのみち世の中が動かなくなれば休業だろう、という考えだった。
18日、古井由吉氏が亡くなった。2019年に贈る本を選んだ際にも氏に言及したが、それからほどなくの逝去だった。ろくろく読まず、それでもいつか読もうと思っていた小説家を見送るのは、文字通り残念である。
上に挙げたのは、以前も言及した氏の後期の作品。題名の「往生」からの連想などではなく、私の興味からのセレクトである。
筒井康隆『脱走と追跡のサンバ』の感想
以前から気になっていた作品である。ふと手に取ったので、そのまま読むこととした。
題名の「脱走」という言葉からは、村上龍氏の『希望の国のエクソダス』(当該記事)を思い出す。が、社会システムとしての日本からの「脱出」を描いた『エクソダス』と、本作の「脱走」はいささか異なる。まずは概要を示そう。
概要
カスタネットによるプロローグ
以前いた世界から異なる世界に移動してしまったと感じている「おれ」は、以前の世界の自由さを好ましく思っており、今いる世界から抜け出して帰りたいと考えている。
「おれ」は一体いつから違う世界に迷い込んでしまったのか。心当たりは幾つかある。一つは、正子と一緒に公園でボートに乗り、雨に遭って排水口から下水道に入り込んだ時。一つは、やはり正子に連れられて職業適性所なる施設に行き、SF作家にのための奇妙なテストを受けた時。そしてもう一つは、正子が何者かに誘拐され、身代金の渡し場所に指定された自我町6丁目にあるという井戸時計店に行った時。
いずれにせよ、この世界の移動について正子が関与しているらしいと考えつつ、「おれ」は今の世界の情報による呪縛、時間による束縛、空間による圧迫から逃れ、元の世界に帰ろうと行動を開始する。
第1章 情報
氾濫する「にせもの」の情報により、精神が末端肥大症的になっていると考える「おれ」は、情報の供給源であるテレビにかかわる人間に接すれば現状を打破できるのではと考え、テレビ局「本質テレビ」に向かう。住居であるビルを出ると、ほどなく自分を尾行する緑色の背広の男がいることに気付いた。
多くの人間が働くテレビ局だが、本質的なことを語る人間はいない。「本物の世界」への出口があると予期した「おれ」は強硬手段に出るが、その先もやはり虚構だった。
幾度繰り返しても同様で、自分が本気だったか否かをめぐって「スポンサー」と問答するうち、問題はテレビよりもその背後で情報を司っているコンピューターだということに思い至る。尾行してきた緑の男を撒きつつ、「おれ」は局の地下にあるコンピューター室を目指す。
コンピューター室に着いた「おれ」は、立ちはだかった若い女性オペレーターを問答の末に突き飛ばし、核であるCPUに至る。そこにあった無味乾燥なものが情報だとは認められない「おれ」と、それこそが情報であるとする6桁の数字――正子らしき声の言い争いは、やがて「にせもの」か「本物」かの議論となる。
そこに追い付いてきた緑色の尾行者は、自分は尾行者ではないと語るが、「おれ」は疑う。「おれ」が今の世界に違和感を感じているのに対し、尾行者は違和感を全く感じないと言い、その差異を正子の声があざ笑った。
緑色の男とともに情報検索室に逃れ出た「おれ」は、今度は情報検索者たちと言い争いになる。そのさなか、「おれ」情報の中に脱出口が無いことを悟ると、時間が狂っているのだと考え、今度はこれを正そうと言い出す。緑色の男は制止しようとするが、「おれ」は諦めようとしない。
マリンバによるインテルメッツォ
緑色の尾行者は、依頼主に提出する報告書で、自分が如何に真面目に仕事に取り組んでいるかを記して自己弁護する。彼はいま自分がいる「単純明快な世界」に満足しており、以前いた世界を住みにくいところと感じていた。
第2章 時間
緑色の男の尾行を気にしながら、「おれ」はこの世界の時間を監督していると目される「大部分天文台」へと向かう。拾ったタクシーの運転手と時間をめぐる議論をしながら到着した天文台では、台長が応対してくれるが、結局は「時間なんてものは滅茶苦茶」で、確かなものは何もないのだと吐露する。
狂乱の中、緑色の男が自分より前に訪ねて来ていたことを「おれ」は知り、次に男が行ったであろう、原子時計を作っているという「捕縛大学」応用物理学教室に向かった。その先で「おれ」は原子時計について説明を受けるが、原子時計もまた滅茶苦茶であり、天体の運行すらも滅茶苦茶だと説明される。
自然科学的な時間ではなく、主観的な時間に可能性を求めた「おれ」は、今度は自我町6丁目の井戸時計店へと足を向けた。時計店では様々な時間軸の「おれ」が入り乱れており、いつしか映画を撮り始めていた緑色の男に言われて「おれ」は時空を駆け回る。再び「おれ」は井戸時計店に戻るが、そこでは尾行者との立場が逆転していた。
正子を自宅のおんぼろアパートに帰らせると、「おれ」はふんだくった身代金で酒と賭け事に溺れ、流しのギター弾きをしながら老いていった。
いつまでも正子を取り戻しに来ない尾行者に業を煮やす「おれ」だったが、尾行者がかつての「おれ」と同じ立場にあることを知り、尾行者を苦しめることに意義を見出す。
時間が壊れたなかでの追跡と逃亡を繰り返すうち、もはや時間は「おれ」の問題にならなかった。「おれ」が緑色の尾行者を追いかけることすら出来るのだ。
ティンパニによるインテルメッツォ
尾行者は怯える。無限に存在する世界の中には、逆に自分が尾行される世界も存在することに。時間を飛び回ったために、他の自分が蓄積した記憶が全て自分の中に流れ込み、そればかりか追う相手である「おれ」の記憶すら流れ込んだことで、両者の意識が似通ってきていることに。
自分が「おれ」を尾行することに意味が見いだせなくなった尾行者は、尾行を続行するか中断するかの判断を依頼主にゆだねた。
第3章 空間・内宇宙
残された脱出路は空間にしかない。そう考えた「おれ」は、自らに混じり合った尾行者の記憶から、「おれ」の尾行を依頼した者の素性を知り、その人物に会うため、「全然ビル」4階の「告白産業株式会社」へと足を向ける。追いすがる尾行者に「おれ」は、自分はこの世界から逃げ出すのではなく、己の精神力でこの世界を変える、とうそぶき、足を止めようとはしなかった。
尾行者の追跡を交わしながら「おれ」は「告白産業株式会社」の社長室へと向かうと、そこで再び正子と再会した。
「おれ」と正子は歓楽街を歩き、下水道を下る。それを尾行する尾行者。「おれ」は公園のボート借しの親父、井戸時計店の店主、職業適性所の所長らを連れ、尾行者以外と回転木馬に乗る。
怒った尾行者により正子はさらわれるが、既に構図は自分・尾行者・正子の三つ巴であり、自分がこの宇宙の中心であると認識している「おれ」は追跡せず、タクシーを拾ってレストラン「大嘔吐」に向かう。たらふく飲み食いしたが無銭飲食のため捕まった「おれ」は、警察署の取調室で尾行者と正子に再会し、3人が一体となって世界を思い通りにしようとするが、上手くいかず分裂する。
自らに相反する性質を持つ尾行者と正子は己の自我の一部であり、これを殺すことで、独立できると「おれ」は考える。
「おれ」は、がらくたの山の上、ロココ調の宮殿の中で正子を殺し、雪山の頂で、豹の姿をした尾行者を殺した。あとには幾らも残らなかった。
ボサ・ノバによるエピローグ
溜まりに溜まった仕事を片付けていた「おれ」は、その最後である「ドビンチョーレについて」という論文の執筆に手を着ける。いま話題になりつつあるドビンチョーレとは何か、その是非や意義、自分が書くSF作品がドビンチョーレであるか否か、など。論文は報告書となり、書き上げた「私」はその提出先を求め、墓地をさまよう。尾行者と正子の墓は見つからない。墓は「おれ」だった。
不自由を失ったと感じる「おれ」は、新しい不自由を求める。
果たして不自由は現れる。ナイトクラブの片隅で、正子ならぬ股子、尾行者ならぬ尾籠者を始め、これからの登場人物たちが入れ代わり立ち代わり自己紹介を続けていく。パロディばかりで腹を立てる「おれ」に、気分を害した尾籠者がパロディと本物の違いを問うと、「おれ」は即座に反論する。無限に続いていく「おれ」の長広舌。
藤森照信『人類と建築の歴史』の感想
当時、とつぜん建築に関する仕事が入ってくることになり、付け焼刃でも建築について知る必要が生じた。その際に手に取った本の1冊である。
結果的に、あまり仕事の役に立ったとは言えなかったが、スケールの大きさと語り口の軽妙さも手伝ってか、読み通したのは本書だけだった。
ちなみに、仕事で役立ったのは以下のムック本のような有名な建築物のまとめのような本だった(いささか現代建築が多めだが)。同書は、もう紙媒体のものは入手が難しいかもしれないが、電子書籍としてはサブスクリプションサービスである「Kindle Unlimited」の対象にもなっており、手軽に読むことができる。
「建築の歴史」と銘打たれているが、本書の構成は、それを十全に示したものとは言い難い。以下の概要をご覧になれば、その理由が分かるだろう。
概要
第一章 最初の住い
人類がまだマンモスをごちそうとして食べていた頃、風雨を防ぐ場所とは、木や岩の影、洞穴などだった。マンモスの牙や皮を使った仮の宿が作られていたことも知られている。
土器と磨製石器が発明されると、それは農耕(根底には豊饒と多産をもたらす地母神への信仰があったに違いない)、牧畜の開始へと繋がり、さらに磨製石器による伐採・木工技術によって、初めて「家」を持つに至った。それは始め円形で、技術の発展に伴って四方形となった。家が集まり集落となり、それは人々に郷愁を感じるための時間的連続性すらもたらした。
第二章 神の家――建築の誕生
旧石器時代には恵みや多産をもたらす地母神、新石器時代には太陽神への信仰が生まれた。前者は遺跡の内部空間として、後者は巨石などの巨大建造物として表現されている。太陽神への信仰の登場は、農耕の定着によるものと考えられる。
母なる大地と父なる太陽への二つの信仰は重なり合っていた。マルタの神殿と呼ばれる巨石遺跡は、内部に生死を司る地母神、外観に地母神を支配する太陽神を、それぞれ象徴したものである。
内部と外観に神の存在を意識させるための表現が凝らされたこの神殿は、〈住まい〉と区別される〈建築〉の成立を示唆する。新石器時代の神殿の典型例が、ストーンヘンジに代表される「スタンディングストーン(立石)」である。
第三章 日本列島の住いの源流
日本の原始時代も、他と大きく変わるところはなかった。ただ、縄文土器については、世界各地の新石器時代の中でも抜きんでて充実していた。
この時代、円形の竪穴式住居が作られており、材木は主にクリだった。これは磨製石器で加工がしやすかったためと考えられる。例外的に、倉庫は高床式で造られた。
現在、当時の竪穴式住居を復元すると茅葺屋根が美しいが、当時はそれほど綺麗には作られなかっただろう。まだ金属製の刃物などが存在せず、加工が未熟だったことにもよる。
紀元前3世紀ごろに鉄器がもたらされると、弥生式土器も現れ、農業は発展して稲作が始まった。連動して住まいも南方式の高床式住居が見られるようになる。竪穴式は庶民の、高床式はリーダーの住まいとなった。
ある古墳から出土した「家屋文鏡」という青銅の鏡の飾りに示された4つの家は、王の霊が暮らすものと解釈できる。すなわち、夏の家、冬の家、神殿、倉庫ではないか。
弥生時代から古墳時代にかけての建物は、縄文時代に比して、構造、材木という面で進歩した。鉄器による加工が可能になったことも大きく、ここに至って建築は美しさを獲得したとも言える。
第四章 神々のおわすところ
日本における神の住まいはどうだったのか。縄文時代以降について、その様子を知ることができる。縄文時代には、地母神信仰の証として土偶――例えば“縄文のヴィーナス”のような――が多く作られた。太陽神信仰を示すスタンディングストーンも、幾つかの例を認める。巨石でなく巨木を用いる例もあった。
弥生時代以降、神々の居場所がどう変遷したかを伝える例として、沖縄の御嶽、信州の諏訪大社、奈良の春日大社若宮が挙げられる。
御嶽は何もない空間であり、諏訪大社の御柱祭(縄文時代の巨木文化を思わせる)は太陽神信仰を、神が自然の樹木を「依代」とするという湛(たたえ)の木の信仰は地母神信仰を今日に伝えている。春日大社若宮では、ふだん山奥におわす神が神官たちの榊の枝を伝わって移動する。これら3例には、本殿の建物というものが存在しない。
本殿がないことが原型である神社が、なぜ本殿を持つに至ったのか。神社建築の三大源流に沿って示す。
伊勢神宮の“唯一神明造り”は真御柱(しんのみはしら)の上に仏教建築に負けまいと高床式住宅を被せたもの、出雲大社の“大社造り”も中央の磐根柱(いわねばしら)をカバーするもので、いずれも縄文時代の太陽神信仰に重なる。一方、春日大社の”春日造り”は、神を乗せて運ぶ神輿が起源で、それが固定化したものと言える。
日本のように、地母神、太陽神への古い信仰が残っているのは珍しい。
第五章 青銅器時代から産業革命まで
青銅器時代以降、世界各地では独自の発展を遂げ、共通点を見いだすのは難しい。
古代エジプトでは、オベリスクとピラミッドに太陽神信仰の名残りがみられるが、古代ギリシアでは太陽神も地母神も地位を落としている。古代日本の最高神・天照大神は男神ではなく女神である。マヤやアステカでは太陽神信仰が異常な盛り上がりを見せた。
仏教、儒教、キリスト教、イスラム教が成立すると、世界の建築の共通性は更に乏しくなっていく。キリスト教の教会建築には集中式とバシリカ式があったが、後者が主流となった。仏教建築は正方形から始まり、神聖感を増すために縦長となったが、人員収容の利便性から横長のものが多くなっていった。神社、住宅についても横長がメインとなった。
時代が下るほどに多様さを増した世界の建築だが、大航海時代に風向きが変わる。ヨーロッパ内部ではルネサンス建築――過去に回帰した歴史主義的な建築が増え、外部に対しても土着の文明を征服して歴史主義建築が建てられ始めた。
産業革命の時代に至ると、ヨーロッパによる支配が確立する。鉄とガラスとコンクリートが登場するものの、それは歴史主義建築の補強に終始し、世界はヨーロッパ的歴史主義建築に席巻された。しかし、それらも突如として消える時が来た。
第六章 二十世紀モダニズム
19世紀末に登場したアール・ヌーヴォーを契機に、新たな建築デザインへの渇望が高まり、それはドイツの「バウハウス」に収束した。そこで見出されたのは、鉄・ガラス・コンクリートを用いた、無国籍にして国際的、そして幾何学的な建築だった。その流動性・透明性の実現には、日本の伝統的な建築がインスピレーションとなったという。こうした建築の登場は、人間がその目を外から内へと向けたためと考えられる。
共通の一点から始まり、各地で多彩な展開を見せた建築は、ここに至って再び一つになった。より軽く、より透明にと求めるのが現在の主流だが、それに対する反発もある。
大槻ケンヂ『サブカルで食う』の感想
副題には「就職せず好きなことだけやって生きていく方法」とある。
少し疲れて古本屋を訪れた際、ふと見つけて購入し、その足で昼ご飯を食べに行ったカレー屋で読んだ。筋肉少女帯で知られる大槻ケンヂ氏が、自身の経験を元にサブカル界でお金を稼ぎ食べていく方法について綴った本である。
氏の想定する読者は、「サブルなくん」「サブルなちゃん」――“「サブカル」とかって呼ばれるようなことをやって生きていけないかなとボンヤリ思っている「サブカルなりたいくん」”(白夜書房版『サブカルで食う』p.10)――だという。
大槻ケンヂ氏と言えば、上述の筋肉少女帯の中心人物で、私も世代的にその影響を受けていておかしくないはずだが、残念ながらそれほどは受けていない。「もう少し接しておけばよかったかな」とは、大学生の頃に酔っぱらった先輩がカラオケで「踊るダメ人間」を熱唱しているのを聴いた時に抱いた思いである。
ミュージシャンとしての氏からは影響を受けなかったが、氏の著作は1冊だけ読んだ記憶がある。『行きそで行かないとこへ行こう』という旅エッセイ(?)である。何となく手に取ったのものだったが、面白かった。私が旅に出る際の目的地や旅程の考え方の基準の1つには、この本があるような気もする。氏には何となく怖そうな印象を抱いていたけれど、それを払拭するに足る本でもあった。
面白かったが他の本に手を伸ばすことはなく、そのまま長い時が過ぎた。それが、なぜ再び氏の本を再び手に取ったのかは、よくわからない。
『サブカルで食う』という端的な表現が気になったのか、みうらじゅん氏と同じように「何をやって生きているのか今ひとつ分からない人」がその自家薬籠中を開陳してくれていそうな本ということで興味が湧いたのか。
あるいは、私自身フリーの人間で、サブカルなのかカルチャーなのかよく分からない領域で暮らしているので、「参考になるかもしれない」と無意識に考えたのかもしれない。
ともあれ、久しぶりに氏の文章を読み出した。まずはその概要を示したい。
ちなみに本書は最近になって角川文庫に入ったが、私が入手したのは白夜書房版(上掲の通り、氏の本としては随分さっぱりした表紙だと思う)なので、その点ご了承いただきたい。
概要
第1章 「サブカル」になりたいくんへ
「サブカル」は、歴史的な背景のある「サブカルチャー」とは違う。もっと軽いものである。表現意欲だけが前面に出て、色々やっているうちに成り立ってしまったのが「サブカル」の人々である。かつては「アングラ」と言われ気味悪がられたが、そこに笑いを加わることで間口が広がったと言える。
サブカルで食うには、才能・運・継続が必要である。
第2章 自分学校でサブカルを学ぶ
自分(大槻氏)は少年の頃は身体が弱く、それでアングラに出会った面がある。中学になると、机の落書きを介して知り合った友人と漫画を描いていたが、そのままバンドに取り組むこととなった。ライブハウスで知り合った人々は刺激的だった。
学校では冴えなかったが、その代わりの「自分学校」として、大量の映画を観て、少女漫画を含む漫画や小説を読みふけり、ライブに足を運んだ。
しかし、そうしたものを受容するだけの「プロのお客さん」になってはならない。完成度がいまいちでも、バカになって自分の表現を出すべきである。
サブカル的な仲間に出会いたいという気持ちを叶えてくれたのは、深夜ラジオであり、投稿雑誌だった。雑誌の編集者に電話した際には、テンションが上がり過ぎており、引かれた。
第3章 インディーズブーム~メジャーデビュー
インディーズブームという幸運によって、自分もライブハウス周辺では少し有名になった。が、私生活では大学受験に失敗し、デザイン系の専門学校に通い始めるもドロップアウトする。アルバイトを転々とするものの身につかず、実質的にはニートだった。
そうこうするうち、筋肉少女帯はメジャーデビューが決定する。そのことを親に伝える際は、不意打ち的に切り出した。思考停止状態に陥った両親は、とりあえず了承してくれた。
ラジオ番組『オールナイトニッポン』第1部に抜擢されたが、勝手が分からず何もできなかった。しかし、そこから掴んだチャンスもあったので、何もできなくても諦めてはいけない。
第4章 「人気」というもの
人気が出るということは、突然に多くの人から愛と憎しみを受けることである。すると、よほど野心がある人以外は、自分が何なのか分からなくなる。
そうした時、人間は根本的には悪であるという性悪説的な捉え方をしつつ、良い面も見るようにするとよい。また、ネットでの自分検索(エゴサ)はしない方がよい。
第5章 サブカル仕事四方山話
メジャーデビューはしたが、バンド以外の仕事にも「社会科見学」のつもりで手を広げた。テレビでも”怖くないロッカー”としての枠を得ることができた。テレビに出たい人は、自分がどういうタイプなのか考えるとよい。
映画の現場は苦労が多い。天候や集合時間、初対面の役者との待機など。制作スタッフたちも一筋縄ではいかない。原作者として映画に関わったこともあるが、大変だった。
右も左も分からず書いた初めての小説『新興宗教オモイデ教』は意外と評価された。「とりあえずやってみる」のは大切だと言える。小説を書くには、ラブコメ映画を観て物語の構成を理解するのがおすすめである。散文詩から書き始めるのもよい。継続し、つじつまは最後に合わせればよい。
エッセイの場合は、目標とする著者の書き方――視点や文体を真似する。ネタは外に出て拾ってくる。作詞については、まずタイトルを決め、サビには関連した言葉を持ってくる。筋肉少女帯の「これでいいのだ」は冤罪の歌で、「日本印度化計画」は革命の歌である。
何かを表現することは、相手のニーズを受け入れることでもある。「サブルなくん」「サブルなちゃん」は反感を感じるかもしれないが、自分を裏切らずニーズに応えた表現は可能である。ゲームのようなものと捉えるとよい。場合によっては「何でもオッケー」よりも、そうした制約があった方がやりやすいこともある。
第6章 サブカル経済事情
事務所と契約はよく選ぶべき。いい加減な事務所は本当にいい加減。自分が所属した3つの事務所はすべて潰れた。事務所に所属するなら、月給制+歩合がよいと思う。
サブカルな人は、色々な形で収入がある。本やCDの印税、ライブやイベント、テレビ出演など。それ以外の仕事の報酬額は「ランダム」。金額よりも、充実できたか否かの方が重要になってくる。
第7章 人気が停滞した時は
筋肉少女帯は1999年に活動停止となり、タレントとしても滑ってきていた。人気が下がるというのは、やはりしぶい。意地になって『グミ・チョコレート・パイン パイン編』などの小説執筆に没頭した。
落ち込んでいる時には陰性なものに目を向けるべきではない。特にドラッグは絶対にダメ。思い切り見栄を張るのはよいかもしれない。自分は掟ポルシェをポルシェに乗せる羽目になったけれど。
ライブハウスからやり直し、得るものはあったが、三度所属事務所が倒産した。しかし、ここで筋肉少女帯の再結成という話が出てくる。
第8章 筋少復活! それから
再結成した筋肉少女帯は大型ロックフェスにも出演。観客のニーズに応えられた。また、再結成以前の仕事から繋がって制作したアニメソングがヒットし、かつてのロックのように盛り上がるアニソンの世界にも関わることができた。
ライブは、緊張して当たり前。失敗は付き物だが、観客は敵ではない。観客席に向ける視線などにも気を配る。MCには鉄板ネタというものが存在する。
もしもライブで大失敗してスベってしまっても、ウッドストックでのジミ・ヘンドリックスのように、伝説になる可能性だってある。
第9章 それでもサブカルで食っていきたい
フリーランスとは自由だが、その自由さが辛いという面もある。これに耐えるには、「自分学校」で培った「教養」が必要である。
上手くできない自分だからこそ、他人に担ぎ上げられてやってこれた。若くして亡くなった友人たちもモチベーションに繋がっている。
表現活動を仕事にすると言っても、必ず成功できるわけでもない。だから3回まで、「止め時」を用意しておくのもよい。もしも、それらを超えて止められなかったら、そのままずっと生きていけばいい。