何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

尾中香尚里『安倍晋三と菅直人 非常事態のリーダーシップ』の感想

 久しぶりに大きな選挙があることから、関連する本の一つも読んでみようと思い立って入手し読んだ。他にも政治や選挙を見越した新刊は多く出ているわけだが、特に本書を選んだのは、菅直人政権――民主党政権を再考する視点を備えたものだからである。

 素朴な感覚として、2009年から2012年の民主党政権が“悪夢”であったかは議論の余地があると思っている。無論、まずい点も多々あったのは確かなのだが、社会の活気という意味では、当時の方がまだ勢いがあった気がしている。
 こうした話をする際、多くの場合に基準になるであろう「仕事が順調であるか」は、残念ながら私にとっては適用し難い。というのも、民主党政権時代の私は会社勤めの編集者であり、その後の自民党政権ではフリーランスと、大きく仕事環境が変わったためである。単純に収入という意味では、賞与も貰っていた民主党時代の方が明らかに多いし、肉体的・精神的には現在の方が楽である。

 そのようなわけで、自分以外の様子から当時と現在を比較せざるを得ないのだが、その点からすれば、前述のように現在の世の中は元気がないと感じられる。私の仕事はあまり世の中の景気などに変動しない分野が主なのだが、それでも「お金がないので(ついでに時間もないので)安く上げたい」という話をよく聞くようになった。友人の多くは「昔より生活が厳しい」と言うし、好きだった飲食店のうち結構な数が閉店した。
 新型コロナウイルス感染症の影響が大きいのは確かである。感染者の抑制という意味では、海外に比して日本の状況は良いようにも思われるが、それにしてももう少し、人々の生活をバックアップすることはできなかったのかと思う。

 上記のような「もう少しコロナ対策が上手くできなかったのか」という疑問に、本書はある程度まで応えてくれたように感じた。以下、例によってまずは概要を示したい。コロナ禍が発生して以降の概略として読めるように書かれているようにも思えるので、その点が損なわれぬように心掛けたつもりである。

概要

はじめに

 2020年8月28日、安倍晋三首相(当時。以後すべて役職は当時のもの)は突然辞任を表明した。7年8か月に及んだ政権にあっけなく幕が下ろされた瞬間だった。悲運の宰相を自演するその姿に、筆者は違和感を覚えた。
 毀誉褒貶がある安倍政権の、結果的には命取りとなった新型コロナへの対応と、事実さえ歪めて(安倍氏がメルマガで言及した、「菅首相原発への海水注入を中断させた」という言説は誤報であった)批判・断罪された菅直人政権の東日本大震災および福島第一原子力発電所事故への対応。当時、震災・原発事故への対応を間近で取材してきた身として、筆者は両者の比較を試みたい。

第1章 危機をどう認識したか

 2019年末から2020年初頭にかけて、東京五輪と中国の習近平主席の来日を前に、第2次安倍政権は「桜を見る会」の私物化疑惑で1強体制に陰りをみせた。
 そんななか発生した武漢での新型コロナウイルス感染症の流行に対し、チャーター機を派遣するなど政権の対応には手早いものもあったが、水際対策にこだわり、国内に入り込んだ市中感染に対しては後手を踏んだ。クルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号での感染拡大についても、対応は二転三転した。

 2011年3月11日に発災した東日本大震災を、菅直人政権は政権危機の状況で経験した。震災に引き続いた福島第一原発の事故の状況が官邸に上がってこないことから、菅首相は批判覚悟で現地視察を行い、同所長の吉田昌郎と面談し情報を得た。自衛隊に10万人動員という「無茶ぶり」は、辛くも実現された。
 危機について、安倍政権は「小さくみた」、菅政権は「大きくみた」という違いがあると思われる。

第2章 国民の権利と義務をどう扱ったか

 新型コロナウイルスへの対応に際し、安倍首相は憲法の改正に触れた。しかし、国民への「強権発動」は、現行法制下(2012年に成立した「新型インフルエンザ等対策特別措置法」)でも可能であったことが示唆された。野党は同特措法の適用を求めたが、政府はこれに反し感染症法と検疫法を適用する。これは「新型コロナの市中感染が起きていない」という前提に立ったものだった。
 その後、市中感染は拡大、政府は一度示した「適用外」という認識を翻すために特措法の改正を行い、新型コロナに適用するに至った。野党が適用を求めてから、1か月半近くの時間が経過していた。
 安倍政権は、特措法適用以前の時点で、大規模イベント自粛呼び掛けや小中高校・特別支援学校の臨時休校など私権を制限する措置を、法的根拠のない「要請」という形で求めていた。一方、特措法が適用され法的根拠が備わった後には、同法に基づく緊急事態宣言の発令(=補償を含む様々な対応が必要になる)を、安倍首相は3週間躊躇。しびれを切らした自治体には、独自の緊急事態宣言(法的根拠はない)の発出に踏み切るところも出てきた。
 緊急事態宣言の発令にあたり、安倍首相は「直接の補償は行わない」(4月7日)と発言、国民に求めた行動変容に対し十分な対応だったとは言い難い。
 宣言の延長に際し、安倍首相は政権よりも国民に、その責任を求めたように思われる。さらに、罰則を伴う仕組みや、改憲にも話が及んだ。コロナ禍に対する充分な補償もせず、失敗を国民の責任とし、私権を制限する改憲にすら繋げようという姿勢がほの見える。

 福島第一原発の事故による私権制限も、厳しいものだった。極めて深刻な同原発の状況を受け、菅政権は原子力災害対策特別措置法(原災法)に基づいた原子力緊急事態宣言を、史上初めて発令した。この宣言は、現在(2021.10.30)も解除されていない。
 緊急事態宣言発令に際し、首相官邸ではスタッフ総出で「六法全書」と首っ引きとなった。これは、同宣言下で首相にどれだけの権限が与えられるかを確認するものだった。結果、相当に強い権限があることが確認され、「避難指示」という「強権発動」がなされることとなる。
 事態が悪化し、東京電力が第一原発から「撤退」する意向を匂わせた際、菅首相はこれを一蹴し、政府・東電が一体となった「対策統合本部」の発足を提案した。
 文科省の「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)」を活用できなかったという点は課題としてあるが、第一原発への対応をめぐる多くの「強権発動」は原災法に照らしたものだった。「強権発動」に際して法的根拠を確認し、その発動に対する補償を十分に行ったか否か。その点で安倍政権と菅政権は対照的である。

第3章 国民に何を語ったか

 2020年2月29日、安倍首相はコロナ禍で初の記者会見を行った。長い冒頭発言の最初に来たのは、まず自らの決断のアピールだった。次に突然の一斉休校に振り回される自治体・学校関係者への感謝があり、「緊急対応策第2弾」の説明、そしてようやく亡くなった人や遺族へのお悔やみの言葉が出た。医療関係者への労いは、さらにその後も続いた発言の最後だった。同会見で「責任から逃れるつもりは毛頭ない」とした安倍首相だが、質疑応答の際、フリージャーナリストの江川紹子氏の挙手に答えず会見を終了した。
 緊急事態宣言を発令した4月7日の会見では、政策が失敗し感染が拡大した場合の責任の取り方についての質問に「責任をとればいいものではありません」と回答。同じ会見で「最低7割、極力8割」とした接触機会の削減目安については、あくまで「8割」とした専門家の見解を安易に歪めたものとも考えられる。宣言の延長を発表した5月4日の会見では、延長よりも早期解除の可能性の方が強調されることとなり、国民には「解除近し」の空気が生まれることともなった。
 「37.5℃以上が4日間」という受診の目安を「誤解」とした加藤厚労相の発言からも感じられるが、安倍政権における情報発信とは、第一に成果の誇示であり、責任ははぐらかし、もし責任を問われれば「国民の誤解」にすり替えて転嫁する、という特徴がうかがえる。

 東日本大震災福島第一原発事故に際し、情報が集らない中で菅首相や枝野官房長官は会見を小まめに実施し、国民への呼びかけを重ねた。第一原発1号機の爆発に当たっては、東電や原子力安全・保安院からの情報が共有されないまま会見に臨んだことで「爆発的事象」という造語が生まれることもあった。
 「首相官邸保安院の会見を止めようとした」という言説は、独自に記者会見を開こうとした保安院に対し、官邸が「事前に情報共有せよ」と伝えたことによるものであり、枝野官房長官の「直ちに影響はない」は、切り取らずに発言全体をみれば「直ちに」だけでなく将来的な影響についても否定的なものであった。同時に出荷制限等に対する適切な補償にも言及している。
 避難所を訪れ、豪首相と会談の予定があるため立ち去ろうとした菅首相に被災者の夫婦が投げかけた「もう帰るんですか」という発言が有名になったが、直後に首相は取って返すと夫婦の話を聞き、豪首相との会談は30分以上遅れることとなった。2度目の避難所視察では、避難所の約1,200人ほとんどと菅首相は言葉を交わし、可能な限り一問一答に応じた。視察時間は5時間に及んだ。震災と原発事故という危機において、批判にさらされ、仮に不当なものがあったとしても、受け止めるのが首相の役割であったと筆者は考える。

 新型コロナ禍において、ドイツ、ニュージーランド、台湾の各首脳は、厳しい私権制限を行いながらも適切な情報発信と人々に寄りそう言葉を投げかけ、おおむね支持された。翻って安倍首相はTwitterに投稿した「うちで踊ろう」に合わせた動画で多くの国民の顰蹙を買った。自身がくつろぐ様を見せる動画は他国の首脳も投稿しているが、その前にあるだろう「国民のために真剣に汗を流している」さまが国民に伝わらなかった点で異なるといえよう。

第4章 国民をどう支えたか

 新型コロナ禍におけるPCR検査について、安倍政権は当初、検査能力の拡充ではなく、検査を受ける人数の抑制で対応しようとした。安倍首相は「検査能力を増やす」としたものの、検査の実施件数はさほど増えなかった。首相と厚労省との温度差も考えられるし、この30年で保健所が半減したという長期的な政治の流れによるものとも言える。
 マスク不足に対応して行われた「アベノマスク」も、世帯の人数にかかわらず一律2枚という不適切さで世を呆れさせた。向けられた批判に対して、安倍首相は苛立つばかりだった。マスクには瑕疵も発覚し、ために配布が遅れ、さして重宝もされなかったアベノマスク配布には、466億円の予算が費やされた。
 安倍政権の国民への補償としては、緊急対応策の第2弾で本格化された。しかし、フリーランスへの保障が会社員の半額であろうという根拠不明瞭な差があった(とはいえ、「働き方改革」を言いながら、自営業者やフリーランスに対応した法整備が進んでいないのは、ここで初めて起こったわけではない)。
 特別定額給付金をめぐっては、まず野党統一会派が緊急対策に「ひとり一律10万円以上給付」を盛り込んで政府に申し入れたが、政府与党はこれを拒否し、「世帯限定30万円給付」とした。しかし「条件が分かりにくい」と反発が生じ、「一律10万円給付」となった。麻生太郎財務相高所得者層に対し、暗に給付の辞退を求める発言をした。政府が積極的な利用を呼び掛けたオンライン申請の煩雑さや、自治体に生じた事務作業の膨大さもあって給付は遅れ、さらに経産省の委託先をめぐって中抜き疑惑も取り沙汰された。種々の助成や給付についても、手続きの煩雑さや対応の遅れがみられている。
 緊急事態宣言の解除に際し、安倍首相は「新しい生活様式」と言ったが、それは「コロナに感染しない生活を国民に自発的に守らせ、感染すればそれは自己責任にする(政府は責任をとらない)」という、責任転嫁された緊急事態宣言ではなかったか。

 福島第一原発の事故をめぐっても、原発周囲の住民に対する避難指示と、これに応じた賠償が生じた。対応した仙谷由人官房副長官は、賠償に関する東電の免責を「責任は第一義的に東電にあり」として拒んだ。東電にどれだけ負担させるかで政権内でも議論が交わされたが、賠償の責任主体は東電にあるとした上で支援機構を設立し、賠償資金を政府が支援するスキームを作った。「東電救済」との批判があったが、責任の主体である東電が破綻し賠償ができなくなることを回避しつつ、これまで国が行なってきた原発推進政策の責任も蔑ろにしない形にせざるを得なかった。

 総じて、安倍政権は「補償」を嫌い、「経済対策による支援」を重視し、その経済対策も可能な限り対象を絞り込もうとしたといえる。また、「新しい生活様式」を提唱して国民の自助努力のみに期待し、奏功しなければ国民の責任とした。菅政権の賠償スキームが正しかったとも言い切れないが、被害を過少に見積もらず補償し、全責任を東電に押し付けることもなかった。

第5章 政治の責任をどう取ったのか

 2020年6月18日、通常国会の閉会に際し、安倍首相はコロナ禍が終わったかのような口ぶりで語り、「次なるパンデミック」の備えとして改憲を口にした。しかし、川井克行前法相・案里参院議員の公選法違反容疑による逮捕、黒川弘務東京高検検事長の定年延長をめぐる人事介入疑惑、「イージス・アショア」の配備中止など、政権の失点は重なった。
 そんな中、コロナ禍への対応を念頭に野党は国会の会期延長を求めたが、与党が応じることはなかった。その代わりに与党は10兆円の予備費を2020年度の第二次補正予算に計上したが、これは国会のチェックを経ずに巨額の金を使えることになるとして、問題視された。
 会期延長に応じなかった与党に対し、野党は週1回の閉会中審査(予算や法案を成立させることはできない)を要望、これは了承されたが、安倍首相は出席しなかった。憲法53条に基づき、野党は臨時国会の召集を要求するものの、同条に時間的な規定がないことから安倍首相は無視を続けた。国会閉会中、「Go Toキャンペーン」が前倒しで実施開始されたが、感染者が増加傾向にある東京都について問題視され、都民の旅行と東京都内への旅行は対象外とされた。
 通常国会閉会以降、記者会見から遠ざかった安倍首相の体調不良が、官邸から聞こえ始めると、8月28日、記者会見を開いた安倍首相は、今後のコロナ対策などについて述べ、それから自身の辞任を表明した。その理由は持病である潰瘍性大腸炎の悪化だったが、1か月後には細田派の政治資金パーティーに出席するなど、辞任には疑問が残る。首相への再登板すら言及されるようになった安部氏だったが、「桜を見る会」事件をめぐる不起訴処分について、東京第一検察審議会が「不起訴不当」と議決している。本書執筆時点で、安部氏は検察の捜査を受けるべき立場にある。

 菅首相もまた、東日本大震災福島第一原発事故から5か月半を経た8月26日に辞任している。それ以前、5月6日には浜岡原発の運転停止を行政指導という形で要請した。法的根拠が伴わず、「浜岡以外の再稼働を容認する」との解釈を許さないため、海江田経産相に任せず、自ら会見に臨んだ。浜岡の件とほぼ時を同じくして菅首相は、原発を推し進める「エネルギー基本計画」を白紙に戻すことを決めた。
 自身に対する辞任要求の動きが高まる中、菅首相は第二次補正予算再生可能エネルギー促進法、特例公債法の成立の3点を辞職の目処とする。通常国会は8月31日まで70日間延長され、その間には九州電力玄海原発再稼働をめぐる議論と、最悪の事態を想定した安全調査(ストレステスト)の導入といった動きもあった。前述の3つの目処が立ったことを受け、菅首相は辞任を表明した。
 危機に続く期間、安倍首相は国会を閉じ、菅首相は延長して対応した。また退陣後の政治の方向性について言えば、安倍首相は新たなコロナ対策(「パッケージ」とは言えない刹那的にとどまるもの)を発表するのみだったが、菅首相脱原発依存への布石を打ち、それは一定の実効性を持ち得た。

終章 歴史の検証に耐えられるか

 菅政権は震災に関する15会議中、10の会議で議事録を作成しなかった。このことは岡田克也副総理が就任した際に把握することとなり、出席者の個人的メモや録音などから議事録の復元に努めることとなった。自民党はこのことを口を極めて批判した。
 しかし、新型コロナ禍をめぐる会議では、自民党も同様に議事録の作成を怠った。全体的な「対策会議」の前に、安倍首相や菅官房長官など少人数による「連絡会議」が持たれており、その議事録が存在しなかった。前述の民主党による議事録不作成を受け、国の公文書管理ガイドラインが定められたが、これに基づく「歴史的緊急事態」にコロナ禍が位置付けられ「適切な文書の作成・保存」が求められた19の会議のうち、実際に議事録が作成されたのは対策本部などの4会議にとどまった。「連絡会議」だけでなく、ウイルス対策などの専門家会議の議事録も作成不要とされており、それが出席者の要望であるかのような答弁もあったが、逆に出席者から議事録作成の要望があったことも明らかにされている。
 「記録」についても不備があるが、当事者たちの「記憶」についても懸念される。菅政権を担った政治家たちは、震災と原発事故について、その対応について、鮮明な記憶を保持していた。一方で、既に何ら具体性のない安倍元首相のインタビューからはコロナ禍に対し「自分ごと」として対応した経験をしたとは感じ取れない。他者への批判と自画自賛だけのあるその言葉には不安しか感じられない。

おわりに

 本書の脱稿直前、菅義偉首相も約1年で辞任することとなった。「経済を回す」ことに固執した同政権は、安倍内閣をより悪い形で繰り返した。5人以上の会食を自ら行い、関係者を特別扱いして五輪を開催し、飲食店を狙い撃ちし国民を分断した政策は、人の流れを抑えられず、8月5日には東京の新規感染者は5,000人を超え、コロナ禍による死者数は東日本大震災における死者数を超えた。統治者の「権力の使い方」を注視しなければならない。

感想

 こと政治的な事柄を扱った本については、そもそも「それが事実であるか」という点が問題になることがままある。逐一そうしたことを考えなくてはならないのは、はなはだ閉口ではあるが、感想に入る前に少し検討してみる。
 本書の版元は集英社であるが、同社の政治的立場について、完全に把握するという芸当はできない。ただ、小学館から独立したという経緯から小学館も含めて少し調べてみたが、あまり極端にどうこうという話はないように思われる(少なくとも民主党系など野党寄りとは思えない)。社内に自前で校閲室を置いている集英社でもあるし、作業にあたった編集・校閲・校正者の職業倫理に照らして、事実に基づいた記述であると考えたい。

 ここまで書いてようやく内容だが、まず分量としては、安倍政権のコロナ対応について多くを費やしている。章によってはほとんどが安倍政権についてであり、菅政権の震災・原発事故対応は数ページということもあった。両者の比較という意味では均整に欠けるようにも思われたが、これは致し方ない面もあると思う。菅政権が経験した震災・原発事故は10年前のことであり、書籍という形でもその他の媒体でも、この間かなりの著作物という形で蓄積が存在する。いままた本書で一から記述するのは非効率という判断であろう。
 例えば、私が読んだもので言えば、福島第一原発の事故の経緯については門田隆将氏の『死の淵を見た男』で詳述されている。本書と見比べて記述の食い違いなど探ってみるのも興味深いが、今は割愛する。

 一方で、新型コロナウイルスへの対応については現在進行形であり、蓄積もまだ少ない。その意味では本書は先取的であるとも言えそうである。

 筆者が自民党のコロナ対応に対して抱いた感覚は、私のそれと大きくは異ならなかった。「何か変だな」と感じていたことを、その根底にあったものも含め巧みに言語化してもらった感じである。
 一言に煎じ詰めてしまえば、要するに安倍政権(自民党政権)は誠実でないということになろうか。「誠実さ」――integrityとは、確か『マネジメント』の著者ドラッカーによればマネジャーに絶対不可欠の資質ということだったかと思う。しかも、学ぶことのできない、もともと持っていなければならない資質だとされてもいる(ドラッカーをしっかりと読んではいないので、正確な意味合いではないかもしれないが)。やはり、ある種の正直さは政治家にも必要な資質ではないかと思う。

 他方、菅直人政権(民主党政権)についてはどうだろうか。安倍政権についての言い方に準ずるとすれば、まず誠実な政治家たちだった、と本書を読む限りでは言えるかと思う。
 もちろん、私にしても菅首相および菅政権の言動に疑問点が無いわけではない。前出の『死の淵を見た男』にも書いてあるが、「イラ菅」と綽名された沸点の低さは、政治家としては短所に属するだろうし、震災の数日後、確か仙谷氏だったと思うがテレビで「電力逼迫の可能性がある」と言うので、灯りを消した暗闇の中、こたつ代わりに湯たんぽに足を乗せて個人的な記念日を祝ったことを今も思い出す。
 ただ、彼らが真剣であることは当時も分かった。暗闇の記念日も、コロナで在宅療養をせざるを得なかった人の辛いエピソードに比べれば、今は笑い話の範疇に属するものかもしれない。多少理不尽な目にあったとしても、リーダーが必死であれば「非常時だしな」と受け入れられる、ということかと思う。

 ところで、今でも原子力緊急事態宣言が解除されていない(本書p.113)というのは、本書を読んで改めて認識したところである。先述の通り発生から10年が経過し、コロナ禍もあって忘れられてしまった感もあるが、福島第一原発の事故もまだ現在進行中であることは心に留めておきたい。
 この29日未明にも、福島第一原発の汚染水発生を遅らせるための凍土壁が「融けている可能性がある」との報道があった。今度の選挙で政権がどうなるかはまだ分からないが、次政権は引き続き、コロナと共にもう一つの緊急事態にも注視していかなけれればならないのだろう。

 本書について、おおむねプラス評価なことを書いてきたが、以下では多少マイナスな面について記す。
 まず、特に安倍政権のコロナ対応について、時間軸が錯綜してわかりにくい点が挙げられる。章ごとに切り口を変えて両政権を対比しているわけだが、各章は単純に時系列に沿って並んでいるわけではない。同時期の様相を別の切り口(例えば国民に何を語るか、どう支えたか)から見ているため、本の記述としては「時系列を○○まで戻そう」という文句が頻出する。幾度も同じ映像を巻き戻し再生して、その度に異なる部分に注目させられるようなイメージである。
 構成上、致し方ないとは思うものの、何か全体としての把握し辛さはやはりあった。「各章で扱う時系列」のような図表があれば、どの時点でどのような問題があったのか整理しやすくなるのかもしれない。

 また、本書のタイトルは「安倍晋三菅直人」と首相個人を対比しながら、文中では枝野官房長官や加藤厚労相など、他の閣僚の言動についても記載が盛り込まれていた点も気になった。この“「首相個人」か「政権全体」か”という点で、著者も少し書きにくさを感じたのではないかと思う。副題に「リーダーシップ」と入れていることであるし、すっぱり両首相の言動だけに絞った方がよかったのかもしれない。

 最後に、本書を読む機会となった選挙についても、少し書いておこうと思う。
 民主党政権を再考する本書を読んだとはいえ、民主党系の政党が議席を席巻すればいい、とは私は考えていない。自民党にもその他の政党に対しても、それは同様である。
 では選挙の結果がどうなればよいかといえば、複数の政党の勢力が拮抗した状態が望ましいと考える。思想の異なる勢力がせめぎ合っている中、それでも多数が妥当と感じる意見や法案が通るというのが、議会というものの利点ではないかと思うからである。

 ただ、そうした諸党拮抗の状態を、現在の日本で狙って作るのは難しいだろう。現実的に個人としてできるのは、政党名だけにとらわれず、自分が妥当と感じる候補に票を投じていくことしかなさそうである。

 時に「誰に入れるのが正解か分からない」という戸惑いの声を聞くこともあるのだが、だからといって投票しないということでは、いつまでも進展しないと思う。
 そもそも正解など無い気もする。ただ、自分が投票した人間をその後も経過観察し、正解だったか失敗だったかを確認しておくことは有効だろう。場合によっては、その人間に働きかけて「“正解”にする」ということだってできるかもしれない。
 あるいは、「政治や選挙というのは社会の中の一握りの人間が関わるもので、自分のような者には高級すぎる」という認識を持つ人もいるようである。しかし、国会で行われていることも、本質的には小学校の学級会と変わらず、それほど敷居が高いと感じる必要はないのではないかと私は思う。
 「休み時間にボールを使いたい人たちの間でどう順番を決めるか」とか「風邪が流行っているのでお互いにうつさないようにしましょう」といったことと国会で決めていることの間に大きな差異があるとは思えない。だから、まずは投票にも学級委員を決めるくらいの気持ちで足を運べばいいのではないだろうか。
 私にしても、デモに参加するのは何だか気が引けるし、候補として出馬するのはお金も時間もかかる。ロビイストになるなど更に困難と思われる。結局、一般人としては投票に行くくらいしかできないのである。その機会は、できるだけ活用した方がよい気がする。

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