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門田隆将『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発』の感想


(2017年1月読了)

 実に久々になってしまったが、今年1月に数日間で読了した本から再スタートといこう。またぞろ止まってしまうことも大いに考えられるのだが、時間が許す限りは変わらず“かつて読んだもの”と“いま読んだもの”を混在させて更新していきたい。
 本書は、今年の年始に実家に挨拶するため帰省した折、父が読んでいたのを借りて少し読み、読み通したくなったので自分で入手した。福島第一原子力発電所の大事故をめぐるノンフィクションである。
 同所所長だった吉田昌郎氏の名前が副題として付されているが、内容としては、同所のスタッフ達、地元住民、政府関係者、自衛隊員など、吉田氏以外の人物に取材した部分も多く、福島第一原発の事故全体を俯瞰した著作と言ってよいだろう。
 もともと2012年11月に単行本として刊行されていたが、昨秋になって角川文庫に入り、それで読む人が増えたことと思う。
 全22章と細かく章分けされているので、それを逐一示すことはせず、全体について私なりの概要を示したい。本文に倣って敬称は略す。また、役職等も当時のものである。

概要 

 2011年3月11日。福島第一原子力発電所所長の吉田昌郎は、所長室で被災した。揺れが収まるとすぐさま免震重要棟の緊急時対策室(緊対室)へ駆けつけ、緊急対策本部の本部長として、勤務する人員と原子炉の安全のための指揮をとることとなる。
 地震に次いで予想外の大津波が襲来、非常用DG(ディーゼル発電機)が水没し駆動不能となったため、事態は致命的なものとなる。SBO(Station Black Out)――全交流電源喪失。原子炉を冷却するための機器を動かす電源が、確保できなくなったのである。
 電源が喪失状態に陥る中、吉田は原子炉冷却のため、消防車で水を入れることを考え、手配する。原子炉1号機、2号機を操作する中央制御室(中繰)では、当直長の伊沢郁夫により、現場へ行く際の基本方針が定められ、非番の当直長たちも集まりつつあった。しかし、制御盤の表示も消えている状況では、電源復旧の方法を探りながら、ともかく原子炉に水を入れ続ける方法を模索するしかなかった。
 既に放射能測定器が放射能漏れの可能性を示すなか、スタッフたちの懸命の努力が続く。決死の覚悟で原子炉建屋に突入し、ポンプが動くか確かめ、手動でバルブを開き冷却水の注入ラインを確保したとき、時刻は午後8時ちかくになっていた。

 地震発生と津波により、元大熊町長の志賀秀朗は着の身着のままで避難を余儀なくされた。無論、それは志賀だけでなく全ての地域住民に襲いかかった。「福島民報」富岡支局長・神野誠が見た被害の光景は、壮絶なものだった。
 地震発生から10時間が経過し、「線量増加」が東電幹部を焦らせていた。テレビ会議ヨウ素剤を服用すべきか否かについて煮え切らない返事しかしない本店に対し、吉田は怒りを爆発させる。

 原子炉に水を注入し続け、格納容器を爆発させないためにベントを行う。その方針に沿って、吉田は津波で押し寄せて貯まっていた海水を注入することを決める。しかし、福島第一原発にあった消防車3台のうち、損害がなく動かせるのは1台のみ。消防車の確保が次の課題となる。
 経済産業省池田元久副大臣らが現地入りし、現地対策本部が発足する。しかし、電源喪失のため、原子炉のあらゆる数値は計測不能のままだった。海江田万里経済産業大臣はベント実施の会見をするが、ベントをすると判断するのは政府か事業者たる東電なのか、解釈がバラついていた。会見で耳慣れぬ用語に記者らが困惑し、同時に事態の深刻さを胸に刻む中、世界初の本格的ベントの準備は進められる。
 原子力安全委員会斑目春樹委員長は、ようやくもたらされた情報が示す深刻さに驚くが、現場の状況を推測し、フィード・アンド・ブリード(注水しつつ蒸気を逃がす)を提唱するとともにベントの必要性を説いた。次第に入ってくる情報は、どれも想定を超えて悪いものばかりで、1号機が“空焚き”になっていることは間違いなかった。圧力上昇する格納容器を破裂させないためには、ベントを急ぐしかなかった。
 緊迫が強まっていく1号機、2号機の中繰では、手動によるベントの準備が進められていた。誰が危険な現場に行って、ベントをするのか。必要以上の志願者たちが手を挙げるのに、申し訳なさと有り難さを覚えながら、伊沢は人員を決めていく。基準は、比較的年齢が高く、職責が高い者だった。恐怖を“何か”で克服し、ベント実行メンバーたちは重装備を整えていった。

 12日未明、池田元久は、菅直人首相が現場にやってくるという報告を受け、驚く。震災・津波の被害からの人命救助に大わらわの現地に首相が来る意義は乏しく、また原発についても官邸から指示した方がよいのではないか。居合わせた東電副社長・武藤栄も同感だった。周囲が困惑するまま、官房長官の枝野に全権委任をし、菅は斑目らとともにヘリに乗り込む。
 菅の現地入りには、吉田も困惑した。注水とベントに頭を絞り、装備も限られた中で首相を迎えることはロスでしかない。
 福島へ向かうヘリの中では、斑目が事態の深刻さを菅に説明しようと試みたが、“イラ菅”とあだ名される菅に封殺された。現地に着くなり、菅は武藤にくってかかり、汚染検査に対しても怒声を発する。
 菅と相対した吉田が状況を説明すると、ようやく菅は落ち着き、池田が差し出した福島第二原発についても「原子力緊急事態宣言」を発し、避難指示を出す書類を決裁した。菅らが乗ったヘリが宮城方面に飛んだのは、午前8時過ぎ。彼らが首相官邸を飛び立って2時間ほどが経過していた。
 のちに、現場を混乱させたとして、菅の現場訪問は非難された。菅は訪問の理由を、筆者(門田)に対し、“ベントが進まないことの説明が官邸では得られなかったため(星見による要約)”と答えている。菅にとって、現場で吉田に話を聞くまで、納得できる説明が得られなかったということになる。

 郡山市に駐屯する陸上自衛隊第六師団隷下の第六特科連隊に、消防車派遣の準備をせよという命令が下ったのは、3月11日の夕刻。吉田所長の発案が要請という形で届いたものだった。危機の迫る原発への出動という任務に、これまでとは違う思いを抱き、隊員たちは福島駐屯地の消防車とも合流、福島第一原発へと向かった。現場の状況に改めて驚きながら、隊員たちは一号機への注水・冷却に従事する。
 菅らが去った直後、吉田はベントは午前9時開始を目標とするよう指示した。それまでイメージトレーニングを繰り返していたベント実行メンバーたちは、淡々と原子炉建屋へと向かう。第1陣の2人は企図したバルブを開き、無事に帰還した。しかし、第2陣では、線量計が振り切れ、撤退を余儀なくされた。

 12日明け方、富岡町の災害対策本部では、福島第二原発の広報担当から、ベントとそれに先行する住民避難について説明が行われていた。7時前に避難指示が町内に放送され、14時のセシウム検出の報を受け、町長ら幹部だけが残った災害対策本部は現地での機能を失った。
 内部からの手動ベントが不可能と分かり、吉田の指示で「外」からのベント――コンプレッサーで空気を送り込み、ベントができないか――が検討される。内部からのベントを再チャレンジすべく、第3陣が覚悟を決めて建屋へ向かった時、スタック(排気筒)から上がる白い煙が発見され、ギリギリのところで第3陣は引き返す。
 この白い煙こそが、空気圧によるベント成功を示すものだったが、まだそうと知らない中繰は重苦しい空気に支配される。中繰に居る意味はもはやない。しかし、自分たちが中繰から去ることは、発電所も地域も見捨てることになる。万感を込めて伊沢は若い運転員たちに残ってくれと告げ、他の当直長たちも頭を下げた。
 その時、突如として爆音が発電所を襲った。12日15時36分、1号機が水素爆発を起こしたのである。爆発の衝撃により、免震重要棟の渡り廊下の天井は崩壊。以後、汚染状態での活動を余儀なくされる。給水活動を続けていた自衛隊の渡辺秀勝曹長は、驚きながらも怪我人の手当てにあたり、続けて海水注入の作業に入る。
 しかし、海水の注入について、官邸から「待った」がかかる。海水注入について再臨界などの懸念を斑目が口にしたのに対し、政治家たちが過剰反応したためだった。吉田はテレビ会議上では注入停止を聞き入れながら、実態は海水注入を継続させた。
 過剰な介入だったのではないかとの指摘に対し、菅は法律が想定していた緊急事態の甘さ、それゆえの機能不全に官邸が出ざるを得なかったと反論する。しかし、それによって官邸が混乱していたことは、映像と音声に残されている。
 1号機建屋の爆発を受け、伊沢は中繰から若い運転員たちを退避させた。残った“年寄り”17人の1人、吉田一弘は「最後だから」と各人の写真を撮り始めた。
 やがて吉田所長の指示により、中繰は5人ずつの交代勤務へと切り替わる。地震当日の朝に中繰に入って以来、外に出ていなかった伊沢は、上部が吹き飛ばされた1号機建屋を見て、爆発の凄まじさに驚く。さらに、免震重要棟内のあらゆる所に倒れ、うずくまっている人――協力企業や女性など、戦争でいうところの“非戦闘員”――の多さにも驚くとともに、何かしら心強いものも感じていた。

 14日午前11時1分、ふたたび轟音が響いた。3号機が水素爆発を起こしたのである。福島第二原発での支援を切り上げ、第一原発へやってきたばかりの陸上自衛隊中央特殊武器防護隊や、東電関係者らも爆発の被害を受け、緊対室の吉田が把握できない行方不明者は一時40人に達した。結果的にこの数字はゼロとなり、死者は出なかったが、吉田は作業を命じた自分の判断を後悔する。交代で中繰に詰めていた担当者は、死を覚悟していた。
 3号機の爆発により、海水注入を行っていた消防車やホースが大破したが、幸いにも代替策が見つかる。一方、2号機は内部の圧力が上昇し、注水できなくなるという致命的事態が出来していた。一進一退の状況が続き、3日間不眠不休の吉田は、現在の作業に直接関係の無い者の避難を口にする。座り込んだ吉田の脳裏に去来するのは、“一緒に死んでくれる”仲間たちの顔だった。
 「東京電力が福島第一から全員撤退したいと言っている」。15日未明にそんな連絡が入り、官邸は驚愕する。東電の清水政孝社長は「制御に必要な人間を除いて」という言葉を使っておらず、そこから生じた誤解だった。
 全てのプラントの暴走を許せば、福島第一から半径250キロ以内、およそ5000万人が避難対象となる。菅らが清水に直接確認すると、「撤退など考えていない」との答え。不信感をつのらせた官邸は、政府・東電が一体となった統合本部を東電本店に設置することとした。
 菅はテレビ会議の映像を通じ、福島第一や対策本部など各所に対して統合本部の設置を宣言する。しかし、「逃げてみたって逃げ切れないぞ」など現場を理解していない言葉は反感を買うことになる。「逃げ切れない、とは日本自身のこと」と菅は当時の発言を振り返っている。

 15日午前6時過ぎ、衝撃音とともに2号機が爆発した。「必要最小限の人間を除いて退避」と吉田は命じる。自分は今ここに必要か否か――この曖昧な命令の判断は、各人に任せられた。
 生と死の瀬戸際に、ある若い者は「残る」と言って説得されて出て行った。ベテランでも出て行く者がいた。防災安全グループの佐藤眞理は、緊対室に残っていた若者たちを説得し、避難させる。緊対室の円卓に残った69名の人員は、佐藤には死に装束に身を包んだ神聖な者たちに見えていた。
 残った人々はしかし、死ぬと決めたわけではなかった。食べ物を探し、ヨウ素剤と一緒に摂って作業に臨む。とはいえ身体はボロボロだった。仮設トイレの小便器は、皆の血尿で赤く染まっていた。
 69人では、注水作業の人員が不足していた。一度は避難したが、徐々に現場に戻る人が増えていく。それに、消防車を運転したり水を補給するノウハウも充分ではない。周囲から消防車は集まってくるが、被曝を恐れて近づいてこれない。
 消防のノウハウがある協力企業・日本原子力防護システム(JNSS)の阿部芳郎は苦悩する。すぐにも第一に行って支援したいが、JNSSの社長が社員を危険な場所に向かわせられないと判断したことも理解できる。電話で作業のやり方を教えながら、阿部は社長に懇願する。翌16日、社長はついに阿部に福島第一に行く許可を出す。危険な現場に向かうのに、阿部は社長に感謝していた。
 そんな人々の奮闘に、状況は一進一退を繰り返す。物資が近くまで来ているのに到着しない。そんな孤立無援の中で現場の作業は続いた。
 まさに根比べだった。原子炉以外に核燃料保管用のプールが損傷している可能性もあり、予断は許されない。
 東電は改めて自衛隊に支援を要請。空と陸から、放水を試みることとなる。ヘリで、消防車で、放水が実施される。重装備に身を固め、消防車に乗った隊員は、線量計のアラームが鳴り響く中、屋外に立って自分たちを誘導する東電の人間を見て畏怖の念を抱く。
 自衛隊による幾度もの放水、福島第一原発の復旧班と消火班、その他多くの人員の協力によって、福島第一原発の冷却は進んでいった。

 混迷する現場の状況の中で、スタッフたちは家族との連絡を試みていた。
 死んだと思われていて半ば驚きとともに再び通話できたことを喜ばれた者がいた。その人物が涙を流したのは、震災から5か月後、動物たちにまで迷惑をかけたことを自覚した時だった。
 たまたま通じたメールによって遺言に等しい言葉を送った者がいた。誰もが、家族の深い愛を知った。

 一方、津波によって帰らぬ人となったスタッフもいた。生死も分からない子を待つ間、家族や友人たちが折った折り鶴は7000羽にもなった。故人の父は、行方不明者2名を出しながら仕事を続け、今また故人の話をしに自分たちの所へ来てくれた現場の仲間たちに敬意を表した。

 所長である吉田が自宅に戻れたのは、4月になってからだった。高校の頃から仏教に興味を持ち、座右の書は道元の『正法眼蔵』。達観した死生観を持つ彼がステージⅢの食道癌の宣告を受けた時、震災から8か月が過ぎていた。
 11年12月初め、既に所長の職を辞した福島第一原発の緊対室で、吉田は挨拶した。後に「チェルノブイリ事故×10」と自らが表現した福島第一原発最悪のシナリオを回避するため、状況に向き合い続けた吉田に対して、万雷の拍手が起こった。

感想

 まずはよく書かれていると思う。巻末の解説で福島県いわき市出身の社会学開沼博氏も指摘していることだが、多くの人が関わり、高度に専門的でしかも政治的な側面のある事故について1冊の本にまとめ、しかも興味深く読み続けられる――身も蓋もなく言ってしまえば面白い――というのは大したものである。
 東電副社長の武藤氏や、当時首相だった菅氏、原子力安全委員会斑目氏など、なかなかマンツーマンで話を聞くのが難しそうな人物にも突っ込んだ取材をしたと思われる点にも敬服する。突然あらわれた立場が違う人間(しかも胡散臭く思われることも多いノンフィクションライター)に、自分の心情を話すというのはなかなか抵抗があると思うのだが、その抵抗を、著者はどのように払拭できたのか。
 もちろんそれまでの実績によるところも大きいのだろうが、秘訣があるというのなら教わりたいくらいである。人に語ってもらうのと、人に原稿を書いてもらうのは本質的には同じことだと思う。

 難点など何も無いようにも思えるが、屁理屈との指摘を覚悟で敢えて挙げてみたい。
 吉田昌郎氏の名前をタイトルに付けているが、プロローグとエピローグに伊沢郁夫氏を持ってきたのは何故かという気がするのである(だから、上記の私なりの要約ではその辺りは省略している)。伊沢氏が地元出身であることを考えてのことかもしれないが、そういう構成が、「はじめに」にある「ただ何が起き、現場が何を思い、どう闘ったか、その事実を描きたいと思う」(文庫版p.8)という、フラットな気持ちで企てられたノンフィクションの中に、フィクション的なものを持ち込んでいるような気がしないでもない。
 フィクション的といえば、著者が直前に手がけていたのが太平洋戦争関連のものであったためか、やたらとこの震災と事故を戦争になぞらえ、それに対応する人々の英雄譚に仕立てるような書きぶりが目に付いた。吉田氏らは確かに立派だが、それを戦争での活躍に重ねるのは、安易ではないだろうか。逆に陳腐になりかねないような気がするが、どうか。
 ただ、こうした点は、前述の興味深さとトレードオフでもあろう。予めそのつもりで読めばよいのかもしれない。
 著者の本の中では、他に『なぜ君は絶望と戦えたのか』を本棚に積んでいる。同じような雰囲気の記述になっているか、それを確かめる意味でもいずれ読みたいと思う(読んだ→当該記事)。

なぜ君は絶望と闘えたのか―本村洋の3300日 (新潮文庫 か 41-2)

なぜ君は絶望と闘えたのか―本村洋の3300日 (新潮文庫 か 41-2)

 

 本の内容について直接的なことはここまでにして、「死の淵を見た男」である吉田氏について考えてみたい。彼の経歴や人となりは、周囲の人間が語る形で語られている。男気と包容力のある現場指揮官であったようである。
 目を引くのは、原子核工学という理科系の極致のような領域を専攻し、ボート部所属というスポーツマンでもありながら、高校生の頃から仏典にも通じていたということである。原子炉に「ふげん」や「もんじゅ」と命名するのに、まさか吉田氏が関連したとは思えない(比較的新しい「もんじゅ」にしても、吉田氏が東電に入って3年目くらいの頃に着工されている)が、原子力業界と仏教には、不思議な縁があるような気がする。
 吉田氏が親しんだ仏典として、文中に登場するものでは「正法眼蔵」「般若心経」「法華経」がある。いずれも岩波文庫などで読むことができ、私も「般若心経」は資料(というか積読というか)として本棚に置いている。
 同じ岩波文庫では、残る「法華経」は厚めのもので全3巻、「正法眼蔵」は全4巻と大部である。手を付けるならば、やはりまず「般若心経」からであろう。岩波文庫では「金剛般若経」と併せた1冊となっており、「般若心経」だけならば註まで精読しても数時間で読めると思う。

現代文訳 正法眼蔵 1 (河出文庫)

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般若心経・金剛般若経 (岩波文庫)

般若心経・金剛般若経 (岩波文庫)

 
サンスクリット原典現代語訳 法華経(上)

サンスクリット原典現代語訳 法華経(上)

 

 そのような御仏の教えで死生観を培い、未曾有の原子力事故への対応を指揮した吉田氏は、2013年7月9日に亡くなった。58歳という享年、その直接の死因となった食道癌の解釈は色々であろう。本書で直接的に語られた以外にも、事故後に氏の直面した困難は多かったろうと思われる。
 「震災以前の段階で吉田氏が事前に対策をとるように動いていれば、こんな事故は起こらなかったのではないか」という言説には頷ける面もあるが、大きな組織の中で「かもしれない」で物事を動かすことの難しさについても理解できる気がする。英雄視せず、文中で本人も言うように「ただのオッサン」と吉田氏を見るならば、その労苦には、やはり「お疲れ様でした」と言いたい。

 また、この事故と吉田氏を扱う上で避けられないのは、2014年5月になされた朝日新聞の報道の件であろう。
 改めて当時の記事を検索などして読んだのだが、この件について朝日新聞は、やはりひどいと思わざるを得ない。その辺りのことは「文庫版あとがき」(p.484~487) で軽く触れらているが、著者は別の1冊にまとめてもいる。

「吉田調書」を読み解く 朝日誤報事件と現場の真実

「吉田調書」を読み解く 朝日誤報事件と現場の真実

 

 戦前・戦中の新聞記事の例を持ち出すまでもなく、新聞社を初めとするマスコミが事実を報道しているとは限らない。そのことは記憶し続けねばならないだろう。
 ただ、それを頭ごなしに否定することで、そうした体質が変わるとも、私には思えない。それに、大量の情報を(比較的)正しく処理して多くの人に伝えるという点で、マスコミを凌駕し取って代わるような代物が、今後ただちに生まれてくるとも思えない。ならば、「メディアは嘘をつく」という前提をもちつつ、接触するのが大切ではないだろうか。
 加えて、気になるものがあれば、流れ作業で処理されるものではない、本書のような情報にアクセスすることも重要だろう。
 本件についての朝日新聞に限らず、事実と異なる報道は相応の数あるのではないかと思う。本書にしても真実を本当に描ききっているかどうかは担保できないのだが、それでも、複数の当事者の肉声に、複数の立場からアプローチすることなしに“本当のこと”には近付けない気がしている。
 “何が本当で、何が本当でないのか”という観点から気になっているのは、この6月に出た新潮新書フェイクニュースの見分け方』である。同書では、本書(『死の淵を見た男』)が批判的に吟味されている箇所もあり、著者が朝日新聞出身であるという点も含め、興味深い。

フェイクニュースの見分け方 (新潮新書)

フェイクニュースの見分け方 (新潮新書)

 

 事故後、友人とともに一度だけ晩秋の福島県を訪れたことがある。「うつくしま、ふくしま。」と謳われる福島の秋は、各所に設置された線量計を気にしなければ、やはり美しかった。
 それは、高村智恵子がその空に恋しさをつのらせ、古川日出男の想像力を培い、野村美月“文学少女”を生み出すこととなった清冽な感性を育んだだろう美しさだった。

智恵子抄 (新潮文庫)

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馬たちよ、それでも光は無垢で (新潮文庫)

馬たちよ、それでも光は無垢で (新潮文庫)

 
“文学少女”と死にたがりの道化 (ファミ通文庫)

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 本書の後半で、防災安全グループの佐藤眞理氏が、事故から5か月ほど後、地域に住んでいる自然や動物に対する申し訳なさに涙を流す場面が描かれている。政治や経済や科学やイデオロギーについて、人によって考えが異なることは当然あるだろう。しかし、彼女の涙は、最大公約数たりうるのではないかと思う。

死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発 (角川文庫)

死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発 (角川文庫)

 

 

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