阿部和重の名を、学生時代にとある教師から教えられた。その教師には別段共感するわけでもなかったが、常日頃は批判的なその教師があまり褒めるので、どんな作家かと思いデビュー作を読んでみることにした。以下、まずはあらすじ。
あらすじ
分裂した自我である「私」こと「S」は、「私」が規定し仮の名前を与えたもう1人の自己である中山唯生について物語る。
唯生は、地方出身の唯生は上京して入った映画学校を卒業し、さし当たっては定職につかず、アート系の若者が集まるS百貨店の多目的ホールで映画や美術展の受付や会場警備のバイトをして暮らしている。多くの芸術系の若者と同じく、唯生は「特別な存在」でありたいと願い、フィリップ・K・ディックの『ヴァリス』をヒントに“世界に闇・俗がもたらされる時期の始まりの日”である秋分の日生まれである自分がいかにして「特別な存在」となるかを考えるため、バイト中も読書に精を出してはブルース・リーの截拳道について独自の考察を繰り広げるなどしていた。
映画学校時代からの付き合いで、バイトも同じだが唯生は「敵」と認識している武藤が、唯生がその「異様なほどに緊張感に満て」いる演技に心惹かれるツユミと唯生を主役に映画を撮ると言い出す。「気違い」となることで「特別」になろうと考えていた唯生は、セルバンテスの『ドン・キホーテ』を読み、「特別な存在」であろうとして日常を跳ね除け、気違いとすら言われるも周囲を自身の「物語」に巻き込み、やがて日常へと還ったドン・キホーテと、絶えず主人を懐疑的に見、眠りと死の比喩でその最期を予見したサンチョ・パンサの関係を読むうちSと自分だけで「気違い」を実現するのは不可能ではないかと考える。唯生=Sは自分自身で対話し、武藤の映画でツユミと共演し、そこで「気違い」となり「小春日和」的な日常に対し緊張感をもたらすことを目指すことにする。
役作りのためトレーニングを重ねる唯生だったが、バイト先で武藤の映画作りに参加する「ガキども」の嫌がらせに対し何ら「特別さ」を発揮できずに敗北する。「気違い」とは「成る」ものではなく「起こる」ものだと合点した唯生は、バイト仲間で出演者でもある喜代美が武藤の横暴な監督ぶりに怒るのに乗じ、奇抜な格好に身を固めて映画の撮影現場に乗り込む。居丈高な武藤に対して初めて唯生は激昂し、撮影は唯生の優位に進もうとするが、自販機を壊して小銭と中身を盗んでいた「ガキども」を截拳道で叩きのめして警察が駆け付けたことで、それきりになる。
唯生は警察の厳重注意を受け、武藤の映画は恐らく頓挫し、Sホールのバイトは唯生以外全員辞めてしまう。大西巨人『神聖喜劇』を手掛かりに、唯生は再びドン・キホーテが「騎士」から「人間」へと還ったことや、截拳道が鏡の前で「型」から「日常性」を取り戻すことについて考えるが、堂々巡りのような気がした。
夜、唯生はビデオで以前一度観た映画を再び観ようとするが、タイトルを見てはっとする。映画のタイトルは『アメリカの夜』。その言葉は、昼間に夜の情景を撮影できる――すなわち闇が光を駆逐する「秋分の日」的な――撮影技法を意味していた。
Sと唯生はただの人間であることを受け入れ、「秋分の日」的なものを擁護する闘いを続けようと決断する。「特別な存在」へと向かう意思はこうして崩壊し、虚構である唯生はSに別れを告げカメラと共に世界へ旅に出て、残されたS――私は文章を書く。
感想
もって回った書きぶり(どうも小説というよりはテクスト批評のような趣である)が読み始めの頃はだいぶうざったいのだが、半分を超す辺りからはこちらが慣れたこともあるし、展開が地に足をつけ始めるので読み通すことができた。全体の1/3くらいは、「春分の日」と「秋分の日」、「特別」と「日常」といった対立項が様々に言葉を変えて繰り返される形式となっているので、しっかりと読む際にはメモなどしておくと良いかもしれない。
多くの映画や小説について言及されているが、とりわけブルース・リーの『魂の武器』、フィリップ・K・ディックの『ヴァリス』、セルバンテスの『ドン・キホーテ』、大西巨人の『神聖喜劇』は作品の根幹に関わるものだろう。ただし私はこのいずれも未読である。それでも意味は何とか理解できたので、必ず読まなければならないということにはならないだろう。しかし、いずれも興味深いので、以降の本選びに活かしたいと思う。
ソウルファインティング 魂の武器―截拳道への道 ブルースから全ての闘う男たちへのメッセージ (1980年)
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- 作者: セルバンテス,Cervantes,牛島信明
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自分が「特別な存在」ではないか、という自信というか思い込みというか判然としない感情は、芸術を志す人だけでなく多くの若者に共通する気持ちではないだろうか(映画レビューなどを読むといわゆるシネフィルにはそういう傾向が強いようにも思うけれど)。実際、私もそう思っていたし、ともすれば今でもそういう思いから完全に自由になったとは思えない。なので、唯生の考え方や振る舞いは、かなり痛々しく感じた。
ただ、痛々しいだけでなく、からりとした雰囲気でもあるので、あまり陰湿な感じでもない。場面によってはむしろ軽快なコメディ調にも思われ、笑った。
この、“「特別な存在」を志向する”というのは、“何もない日常が嫌だ”という思いと通じるだろう。そういう意味では先日の滝本竜彦『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』(当該記事)と表裏を為すように感じるのだが、どうだろうか。
ちなみにタイトルの元となっているフランソワ・トリュフォーの『アメリカの夜』も自分は未視聴である。
この映画もまた(というか、阿部氏の小説がそれに倣ったということなのだろうけれど)、作中映画『パメラを紹介します』の撮影現場を描いた作品なのだという。阿部氏の小説では撮影現場のシーンは30ページ足らずだが、この映画では終始現場が描かれるようで、単純に興味深い。そこまで映画に入れ込んでいるわけではないが、これはいずれ観ると思う。