何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

竹島由美子・山口文彦『虹を追うものたち』の感想

 


(2004年8月読了)

 先日の石隈利紀『学校心理学』(当該記事)と同様、仕事の資料として読む。この本の解説を書いた福岡教育大の教授(当時。現在は学生時代を過ごされた広島で教鞭を執られている模様)である高田清先生とお会いした際にお勧めされたものでもある。

概要

 素行不良だったり無気力だったりした高校生達が、演劇や厳しい国語の授業を通して変わっていく様子を描いたものと要約していいだろう。国語科教師で演劇部の顧問でもある竹島氏が、とある私立高校の特進コースから普通コースに移った1994年から始まり、途中からもう1人の著者で文藝部顧問の山口氏が不登校生徒の作文をみるなど関わり始め、さらに竹島クラスの国語の分担指導を始め1年が過ぎる2002年までが主たる内容である。
 足掛け9年の記録なので、もちろん途中で生徒は代替わりしている。当初はなんらかの問題を抱えていた者が、演劇や国語の授業を通して変わり、卒業したのちもOBとして現役の指導に当たるという好循環が成り立つという辺りが指導実践として画期的とされたのだろう。

感想

 舞台を創ることで、関わった者が変わっていくということは、私の高校時代の若干の演劇経験からしてもあり得ると思う。ただ、読んだ当初は単に「これはすごい」とだけ思ったのだが、演劇や国語の指導だけが特別なのか、というと、現在の私はそうシンプルには考えられない。
 例えば2人の著者が理系で、ロボコンと理科を通した実践であったのならどうだろうか。自己を確立し、他人と深いコミュニケーションがとれるということが目標だとするならば、多分それでも生徒の“変革”は有り得たのではないかと思う。もちろん本書も1つのケースとして捉えれば立派なものと思うが、著者2人の書きぶりに文学・演劇への信奉が感じられ、その点が気になったのである。

 とはいえ、タイトルにある「虹を追うもの」についての示唆的な記述もあいまって、教師以外の読者もなかなかに読ませる本だと思う。メインの著者である竹島氏は演劇の脚本も書くだけあり、なかなかの文章家である。特に前半は山口氏も登場せず、「特進」から「普通」に移ってきたばかりの竹島氏と「特進」に比べれば荒くれ者ぞろいの生徒との掛け合いが続く。この辺りは、場所が南福岡の学校で方言が飛び交うこともあり、ちょっと往年の学園ドラマのようで面白い。
 対して後半で厳しい国語授業を展開する、若手の山口氏による部分は、やや情緒にかけるか。しかし安倍公房の「赤い繭」や芥川龍之介の「藪の中」を用いた厳しい授業は興味深い。
 例えば「赤い繭」ならば「なぜ「赤い繭」なのか」「なぜ最後に繭は娘でもなく、他の場所でもなく、息子の玩具箱へ入れられたのか」といった疑問について生徒が自力で考えるというものである。ただ1つの解答があるものではないのだろうが、私は即答できなかった。卒業間際に自由課題として課せられる、「藪の中」の犯人が誰なのか論じる「最終レポート」も、本気で取り組まなければ(あるいは本気で取り組んでさえも)この先生から「合格」は貰えないだろうと思う。

壁 (新潮文庫)

壁 (新潮文庫)

 
藪の中 (講談社文庫)

藪の中 (講談社文庫)

 

 これはこれで完成された本だと思うのだが、1つだけ気になることがある。それは、生徒たちにある意味での狡さを教師が教えていないということである。
 いかに自己を確立し、明瞭な言葉で意見を交わせても、世に横行する狡さの前に不条理を被ることが有り得るのではないだろうか。世の中にはそういうことが存在する、と教師が伝えるのは大切なことだと思う。
 それをせず、情熱だけで自己が変革できるという説一本で推し進めるのは、「自己変革」をお題目に社員を追い込む、ある種の企業が行う“情熱系研修”のようであまりいい気持ちがしない。これはこの本に限った話ではなく、学校教育全般に関わることだが、生徒に厳しさを突き付けるのであれば、そこまで教えなければ嘘ではないのか、というのが、再読した私が新たに感じたことである。

虹を追うものたち―授業と演劇を通して自己変革をめざした生徒たちの軌跡

虹を追うものたち―授業と演劇を通して自己変革をめざした生徒たちの軌跡

 

 

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